祝福の意義と価値 目次

第一章 神の創造理想と結婚


 一 アダム・エバ・天使長の創造

 神は全知全能であり、絶対的存在であるにもかかわらず、なぜ被造世界を創造する必要があったのでしょうか。それは愛を得るためなのです。天宙を創造された神であっても神ご自身だけではつくり出せないものが愛です。愛は、対象がいなければ現れませんから、いかに全能の神といえども、自らの力だけではどうすることもできません。そのために愛の対象として被造世界を創造されたのです。それゆえ真の愛の前には神も屈伏せざるをえません。いわば神以上の存在が真の愛だということもできるのです。

 神は被造世界を創造されるに際し、完全投入されました。完全投入すなわち百パーセント以上投入するときに、はじめて自己以上に価値ある存在としての真の愛が現れるのです。こうして、神は百パーセント以上投入することによって、創造された人間を中心として、絶対的な愛の理想を実現しようとされたのです。

 神が最初に創造されたのは天使長でした。天使長は霊的基準における神の相対圏として、人間が創造されていく段階ごとに、賛美、感謝、協助を通して、神に刺激と喜びを帰する立場で創造されたのです。

 その次に人間すなわちアダムが創造されました。アダムが本来のアダムとして成長し完成していくためには、アダムの誕生前から天使長が侍り、誕生した後はアダムが結婚するまで保護育成していくという天使長の協助が不可欠でした。この天使長が天使長としての使命を果たすことができなければ、アダムはアダムとなりえなかったことからみれば、神は天使長と共にアダムを創造したということができます。したがって、アダムは神の理想を完成していく立場であると同時に、天使長の理想をも完成していく立場です。また神の目的だけでなく天使長の目的をも成就していく位置に立っていました。

 ところで、神がアダムを創造された目的は、外的には神の体としてアダムの中に神が直接臨在して天宙を主管していくためであり、内的には神の愛する子女として創造されました。この愛する子女との間に愛の理想を実現していこうとされたのでした。

 そして被造物の中で最後に創造されたのがエバでした。神とアダムと二者の関係のみであれば、一方向のみの往復運動、一人の活動に終始しますから、何ら新たな展開が生まれてきません。神の理想は縦的理想にとどまってしまいます。そこには永遠性もなければ、実体化も不可能です。神の愛の理想を横的に展開し、実体化するにはアダムの相対がどうしても必要となります。

 そのために創造されたのがエバだったのです。それゆえ、エバを横的代表と呼ぶことができます。神の対象としてアダムがつくられ、そのアダムの相対としてエバがつくられました。このアダムとエバの愛の関係によって、神の永遠の愛の実体圏、理想圏の実現が可能となるのです。神の対象に立つ者が相対圏をもつとき、はじめて神の創造の業が展開されるようになるため、すべてのものが二性性相となっているわけです。


 二 アダム・エバの成長期間

 (一) 男性と女性の存在理由

 神は全人類の男性と女性が、ほぼ同数になるように創造されました。そのことからみても男女が無関係につくられたのではないことが分かります。男性と女性はそれぞれ相手のために存在するように相対的関係をもって創造されたのです。男性が男性の姿を持って生まれたのは男性のためではなく、女性が女性の姿を持って生まれたのも女性のためではありません。男性は女性に出会うために生まれ、女性は男性に出会うために生まれたのであって、それが最高の真理なのです。

 男性と女性を比較してみると、肉体や性格において互いに反対になっており、相対的につり合っています。例えば男性の筋肉は硬くてごつごつしていますが、女性の筋肉はやわらかいし、男性はひげが生えますが女性は生えません。男性の声は低く、女性の声は高く、骨格を見ても女性は腰の骨が大きく肩巾が狭いのに対し、男性はその逆になっているといった具合です。性格においても男性は冒険を好み、活動的で能動的であるのに対し、女性は概して安全と平和を好み受動的だといえます。

 ですから一人の男性がいくら美男子で筋骨たくましく地位や財産、権力があるといっても、女性がいなければその男性の存在する意味がありません。自分の容姿や筋肉美、知識などに酔って生きる男性は、どこにも使い道のない陰険な存在となってしまいます。

 このことは男女の生殖器官についても当てはまります。それは自分のためのものではなく、相手のためのものなのです。男性のものの主人は男性でなく女性であり、女性のものの主人は女性ではなく男性です。それゆえ、主人を差しおいて自分の思いのままに扱ったり誤用したなら、愛を間違った者として審判を受けなければなりません。

 このように、男性は男性の持つ目的を果たすためには女性と共になさなければ不可能であるし、女性もまた男性と共になさなければその目的を果たすことはできないのです。


 (二) アダム・エバの愛の成長

 神はアダム・エバの創造にあたって完全投入されたため、アダムとエバは成長とともにその心が神の方向に向かい、神との間に縦的心情関係が結ばれていくようになっていました。あたかも、親が子にすべてを投入すれば、成長とともに子の心が親に向かうのと同じです。

 人間はこの縦的心情関係をベースとして自然界を教科書にして、さまざまな知識を身につけ真理を悟っていったのです。りんごの落ちるのを見て引力を発見し、鳥が飛ぶのを見習って飛行機を発明したように、自然界は私たちに必要なすべての知識を提供してくれます。注意深く自然を観察すれば、そこに神をも見いだすことができるのです。自然は人間が成長していく過程において最高の教師だといえます。そうした中でも自然界が私たちに提供してくれる最高の教材は、愛の教材です。

 きれいな花を見れば花を大切にし、保護してあげたいという愛の心が育つし、かわいい動物を見れば愛の刺激を受け、かわいがり何かを与えたいという心やいたわりの心が啓発されます。動物の親子の世界にはもっと高度な犠牲的愛の世界も見いだすことができます。親鳥が巣立ちを前にしてひな鳥に危険が迫れば自らの命をなげうってでも子を守ろうとするし、鮭は産卵のため体を傷だらけにしながらも川を上り、産卵して死んでいきます。アダムとエバはこのような自然界を通して愛をはぐくみ成長していくようになっていたのです。

 さらにアダム・エバは同じ神から創造された者として、成長とともに兄と妹としての兄妹愛が育つようになっていました。アダムはエバを妹としていつくしみ、エバはアダムを兄として尊敬し慕い、二人の間に兄妹愛の伝統を立て、愛が成熟していくようになっていたのです。個人としての人生の目的は、まさしく愛を十分に成長させることにあるということができます。


 三 アダム・エバの結婚と愛の完成

 アダム・エバが個性完成、すなわち愛が十分に成熟した段階を迎えるようになったとき、互いに異性としての愛の衝動を受けるようになります。それまで兄と妹という関係であったものが思春期という時を迎えると、異性として感じるようになっているのです。だれが教えなくても心が体に命令するのと同じく、神が心の中におられてアダムとエバが異性として因縁を結ぶ動機となり、神が関係を結んでくださるのです。神がアダム・エバの仲人になるというわけです。

 このようにアダムとエバは個性を完成した後に初めて、異性として愛し合うようになっていました。思春期を迎えて異性に対することのできる資格を備え、天地と調和していける責任を担えるときに初めて男女の愛の因縁が始まるというのです。

 アダムとエバにおいていかに素晴らしい愛の対象をもったとしても個人において十分に愛が成熟していなければ、その愛は不完全な愛とならざるをえないことはいうまでもありません。個人の愛が十分に成熟して、しかも理想的な愛の対象を持つとき、そこに理想的な愛が現れてくるようになっているのです。これがアダムとエバの本来的な結婚でした。この結婚によってアダムとエバは愛を完成するのです。すなわち完成的な愛を味わうようになるのです。

 ところで神の愛の対象はアダムだけではなりえないし、エバだけでもなりえません。アダムとエバが完成的な愛で一体化したとき、すなわち理想的夫婦となったとき初めて、神の愛の対象の位置に立つことができるのです。それゆえ、この世界のすべてはペアシステムになっているのです。

 アダムとエバが夫婦として本来の夫婦愛を完成するとき、神は初めて愛の対象を持ち、ご自身の愛を体験されると同時に神の愛が現れるのです。これが神の愛の完成です。いかに神が愛の主体であり、愛に満ちあふれているといっても、愛する対象がなければ神の愛は現れる術がありません。

 このようにアダムとエバは結婚することによって愛を完成し、そこに神の愛が顕現して、神の愛が完成するようになっていました。神の最高傑作品としてつくられたアダムとエバが神を中心として愛するならば、その愛は最高に美しい愛であり、愛の中でも代表的な愛であり、永遠に輝くことができる愛なのです。それが「夫婦愛」なのです。


 四 本然の家庭と創造理想の完成

 アダム・エバが結婚し、絶対的な愛によって一体となって理想的な夫婦となった後に、子女を持たなければなりません。いかに理想的な夫婦であっても夫婦だけでは、現在はあっても未来がありません。未来がなければすべてが終わってしまうのです。その理想が永続するには子女が絶対に必要です。

 アダム・エバの夫婦愛すなわち横的愛と、神との縦的愛が一致して子女が誕生するとき、その子女にとってアダム・エバは横的父母の位置に立ち、神は縦的父母の位置に立ちます。すなわち、その子女はアダム・エバの子女であるとともに、神の子女の位置に立ちますから、神の血統を相続した子女となり、ここから神の血統が出発するのです。

 すなわち無形の愛の主体であられる神は、アダムとエバが夫婦愛を完成したときに実体のアダム・エバと愛で連結され、その神の愛と一体化した実体のアダムとエバから実体の子女が誕生するときに初めて、神の血統がスタートするようになっているのです。この血統は子々孫々に自動的に相続され、この血統を通して神の心情と愛が相続されていくのです。

 今日の人間社会においても血統のつながった子女に対しては、親の心情と愛が自動的にわいてくるのは、そのためなのです。ここにおいて、縦的父母である神に横的父母であるアダム・エバが一致するとき、アダムとエバを「真の父母」と呼びます。すなわち神の縦的愛と父母の横的愛が一致するとき、アダムとエバは「真の父母」となることができるのです。

 アダムとエバの場合は、夫婦となって愛を完成して初めて、神と愛によって連結されるようになっていました。しかし、その子女の場合は血統がつながっているので、生まれたときから両親と愛の心情関係が結ばれています。アダムとエバの絶対的な愛の圏内で生まれた子女は、平和な愛の垣根の中で育つようになるので、たとえ未完成期間であっても堕落することはありえないのです。そして、アダムとエバは神と一体化しているから、子女も神の心情と愛を血統を通して自動的に相続するようになっているのです。

 人間は完成しないと無形の神とは相対できません。不完全なものは完全な神と相対的な関係を結ぶことはできませんが、実体の父母とならば、たとえ未完成であっても関係を結ぶことができます。理想的夫婦となったアダムとエバの子女は結婚するまでは未完成であるけれども、神の愛と一つになった実体の父母がいるから、神の愛に包まれて育つことができるのです。

 こうして神から出発した愛が、夫婦という「中間駅」を通して子女に伝達され、その子女が結婚してはじめて、父母との間に絶対的な上下関係が成立するようになります。父子の間に完全な心情と愛の関係が結ばれてこそ、理想家庭が成立するのです。これが四位基台の完成です。

 神の理想完成はアダム・エバの理想を完成することであり、それは家庭理想の完成でした。この家庭を基地として、神の永遠の愛の理想が展開されていくようになるのです。

 神によって創造されたすべての被造物が、アダム・エバの家庭を通して神と絶対的愛の関係を結ぶようになるとき、それが神の創造理想の完成となるのです。絶体的愛を中心として神も人も天使も万物も完全一体化するのです。

 無形なる神と有形なる被造世界は、本然の愛によってのみ関係を持つことができます。しかし、人間以外の被造物は独自で愛を完成することはできませんから、愛を完成したアダムとエバを「仲保」としてはじめて、神と愛の関係を結んでいくことができるのです。それゆえ、愛を完成した家庭なくして、神の創造理想が成就できないことはいうまでもありません。家庭理想は正しい結婚なくして不可能ですから、アダム・エバの結婚と神の創造理想の完成は不可分の関係にあるといえるのです。


 五 本然の男女の愛と結婚の意義

 以上のようなアダムとエバの立場からみるとき、本然の男女の愛はどのようにして生じ、結ばれていくのでしょうか。女性はいくら美男子と出会っても、また男性がいくら美人と出会っても、最初から異性として感じてはいけないのです。まず兄弟姉妹と考えなければなりません。兄弟姉妹が最も近い関係だからです。自分の最も尊敬する兄弟あるいは最も慕わしい姉妹という関係をつくらなければなりません。そのような兄弟姉妹の関係以上にもっと近い、もっと自分のために尽くしてくれる、慕わしく感じることのできるところから一人の相対が生まれるのです。

 だから兄弟姉妹という関係を抜きにしては、理想相対は生まれてこないのです。人にとって異性との出会いの出発点は女性であれば父親であり、男性であれば母親です。ここには異性としての感覚は完全に越えています。女性について言えば、理想的な父の愛を受け、真の娘として育って父を愛し尊敬していきます。次の段階として理想的な兄の愛を受けた妹として、兄を慕い愛していくようになります。男性は理想的な母の愛を受けて、真の息子として育って母を愛し尊敬していきます。そして理想的な姉の愛を受けた真の弟として姉を愛していくようになります。

 異性に対するとき、このような父や兄の延長体として、また母や姉の延長体として異性を感じなくてはなりません。そして妻、あるいは夫を迎えて、異性の愛の関係を結んでいくというのが本来の姿です。それゆえ、独身時代は異性に対して兄妹以上の感情を持ってはならず、兄妹の感覚を越えてはいけないのです。多くの人と兄妹としての関係を結び、その中で一番近く一番慕わしく一番尊敬できる一人の人が相対の位置に立っていくのです。異性として最初から愛し、愛されるのではなく、父母の愛、兄姉の愛を受けることによって、息子、娘として父母に対する愛、弟、妹として兄や姉に対する愛を誘発させた上で、それ以上の愛に連結できる、より高い愛の道を展開していくことが可能となるのです。それが「男女の愛」であり、「夫婦愛」です。

 したがって一般に考えるように男女の愛は父母の愛、兄弟愛と異質のものではなく、むしろその延長線上にあり、父母を愛する愛、兄姉を愛する愛がさらに高い異性の愛、男女の愛として展開していくようになっているのです。

 このような男女の愛として転換されていく時が、二十歳を前後した思春期です。この時期は一生に二度とない愛の花が咲く時期であり、天地の調和の中で男女の美しさが最もよく現れる時期であり、神の傑作品としてきらめく絶頂の期間なのです。この期間は最高に感情が誘発されるため、すべてのものに接して因縁を結ぶことができます。人間として最高の時期であり、一生で一番貴い青春時代に相対を探していくようになっているのです。神は男女が華やかな青春の時期に、幸福の宮殿への関門として結婚という祝福をしたのです。

 ところで、愛は一人ではなすことができません。必ず相対的基盤を通してなされるのですから、愛は「私」から出てくるのではなく対象から出てくるものです。相対が愛の主人であるから、相対のために尽くさなければなりません。相対のために百パーセント以上投入するときに真の愛が出発するということを考えれば、相対のために尽くす程度に比例して愛は高くなるといえます。一般的に男女の愛は「私」から出てくると考えがちです。私が好きなタイプ、私の欲望に適う人との間により高い愛が生じると考えがちですが、そうではないのです。

 では男女の愛の終着点はどこでしょうか。究極的に一体化できるのは、愛の器官すなわち生殖器官によるのです。肉体の細胞の一つ一つが一体化し、さらに霊人体までも百パーセント一つになしうるものが愛の器官です。この愛の器官が、愛を中心として霊肉共に完全に共鳴してひとつになることができる通路となるのです。人間にはさまざまな器官がありますが、どれひとつとして重要でないものはありません。その中でも最も重要な器官が生殖器官なのです。なぜなら、他の器官は個体を維持、成長させるためのものですが、生殖器官は夫婦を霊肉共に一体化させるということに加えて、次代の生命を創造する器官であり、自己の血統を次代に継承させる器官であるからです。神の創造目的実現に不可欠な器官であり、神が創造されたものの中で最も神聖なものです。それゆえ、これを汚したり乱用することは、神の創造理想を破壊する行為となるのです。

 愛で完全に一つになった夫婦は、霊界では夫の中に妻が、あるいは妻の中に夫が完全に消えてしまうのです。そのとき神の完全な対象となるから、神と同化するのです。それくらい一つになりうるというのが夫婦です。その愛の終着点が愛の器官であって、それを可能にするのが「結婚」です。だから結婚はまさに愛の完成を意味します。また結婚は愛の完成のためにあるといえます。結婚がなければ人間世界に愛というものは始まりません。兄弟愛とか親に対する子供の愛は、成長途上の愛であって、愛が愛として結実するのが夫婦愛です。

 男女の愛は夫婦愛以外には存在しないし、結婚を抜きにした男女の愛は存在しないのです。結婚によってはじめて神の愛とつながります。だから兄弟愛と夫婦愛は次元が違うのです。兄弟愛の上に夫婦愛を結ぶことによって、この夫婦愛に神の愛が現れます。だから結婚は、男女がより高い次元の神の愛の圏内にジャンプするためにあるということができます。いかなる美人も、神の愛を因縁づけてくれる男性がいてこそ価値があります。

 この結婚によってのみ、神の愛を相続することができます。同時に神の創造権と主管権を賦与され、宇宙の価値と対等の作用圏をつくるようになるのです。神の全権を相続するのが結婚ですから、まさしく結婚は神から最高の祝福を受けることだといえるのです。


 六 アダムとエバの堕落

 しかしながら、アダムとエバは堕落してしまいました。堕落というのは結婚に失敗したと表現することができます。

 神はアダム・エバを中心として、神の愛の理想を実現しようと計画されました。そのために神はまず天使長を愛し、心情とみ言で育てました。天使長は神から受けたみ言と愛をもって、アダムとエバを神の方向に向けて、お互いに兄弟として一つになっていけるように育て、アダムとエバの愛が成長して結婚するまで仕え導くべきでした。そのために神は天使長を最初に愛されたのです。

 こうしてアダムとエバが結婚して夫婦愛を完成し、神の愛と一致するようになれば、神に代わってアダムとエバが天使長を神の愛で主管するようになっていました。天使長はアダムとエバから神の愛を百パーセント受けることが可能となっていました。それが天使長の理想であり、天使長の完成位置であり、天使長にとって最高の喜びを得る道であったのです。

 ところが天使長は、神の創造理想が人間を通して成就するようになっており、地上天国の愛の中心としての地位がアダムに約束されていることを知るようになると、アダムに代わって天使長自身が中心になって愛の理想を実現したいと願うようになりました。愛を動機として創造されたものとして、愛の理想を成就したいと願うのは本性といえるでしょう。

 しかし、いくら天使長が願ったとしても、天使長には愛の理想を成就する道がありません。それが天使長の創造された位置です。自分の位置というものを自覚して、死守していかなければならなかったのです。

 ところがアダムに代わって神の愛の理想を実現したいと願うようになり、対象的存在としてのエバを誘惑して夫婦の愛の関係を結んでしまいました。天使長と夫婦愛を結んだエバは、その愛でもってアダムと一つになりました。そのことによってアダムは神の愛を中心とせず、エバが天使長と結んだその愛をもってエバと夫婦愛の関係を結び、家庭を出発するようになったのです。

 エバと天使長は、本来ありえない関係をつくってしまいました。そこにおいて生まれてくる愛は、本然の夫婦愛とは似ても似つかない、非原理的愛であったことはいうまでもありません。堕落はこのように、非原理的な愛の関係を結んだところに生じたのです。非原理的であることの理由は次のとおりです。

 第一はアダムとエバが、未成熟な段階に夫婦愛の関係を結んだ点です。アダムとエバは愛が十分に成熟した後に、自然に兄妹愛から異性愛に転換されていくようになっていたのですが、愛が未成熟段階で夫婦の因縁を結んでしまったのです。

 第二に最初に、夫婦の因縁を結んだ相手が、天使長であったということです。天使界には夫婦という関係は存在しません。エバはその天使長と夫婦愛の関係を結びました。

 第三に、次にエバはアダムと自己中心的な夫婦愛の関係を結びました。それはエバが二人の夫を持ち、二つの夫婦愛の関係を結んだことを意味します。

 本来男女の愛は、一対一の関係において生じるべきものです。愛の方向性は一つであって二つではありません。しかしエバは天使長とアダムという、二つの愛の方向性を持ってしまいました。一対一の愛の関係に第三者が侵入する立場に立ったため、愛は破壊されてしまいました。

 以上の点において、非原理的愛の関係を結んだのが堕落だったのです。


 七 堕落の結果

 天使長と非原理的な夫婦の愛の関係、異性の愛の関係を結んだエバは、そののちアダムと実体的に夫婦の因縁を結ぶようになりました。そのことによってアダムは、神の息子という位置を失って、エバと天使長の堕落した愛に主管された悪の息子として生まれた立場に立ちました。そのアダムがエバと悪の夫婦、悪の父母となって、全人類を堕落した天使長の子女、すなわちサタンの血統の子女として生み出すようになったわけです。

 堕落の結果、非原理的な位置に立つことによって、神との縦的心情関係が断絶してしまいました。神が堕落行為に干渉されなかったということは、神が相対できない位置に立ってしまったことを意味しています。神との関係が切れてしまっただけでなく、代わりにサタンが入り込んだのが堕落です。次に、愛が未完成のままの非原理的関係を通して結実してしまいました。

 サタンを中心とした非原理的な夫婦愛が、人間社会においてスタートしたのです。本来ならば神を中心とした原理的な夫婦愛が、最初に出発すべきであったのですが、その夫婦愛をサタンが奪ってしまいました。み言にも「自分の思いで愛すればサタンが相対し地獄へ行く」、「愛の領域をサタンの死亡圏が支配した」とあります。

 本来の夫婦愛なら身も心も希望と喜びに満ちあふれて、花が早春を待ち望むように愛することができたはずです。しかしエバは喜びながら天使長を愛したのではなく、良心の呵責を受け、不安と恐れを抱きつつ、天使長の誘惑にひかれていったのです。アダムとエバも同じです。細胞が朽ち果て、心情が朽ち果てた立場で顔をしかめながら愛したというのです。

 夫婦愛とは最高の愛です。兄弟愛より近くて慕わしくて、もっと喜びと希望に満ちた愛であるということを考えると、天使長とエバ、エバとアダムが結んだ愛は本然の夫婦愛ではありえないということが分かります。愛の根拠地は私ではなく、相対にあるので、その愛を見いだすためには相手のために犠牲にならなければなりません。

 しかし、天使長は自分の欲望でエバに対していったし、エバとアダムの関係も自分の欲望から出発しました。自分の欲望から出発して異性の愛を結んだのですから、そこにおいて本然の愛が生じるわけがありません。愛は私からというのはサタンが利用してきた言葉であり、まさしく愛を破壊するサタンの戦略です。

 今日、思春期を迎えた息子や娘は、父も母も関係ない、兄も姉も必要ない、私の好きなとおりにやるのが一番だと主張して、父母が知らない間に恋をして堕落していくのです。これは堕落によってまかれた種からくるものであり、本然の愛を破壊するものです。神を中心とした愛は永遠を基準としていますが、サタンは瞬間的なものを基準としています。せつな的な愛を求め、その愛がさめると、別の愛の刺激を求めていこうとするのです。自分から出発した愛は時の経過とともに破壊されていくから、次々と新しい愛の対象を求めて転々とせざるをえません。これがサタンを中心とした愛です。

 堕落の結果神の血統を出発することができず、サタンの血統が出発するようになりました。そして、神との血統が切れてしまうことによって、心情も愛も切れてしまいました。本来ならアダムとエバの子供から神の血統がはじまり、その血統を通して、神の心情と愛が自動的に相続されていくようになっていましたが、神との血統が切れることによって心情も愛も切れてしまい、それを相続する道がなくなってしまったのです。そして、人間は堕落した天使長の立場に立つようになり、本然の位置を失ってしまいました。天使長も堕落してサタンとなって天使長の位置を失い、万物も人間が本然の価値を失うことにより、神の愛を受ける道が閉ざされてしまいました。さらに、神ご自身においても人間を失うことによって、その権能を現わす道がなくなり、神も神としての位置を失ったのです。

 こうして、神、人間、天使、万物すべてが本然の位置と価値を失ってしまったのが堕落であったわけです。アダムとエバが結婚に失敗したことが本然の愛を破壊し、家庭を破壊し、神様の創造理想を破壊してしまったのです。

 今日の青少年の性の乱れの増大は、このエデンの園で間違ってまかれた罪悪の種を、世界的に刈り取らなければならない時期がきていることを意味しているのです。


 八 復帰摂理の目的

 では神の永遠の愛の理想を復帰していくには、どうすればよいのでしょうか。家庭理想を実現できなかったために神の創造理想を失ったのですから、本然の家庭基準を復帰することによってはじめて、神の愛の理想を立てることが可能になります。だから国とか世界を求める前に、家庭が問題となってきます。したがって、復帰摂理の中心目的は家庭にあるといわざるをえません。統一教会が家庭を求める教会だと言われるゆえんがそこにあります。

 ところで本然の家庭基準を立てようとすれば、結婚が問題になってきます。いかに正しい結婚、神を中心とした本来の結婚をなすか、それが祝福という問題にかかってくるのです。



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