祝福の意義と価値 目次
第二章 血統転換のための家庭復帰摂理
アダムとエバの堕落によって、そこから生まれた全人類はサタンの血統を受け継いだ子女の立場に立ってしまいました。本来ならば神の血統を相続することを通して、神の心情と愛が自動的に相続されていくようになっていたのですが、血統が切れることによって心情も愛も切れてしまいました。この社会においても、血統を通して生まれた子供に対しては親の情とか愛が自動的につながりますが、他人の子供に対してはそうはいかないのです。
したがって、再び神の心情と愛を相続しようとすれば、血統の転換が先決問題となってきます。サタンの血統を転換して、切れてしまった神の血統をもう一度結ばないかぎり、神の心情と愛を復帰する道はありません。それゆえ、血統転換をいかになすかということが、歴史の重要なテーマとなってくるのです。
もともと、神の血統はどのようにして出発するようになっていたかというと、本然のアダムがエバと正しい結婚をして、真の夫婦となり、真の父母となって真の家庭を築いて、そこから誕生する子女から、神の血統は出発するようになっていたのです。その子女の生命の種はアダムですから、本然のアダムが現れないと神の血統を出発する道はありません。この本然のアダムの位置に立つかたがメシヤです。
しかしながら、堕落したエバからは原罪のある、サタンの血統の子女しか生まれるすべのない中で、いかにして無原罪のメシヤを生み出すことができるのでしょうか。神は、サタンの血統が出発するようになったのと逆の経路を通して、蕩減復帰していかれました。サタンの血統が出発するようになった経路をみると、エバは天使長と非原理的な夫婦の因縁を結ぶことにより、胎内まで汚れ、その堕落したエバとアダムが非原理的な夫婦愛を結ぶことによって、アダムの中の種まで汚れるようになりました。その汚れたアダムの悪の種が汚れたエバの胎に宿って誕生したのが、サタンの血統の子女としての全人類です。その堕落した人間を通してサタンが全世界、霊界までも占領するようになったのです。
例えていえば、甘柿が渋い段階で結実してしまい、その渋柿の畑をサタンが支配するようになったということです。この状態から元に戻していくには、逆の経路をたどって、まずサタンが占領している悪の世界の中から神側に立つ善を分立して、善を出発させていかなければなりません。サタンがすべての渋柿の畑を支配するようになった状態から、神の側に渋柿の畑を取り戻すという摂理が第一段階として必要になります。
サタン世界の中に善を出発させた基台の上に、第二段階としてエバの胎中までさかのぼって汚れた胎を聖別し、血統を交差させる摂理を行わなければなりません。すなわち渋柿そのものを甘柿に転換していくのです。さらに、胎中で血統を転換した基台の上に、第三段階として本然の種、無原罪のアダムを復帰する道を開くことができるのです。
一 ヤコブを中心とした家庭復帰摂理
堕落がなければ、いうまでもなく善のみが結実したはずです。かといって堕落して完全な悪になったという訳ではありません。もしそうならば復帰は不可能といえるでしょう。堕落によって善悪が混じり合うようになったのです。しかも悪で結実しましたから、善悪が逆転して悪が先行し優勢な立場に立つようになったので、全体を悪が支配するようになったのです。
こうしたサタン圏の中で善を出発させるには、善悪を分立し、善の側に悪の側が屈服して、善悪転換するようになれば可能です。神はこのような摂理を堕落したアダムの家庭においてカインとアベルを立てて成そうとされました。しかし、悪の側に立った兄のカインが、善の側に立てられた弟のアベルを殺害することによって、善悪転換できず、善を出発させることができなかったのです。
二千年を経て、このカイン・アベルと同じ摂理的位置に立てられたのがエサウとヤコブでした。創世記第二五章以下によれば、エサウとヤコブは双子の兄弟で、エサウが兄、ヤコブが弟でした。父イサクが鹿の肉が好きなため、狩猟者であったエサウを愛し、母リベカは穏やかな性格のヤコブを愛しました。本来ならば兄エサウがイサクの家庭を相続する立場でしたが、母リベカは弟のヤコブが継ぐことを願いました。
父イサクが年老いて目が見えなくなったとき、イサクはエサウを呼んで「私の好きな鹿の肉を取って料理を作っておくれ。そうすれば主の前で祝福しよう」と言いました。それを聞いていた母リベカはヤコブに子やぎを取ってこさせて、イサクの好きな肉料理を作りました。そしてエサウの晴れ着をヤコブに着せ、手と首に子やぎの皮をつけさせ、その料理を持ってイサクの所へ行かせました。
イサクはヤコブにさわって「声はヤコブの声だが手はエサウの手だ」と言いながら、ヤコブを見分けることができず、長男として祝福しました。その直後にエサウが狩りから帰り、鹿の肉の料理を持っていってイサクに祝福を願いましたが、もはやヤコブに祝福を与えてしまった後でしたので、イサクはどうすることもできませんでした。
エサウはヤコブが偽って長男の祝福を奪ったことを知ってヤコブを恨み、殺そうと心の中で誓いました。リベカは人づてにそのことを聞いて、ハランに住むリベカの兄ラバンのもとにヤコブを逃れさせました。ヤコブはラバンのもとで二十一年間苦役をなし、その間、十回ラバンからだまされました。
しかし、ヤコブはこの怨讐の立場に立つラバンを屈伏させてその娘と結婚し、さらに家畜を産みふやして財産を復帰し、再びカナンに帰ってくるようになりました。
そのことを聞きつけたエサウはヤコブを殺そうとして四百人の手勢を率いてきましたが、ヤコブは苦労して得た財産の半分をエサウに分け与え、七拝して仕えることにより、エサウを屈伏させました。その後ヤコブがカナンの地のイサクの家を継ぎ、エサウは山の方へ行って住むようになったのです。
こうして善の側に立つ弟が長子権を復帰して、兄に代わって家を相続するという善悪逆転してサタン分立した善の家庭基準が歴史上初めて立ちました。ここから、イスラエル選民圏が出発するようになったのです。
しかし、血統は母の胎中から出発するのであって、ヤコブがエサウを屈伏させたのは四十歳だといいますから、ヤコブには依然として原罪が未清算のまま残っており、サタンの血統であることに変わりはありません。サタンの血統圏にありながら、サタンを分立させて神側に立って、善を出発させたのがヤコブの勝利圏でした。
渋柿でありながら、神側が管理する渋柿の畑として取り戻した立場がヤコブの家庭なのです。このヤコブの善悪闘争の勝利の基台の上に立って、胎中にまでさかのぼって善悪闘争を展開し、胎中からサタン分立する血統転換の摂理が行われるようになるのです。
二 ユダを中心とした家庭復帰摂理
創世記三八章を見ると次のように記されています。ヤコブの四男であったユダに三人の息子が生まれました。長男をエル、次男をオナン、三男をシラといいました。
ところで、長男エルは異邦人のタマルと結婚しましたが、若くして神の前に不法を働き死んでしまいました。そこでユダはタマルを次子オナンと再婚させて長男の子を得させようとしましたが、オナンは子供が生まれても自分の子とならないのを知っていたので、快く思わず、地に漏らしてしまいました。そのことが天の前に悪となって、オナンも若くして死んでしまいました。
そこでユダは「シラが成人するまで未亡人として実家にいなさい」と言ってタマルを帰しました。しかし、シラが成長したにもかかわらず、その妻にされないことを知ったタマルは、ある時遊女を装って道端でユダを待ち伏せしました。ユダはわが子の妻とは知らずタマルと関係を持ち、彼女は身ごもるようになりました。そのときタマルは知恵を使って、ひもと杖と印をユダから預かりました。
三か月ほどたって、ひとりの人がタマルが姦淫によって身ごもったことをユダに告げました。ユダは「タマルを引き出して火で焼き殺せ」と命じました。当時、姦淫を犯した者は死刑と定められていたからです。引き出されたタマルは「私はこれを持っている人によって身ごもりました。これがだれのものか、見定めてください」と言って、先ほどの三つの証拠物を差し出しました。ユダはそれを自分の物であると認め、「タマルは私よりも正しい。私が彼女をわが子シラに与えなかったためである」と言ってタマルの命を助けました。ユダからすれば上の二人の息子と同じように、三男シラが死んでしまうかも知れないという恐れを抱いたためです。
月満ちて、出産の時を迎えましたが、胎内には双児がいました。出産の時、一人の子が手を出したので、産婆は「こちらが兄だ」と言って手に緋の糸を結びました。するとその子が手を引っ込めて弟のペレヅが先に生まれ、その後、緋の糸を結んだゼラが生まれました。
以上が聖書の内容ですが、ゼラとペレヅは摂理的にカイン・アベルと同じ位置、エサウ・ヤコブと同じ位置に立てられていました。
ここにおいてタマルの胎中で兄と弟の位置が逆転したということは、胎中における善悪闘争に勝利したことを意味します。ちょうどヤコブがエサウを屈伏させて長子権を復帰し、サタンを分立した善の家庭として出発することができたと同じように、タマルの胎中からサタンが分立され、サタンが干渉できない聖別された胎となりました。この清い胎に子女を身ごもるとき、サタンの讒訴条件のない、無原罪の人間として生まれることが可能となるのです。
では、どうしてタマルの胎中でそのような善悪逆転が生じるようになったのでしょうか。未亡人であるタマルが舅のユダと関係を持つことは姦淫の行為であり、当時姦淫を犯した者は死刑と定められていましたから、タマルにとってユダとの関係は死を意味しました。しかし、三男のシラの妻となることができず、ユダと関係を持つ以外に血統を残す道がなくなったタマルは、ただ血統を残す一念で、体面威信を捨て、死を覚悟してまでユダと関係を持っていきました。自分の生命以上に血統を重要視し、血統を愛したタマルの信仰が血統を復帰する条件になったのです。それゆえ、タマルの胎中で奇跡が生じたのです。
こうして歴史上初めて胎中聖別をした女性が立つことによって無原罪のアダム、すなわちメシヤの誕生する基台ができました。堕落によってアダムの悪の種がエバの汚れた胎中に入り、その胎中からサタンの血統が出発しましたから、胎中で血統を転換した基台の上に本然のアダムを復帰する道が開かれるようになるのです。将来、タマルの信仰基準に立つ女性が現れれば、このタマルの胎中聖別の勝利基台を相続でき、そこにメシヤを誕生させることが可能となったのです。
三 イエス・キリストを中心とした家庭復帰摂理
(一) 本然のアダムとしてのイエス・キリストの誕生
ルカによる福音書第一章によると、ヨセフと婚約中のマリヤに「聖霊が臨んで神の子が生まれる」という啓示があり、マリヤはザカリヤの家庭を訪ねました。そこで約三か月滞在して家に帰り、その後身重になったと記されています。さらにマタイによる福音書第一章を見ると、ヨセフは正しい人だったので身重になったマリヤと密かに離縁しようとしたとあります。しかし、天使が夢に現れて「聖霊によって身ごもったのであるから、離縁してはならない」という啓示があり、マリヤを受け入れました。
こうして誕生したのがイエス・キリストでした。イエスはマリヤと婚約者ヨセフとの間に生まれたのではありません。かといって文字どおり聖霊によって身ごもったと受けとめることは、生命誕生の原理からみて無理があります。神の体としてのアダムの中の種が愛で一体化することによりエバの中に宿って子女が生まれるというのが神が立てられた原理ですから、神自ら原理を破棄してイエスを誕生させられるとは考えられません。
したがって「聖霊によって身ごもった」という意味は、サタンの血統が清算された無原罪の清い存在として身ごもったと解釈すべきです。マリヤが啓示の後にザカリヤの家庭を訪ねて、帰ってきて間もなくお腹が大きくなったということは、そのことを暗示しています。マリヤは摂理的にタマルの位置に立てられていたのですから、それは十分に考えられることです。
マリヤに与えられた天の啓示が「第三者との関係を通して神の子が生まれる」という内容のものであった場合、婚約者のいるマリヤにとって、それはいかに深刻であったか想像できます。その啓示に従うことは、マリヤにとって死ぬこと以上に困難な道だったでしょう。体面も威信も捨て、自分の生命以上に神の子が生まれることを重要視し、神の血統を愛したマリヤの信仰は、まさにタマルの信仰基準に一致するものです。
こうしてマリヤはタマルの胎中聖別の基台を相続するようになり、その基台の上にイエス・キリストが誕生することになりました。それゆえにイエスには原罪がありません。
では、神はなぜマリヤとヨセフを婚約させておきながら、マリヤとヨセフから神の子イエス・キリストを生み出すことをされなかったのでしょうか。
堕落と反対の経路を通して蕩減復帰していくためには、マリヤとヨセフからイエスを生む道はなかったのです。堕落はアダムとエバが婚約中に、天使長がエバを奪って夫婦の因縁を結ぶことによってサタンの血統の罪の子女が生まれるようになりました。ですから復帰は、エバと天使長の婚約中に、アダムがエバを妻として取り戻すことによってなされます。こうして罪のない本然の子女、神の子を誕生させることができるのです。このエバの立場に立っていたのがマリヤであり、天使長の位置に立っていたのが婚約者であるヨセフでしたから、マリヤとヨセフの間から神の子を生む道はなく、マリヤとアダムの立場に立てられた者との間においてのみ、イエス・キリストを無原罪として生むことができたのです。
(二) イエス・キリストの目的
アダム以来四千年の後に、一人の本然のアダムを迎えることができました。それまでの歴史は無原罪のイエス一人を迎えるためにあったと言って間違いありません。しかし、無原罪で地上に誕生すること自体が、イエス・キリストの目的ではないのです。アダムの果たせなかった目的を成就するために来られたかたが、イエス・キリストでした。
つまりアダムが神の理想を成就できなかった原因は、結婚に失敗したことにあったのですから、イエス・キリストの最大の目的は相対を得て正しい結婚をし、本然の夫婦愛を完成して真の父母となり、神の永遠の血統圏を出発させることにありました。マリヤとヨセフがイエスに仕え、保護し、結婚を援助するという使命を果たしたならば、氏族圏が一体となり、イエスは相対を得ることができるようになっていたのです。
(三) マリヤとヨセフの不信
マリヤとヨセフがイエス・キリストと一体化していれば、イエスの十字架は絶対にありませんでした。しかし、マリヤとヨセフは使命を最後まで果たすことができませんでした。
イエスの誕生まではマリヤはタマルに劣らない絶対的な信仰を立てましたし、ヨセフも身に覚えのない子を身ごもったマリヤを守ることによって使命を全うしました。もし、ヨセフがマリヤと離縁していたなら、マリヤのお腹の中の子供は、ヨセフの子供ではないということが明らかになり、マリヤは胎中のイエスと共に姦淫の罪で殺されていたことでしょう。
ところが、その後はマリヤとヨセフが夫婦となり、二人の間に子女をもうけることによって、イエスとヨセフ、またイエスと他の子女たちとの間が怨讐関係となり、結局マリヤとヨセフはイエスに仕え、侍る立場を放棄するようになってしまったのです。
マリヤとヨセフを神が婚約させたのは、あくまでもイエスを守るためであって、二人が夫婦の因縁を結んで子をもうけることは神のみ旨とは何の関係もありませんでした。もし、二人が夫婦となることが目的で神が婚約させたのであれば、その二人からイエスが生まれるように摂理されたはずです。
二人の結婚はかえってイエスの行く道を妨害する結果になってしまいました。マリヤとヨセフがイエスを自分たちの子供と差別するところから、いつしかイエスが私生児であるといううわさが流れ、洗礼ヨハネも私生児であるイエスを、どうしても神の子と信じることができませんでした。マリヤは親戚の結婚式には走り回っても、肝心のイエスの結婚相手はイエスが三十歳になっても探そうとしなかったのです。
このように神が準備され、イエスに最も近く侍らなければならないマリヤとヨセフが不信をすることによって、氏族も不信する立場に立ちました。本当はイエスは苦労する必要がなかったのですが、神が準備した氏族の基台が全部崩れてしまったため、やむをえず氏族以外の十二弟子と七十二門徒を求めて、公生涯の苦難の道を出発せざるをえなかったのです。
しかし、それも崩れてしまって、結局最後にはイエスに侍る者は一人もいませんでした。ヤコブの勝利した基台までも失ってしまうという立場に立って、十字架にかかるほか道がなかったのです。
(四) 十字架の結果
最も偉大な結婚を求めたのがイエス・キリストであり、人類のため、世界のために結婚しようとした代表的人物がイエスだったのです。それが果たせなくて、十字架にかかっていかれました。ですから、イエスが相対を得られなかったという恨みは、個人的次元の問題でなくて、人類の恨み、神の恨みだったのです。イエスは神のひとり子として神の愛を説き、自ら十字架にかかることを通して、生命を越えて投入するという真の愛の手本を示されました。
しかし、神とイエスの真の願いは、ひとり子として神の愛を説き、人々を愛するところにあったのではなく、イエスが結婚して夫婦の愛をサタンから取り戻し、父母として当時の人々と愛の因縁を結んでゆくことにあったのです。しかし、孝行息子としての使命を果たし、兄弟愛の世界は説かれたけれども、夫婦愛は説けず、父母の愛も示すことはできませんでした。厳密に言えば、イエスは神のひとり子でありながら、神の直接的な愛を受けておられないのです。
なぜなら、人は相対を得て初めて神の愛の対象となることができるからです。夫婦愛を完成せずして神の愛が現れる道はありません。神の愛の対象というのは夫婦ですから、イエスといえども例外ではなく、個人のレベルにおいては神の愛の対象の位置に立つことはできないのです。
イエスは神のひとり子として愛を説きながらも、神から直接的に愛されたことがないという、信じられないような事実がそこにあるのです。
イエスが結婚できなかったために、地上において神の愛を顕現させることができず、神の血統圏、神の理想を出発させることができませんでした。そこにイエスの寂しさと恨みがあるのです。確かにイエスの十字架の犠牲によって、多くの人が真の愛を知ることができました。しかし、神とイエスのもっと大きな願いは十字架で愛を示すことよりも、イエスが結婚して、神の血統の息子を生むことにあったのです。
もし、イエスに一人でも息子がいたと仮定したら、二千年経った今日、どれだけその血統圏が増えていたことでしょうか。愛と心情は血統を通してのみ、完全に相続してゆくことが可能なのであって、教えることによって愛を受け継ぐことには限界があります。イエスが十字架で示された真の愛の意味も時の経過、時代の変遷と共に変形し、薄れてきていることは否定できません。イエスが教えられたあの愛の原型を、今日どこに見いだすことができるでしょうか。果たしてキリスト教の中に発見できるでしょうか。
ところでもし、たった一人でもイエスの直系の息子がいたとしたら、血統を通してイエスの愛を相続し、またイエスは神と直結していますから、神の心情と愛を完全に相続していたことでしょう。そうであれば、今日この世界において、イエスの愛以上の愛が地上において実っていたはずでした。
そういう点から考えてみても、イエスの本来の目的は相対を得て結婚し、夫婦愛を完成させ、神様の愛を地上にもたらして、神の永遠の血統圏を出発させるところにあったということは否定できない事実だということができるのです。
四 再臨主を中心とした家庭復帰摂理
(一) 完全蕩減の道
イエス・キリストのなしえなかった使命を果たしてゆく立場で来られるかたが、再臨主です。イエスは実体で相対を得て家庭基準を立てることができず、霊的相対としての聖霊を復帰して、霊的基準において勝利圏を開かれました。このイエスの霊的勝利圏がキリスト教を通して相続され、世界的レベルにまで拡大されてきました。
再臨主は、この霊的勝利基台を実体圏に連結するという蕩減の道が最初から予定されていました。しかもキリスト教が使命を果たしえなかったことによって、霊的基台も崩れ、完全蕩減の道を行かれたのが再臨のメシヤでした。復帰歴史において失敗し、サタンの讒訴条件にかかったすべてを一対一で蕩減復帰していかなければなりません。血を流して死んだ立場を蕩減復帰するには、同じく血を流して死んだような立場からよみがえっていく必要があるのです。
また、イエスがピラトという当時の国家主権者によって十字架にかけられ、キリスト教も国家主権から迫害を受けてきましたから、再臨主も国家主権から迫害を受ける立場を越えていかなければならなかったのです。しかも、外的にだけではなく、内的にも蕩減していかなければなりません。すなわち失敗によって生じた歴史上の恨みとか悲しみ、究極的にはアダムとエバの堕落によって生じた神の恨みや悲しみも清算していかなければ、完全蕩減にはなりません。それゆえ再臨主は百パーセント以上の蕩減条件を立てる道を行かれたのです。
(二) み言の解明と人類の解放
再臨の主は十年かかってみ言を解明されました。神とサタンにおけるすべての秘密、人間が歴史において失敗した内容、サタンの讒訴条件にかかったすべてを明らかにされました。公式も参考書も辞書もない中でサタンと直接対決しながら、一つひとつひもとかれていったご苦労は想像を絶するものです。このみ言によって復帰摂理歴史上の多くの人たちが解放されていきました。
例えばタマルは、当時の教えからすれば、舅と関係を持つというとんでもない過ちを犯したため、自責の念にかられて霊界では苦悶していたというのです。しかし、み言を通して神の摂理からみれば、歴史上初めて胎中聖別に勝利した女性の位置に立ったことを知り、解放されたという話があります。
いうまでもなく、み言は地上の人々にとっても希望であり、最大の福音となりました。しかし、み言は悪の勢力にとっては審きにもなり、み言に相対できない人々をみ言で解放することには限界があります。
再臨のメシヤの使命は、アダムに代って真の父母として全人類を解放するところにあります。ですから老若男女を問わず、貧富や地位に関係なくすべての人に通じ、しかもすべての人の前に主体的立場を確立しなければなりません。そのためすべての職業を経験して、あらゆる階層の人々と因縁を結ぶことのできる道を歩まれました。
また、ヤコブがラバンの所で二十一年間奴隷生活をしながら、怨讐の立場にあるラバンを屈伏させたように、最も悲惨な僕の立場から出発して、最低から頂点に到るまですべての階級の人々に通じ、解放する道を開かれました。自ら地獄に身をおいて、神に助けを求めるのでなく、かえって神を慰めながら周囲に希望と愛を与え解放していかれたのです。
一般的にメシヤは善悪の審判をするために来られたと考えがちですが、そうではなくて、むしろ悪を解放する道、怨讐を許し愛する道を歩まれたのです。怨讐を解放してはじめて神の理想を出発できるのであり、怨讐が存在する中で神の理想を実現する道はないのです。
再臨の主は幾度か無実にもかかわらず、獄中に身を置かれました。しかし、投獄した張本人や神を恨まれるのでなく「獄中という地獄に愛の種をまくことによって、その国全体に早く愛を実らせるための神の愛の計らいだった」と言って、神の前にむしろ感謝されたのです。
ダンベリーを例にみれば、通常ならば無実で刑務所に入れられれば当然恨みが湧きます。ましてアメリカの精神復興のために犠牲的に投入してこられた結果、そうなったとなれば拭い去ることのできない恨みとなるでしょう。
ところが、アメリカを恨むのでなく「もう少し早くアメリカに来てみ言を伝えておれば、こういうことにならなかった。それゆえ自分に責任がある」と考えられるのです。だから再臨のメシヤの前には怨讐が怨讐でなくなってしまい、敵がいないのです。しかも投獄という最悪を、最善に変えていかれました。
ダンベリーに入られることを通して夫婦愛がさらに高められ、子女様が一体化され、教会のメンバーが結束し、キリスト教および人類の復帰の摂理が大きく進展するという結果をもたらしました。より良い結果をもたらすことで、神にとっても教会メンバーにとっても恨みが完全に消化されたのです。普通であれば抜き差しならぬ怨讐になるにもかかわらず、怨讐が怨讐でなくなって、むしろそこから神を中心とした理想的な関係が生まれるようになったのです。怨讐圏が解放されることによってサタンも完全屈伏し、神をも解放していかれたのです。
こうして本然のアダムとして相対を得ることのできるすべての資格を備え、相対さえ得れば、完成できる位置に立たれるようになりました。しかし、たとえ個人として完璧な基準が立ったとしても、相対を復帰できなければ、イエスのように再びサタンによって奪われていく可能性は残るのです。
(三) 真の結婚式
一九六〇年陰暦三月十六日、ついにご聖婚が成立しました。聖書に記されている「子羊の婚姻」が成就したのですが、この結婚自体が大きな試練だったといわれます。アダムとエバのときは男一人女一人でしたから、天使長の誘惑さえなければ相対を間違えることはありえませんでした。しかし、再臨の時代には、主に侍っていたある一定のレベル以上の信仰をもった十代から八十代の女性は皆、「主の花嫁である」という啓示を受けていたのです。その中から神のみ意に叶う真の相対を決定していかなければなりませんでした。
アダムの責任において理想相対としてのエバを失いましたから、人間の責任分担として再臨主自ら理想の相対を復帰しなければなりません。もしわずかでも私心があったとすれば、結婚に失敗していただろうと文先生御自身が述懐しておられます。神のみ意を中心としてではなく、当時の事情を中心にして相対を決めるならば、それは欲心になります。
例えば当時、迫害がとても厳しい時代でしたから、メシヤと共に迫害を越えてきた信仰的に訓練された人がいいという思いがあったとすれば、失敗したことでしょう。本来結婚は永遠絶対を基準にしたものですから、相対も永遠絶対を基準にして決定しなければなりません。ですからご聖婚は簡単ではなく深刻そのものだったのです。そういう中からご夫人が決定されました。原理的基準からすれば、十八歳を越えてはならなかったのです。エバの堕落の年齢が十代であったし、本然の心情と愛を啓発して本然のエバとして再創造していくためには、十八歳を越えてからでは難しいからです。
このように個人の欲心を一切捨て、いくつかの原理的制約を越えて、ご聖婚に勝利されました。ここにおいて、人類歴史上初めて真の男性と真の女性が正しく出会って、神が示す本来の結婚が成立したのです。そして全人類がその伝統にのっとって、正しい結婚をなしていく道が開かれました。これが「祝福」です。
ご聖婚の後、ご夫人の試練がありました。堕落によって失われた三大心情すなわち子女の心情、夫婦の心情、父母の心情を、本然のアダムとの関係において、段階的に復帰していかなければなりませんでした。そのため聖婚後すぐに妻の位置に立たれたのではありません。僕として真の主人に仕え、娘として真の父から愛を受け、妹として真の兄から愛を受けた上で、本然の夫婦として愛を完成していくことが可能となるのです。それは簡単な道ではありません。とても不可能と思われる道を絶対的な献身と忍耐、絶対的な信仰を持って越えていかれたのです。
この間に子女様も誕生され、神の永遠の血統が出発しました。そしてご聖婚から七年を経た一九六八年一月一日、「神の日」が宣布されるようになりました。それは神の愛と理想が、地上に現れるようになった日を意味します。本然の夫婦愛を完成した理想的夫婦の基準が立つことによって、神の愛の対象となり、神の愛が初めて地上に着陸できるようになった記念すべき日が、「神の日」なのです。
こうして真の父母としての絶対的基準が立ち、真の家庭基準が立つことによって、神の理想が地上において出発するようになったのです。
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