祝福の意義と価値 目次

第三章 祝福の意義と価値


 一 真の父母と祝福の伝統

 一九六〇年に真の男性と真の女性が出会って、真の結婚式がなされることによって、結婚に関する天の伝統が初めて人類の前に示されました。それまでの歴史において宗教者は、独身生活を余儀なくされてきました。なぜなら、人類の先祖となるべき者が正しい結婚式を挙げることができなかったからです。

 アダムとエバが父母となって、そこから全人類が誕生するようになっていたのですから、人類の先祖が堕落して、まだ真の結婚式を挙げられなかった状況においては、人類は生まれていない立場であり、ましてや結婚できる立場ではないのです。

 これまでの結婚は、天使長・ルーシェルとエバの堕落した結婚を受け継ぐものです。堕落した結婚をしたことは、神にとって怨讐の中の怨讐であり、悲しみの中の悲しみでした。

 神の愛するアダムとエバが、堕落した結婚によってサタンに奪われていきました。それと同じ形で結婚することは、神にとって最大の怨讐であり、神にそれ以上悲しみを与えるものはないのです。そのため、本来の結婚の基準が立つまでは、独身生活を余儀なくされてきたのです。そのような中に、こうして本来の結婚が示されたということは、神にとっても、霊界と地上においても、最高の喜びと希望の瞬間であったということができます。

 ところで、本来結婚の目的は、神の愛をはじめとして、創造の権限と主管権を相続するところにありますから、結婚式は神の愛を父母から受ける愛の伝授式であり、神の全権を父母から相続する相続式であるといえます。それゆえ結婚は本来、父母が司るものであって、父母を抜きにして結婚は成立しないのです。今日第三者が仲人をし、媒酌人をつとめるのは、天の伝統から見れば正常とはいえません。父母をとおさないで、父母のすべてを相続する道はないからです。しかし、本来の結婚をなす道がなかった今日までの状態においては、本来の夫婦がいない立場であり、父母がいない立場でしたから、父母が結婚を司る道がなかったともいえるのです。

 このように、人類の前に結婚、すなわち祝福の伝統を開くためには、真の父母が不可欠です。真の父母が立たないで結婚をする道はないといえます。神の愛と一体化した真の父母が立ってはじめて、結婚が可能になってきます。

 父母が神の愛と一つになって、神がそこに臨在できる因縁が決定されることによって、子女も神と関係を結ぶことのできる愛の基準を成しえます。父母が神と因縁を持っていないなら、子女はどうして神の愛を相続できるでしょうか。相続する術がありません。

 今日、父母と関係のない世界で自分たちの思いを中心に結婚するのが一般的ですが、それは神とも霊界とも世界とも何の関係もないものだと言わざるをえません。本来の結婚、すなわち祝福は、歴史的サタン圏を完全に越えた位置において可能となります。サタンを中心とした非原理的夫婦愛でアダムとエバが結ばれていったのが堕落した結婚でしたから、サタンが相対できない本来の結婚をなすためには、父母がサタン世界と戦って勝利した立場においてはじめて可能となるのです。

 真の父母は、サタンの讒訴圏を脱出した立場に立つかたです。サタンが讒訴できる内容を一切残さず、完成基準を越えた位置に立ってこそ真の父母になりえるのです。そのような父母によってのみ、サタンが相対できない結婚式を司ることができるのです。

 今までの結婚はサタンが相対するものでした。堕落によりサタンが愛の領域を支配するようになり、結婚は男女の愛が結ばれるところだからです。結婚は天国に入る玄関であったのですが、逆に地獄への入り口になってしまったのです。

 以上の観点からすると、まず本然の男性と本然の女性が本来の結婚をして、真の結婚の在り方を示し、真の父母として立ってはじめて、子女の立場にある人類の祝福の伝統が出発できるのです。それゆえ、人類の願いは真の父母に出会うことであるといえます。たとえ死の道を行っても出会わなければならない人が、真の父母なのです。歴史も現在も自分の子孫のすべてを失うことがあっても、真の父母に出会えば、新しい歴史を見いだし、新しい世界を見いだし、新しい未来を見いだすのです。

 真の父母にいかに出会うかが、人生の最重要課題となるのです。


 二 祝福の意義

 アダムとエバは本来、愛が十分に成熟した、個性完成基準で結婚するようになっていました。結婚とともに夫婦愛を完成し、神の愛の直接主管圏に入るようになっていました。ところがアダムとエバが実際に夫婦の愛の関係を結んだのは、長成期の完成級でした。長成期完成級において、エバと天使長が結んだ非原理的愛を中心として、アダムとエバが夫婦の因縁を持ったのが堕落です。

 堕落によって、この長成期の完成級以下はサタンが主管する堕落圏になりました。サタンが相対しえる堕落圏において本来の結婚はできません。したがって、長成期完成級を越えた位置において、真の父母の愛を中心に夫婦の因縁を結んではじめて、堕落圏を越えた結婚をすることができるのです。これが祝福です。

 真の父母の愛は、サタンが相対するところには現れません。蕩減復帰の原則からみても、堕落は長成期完成級で夫婦の因縁をもってなされたのだから、復帰も長成期完成級に到達してから夫婦の因縁をもってなしうるということになります。

 祝福はサタンと関係のない立場です。したがって、祝福によらなければ、堕落圏を越える道はありません。イエス・キリストが十字架にかけられたのも、相対を得ることができず、長成期完成級を越えられなかったからです。真の父母もこの位置でご聖婚されました。ご聖婚後に七年かけて完成期を通過し、愛を完成していかれました。それが「神の日」にほかなりません。

 人間は祝福を受けることによって本然の価値を回復する道が開かれ、人間が本然の位置を復帰することを通して、万物界も天使界も本然の価値を回復することが可能となります。神も神として本来の位置に戻り、神としての権能を発揮できるようになります。人間始祖の結婚の失敗によって、すべての存在が本然の価値を喪失し、神の理想が挫折しましたから、祝福は神の理想を回復していく出発点になるのです。

 このような祝福を受けることによって私たちは、神が四千年間摂理された基台の上にイエスを送られ、イエスが今日まで二千年間キリスト教を通して願ってこられたことを、実体で成し遂げた立場に立つことができるのです。さらには、祝福を受けた立場は、先祖が失敗したことのすべて、つまりサタンの讒訴条件に引っかかったことのすべてを蕩減復帰して、サタンを追放し、地上で愛の完成体に向かって出発できる位置に立つことなのです。

 さらに大きな祝福の恩恵は、真の父母と永遠の因縁を結ぶことにあります。祝福は、子女として真の父母から愛を相続する立場に立つことですから、祝福を受けることによって父子の愛の因縁を結ぶことになります。父母の子女に対する心情と愛は絶対的であって、いかなるものをもってしても絶ち切ることはできません。

 だから、祝福を受けた者は霊界に行っても、真の父母が永遠に責任を負い主管し指導されるのです。歴史的に堕落の環境圏で生きてきた人間が、祝福を受けたからといって自らの努力と決意だけで、堕落の習慣性を完全に抜き取ることは不可能です。

 それゆえ、真の父母が永遠に責任を負ってくださろうとするときはじめて、愛を完成することができることへの希望が生まれてくるのです。

 私たちにとって、神の愛と一体化した真の父母と因縁を結ぶこと以上の恩恵と希望はありません。地上で真の父母と因縁を結ぶことができなければ、霊界で結ぶことはなおいっそう困難です。相対基準が合わないからです。

 肉身がある場合は、相対基準が合わなくても、同一平面上ですから因縁を結ぶ道があります。しかし、霊界では住む層が異なりますから出会うことは不可能です。地上での祝福によって、堕落圏を越えて結ばれた本然の因縁は、霊界においても永遠に続くのです。真の父母との関係が霊界においても永遠に結ばれていくということは、最高に価値あることと言えるのです。

 そして、この祝福によって神の全権、真の父母の勝利のすべてを相続することができます。真の愛、創造の権限、万物に対する主管圏を相続していくことができるのです。人間として、これ以上の望みがあるでしょうか。歴史を通して人類が願ってきた一切を、手に入れることができるのです。


 三 血統転換の意義

 復帰歴史の目的は血統転換にあり、祝福の中心的意義も血統転換にあることはいうまでもありません。私たちは、祝福を通してどのように血統が転換されていくのでしょうか。血統は、子供の生命が出発するときに始まります。父母が神の愛を中心として一体化して、その父母から生まれてくる子供において神の血統が始まるのです。父の骨髄の中で子女の種が育ち、その種が愛の因縁を結ぶことによって母の胎に入って、そこから生命が誕生します。これが父母から子供が生まれる原則です。

 ところで堕落は、天使長とエバが非原理的夫婦の愛の因縁を結ぶことによって、エバの胎中を汚しました。そのエバがアダムと堕落の愛の因縁を持つことを通して、アダムの中の種まで堕落の影響を受けるようになったのです。その悪に染まったアダムの中の種がエバの胎中に宿って誕生したのが、サタンの血統の堕落人間です。

 復帰は反対の経路を通してなされるのが原則ですから、血統を復帰していくためには、まず母の胎から復帰していかなければなりません。母の胎からサタンの血統が出発しましたから、母の胎中までさかのぼって、胎中で血統を交差して復帰するという摂理が必要でした。これをなしたのがタマルでした。タマルの胎中までさかのぼって、血統を交差して転換した基台の上で、生命の起源であるアダムを迎えることができます。そういうアダムとして来られたかたがイエスであり、再臨の主です。

 この本然のアダムが結婚して真の夫婦となり、真の父母となって、真の父の中の生命の種が真の母の清い胎の中に宿って、そこから完全な神の血統の子女が生まれてくるのです。それが真の子女です。

 私たちが真の父母を迎えて血統転換をなしていくのに、血統転換そのものは真の母の胎中でなされますが、完全復帰するためには真の父の骨髄の中に潜んでいる種が出発点となります。真の父の血肉の中にある子女の種の基準まで、神の愛を中心として一致することにより、完全な血統転換の基台のための条件を充足させることができるのです。その上で真の母の胎に入ってはじめて、完全な血統転換をなすことができます。

 まず真の父の中にある子女の種と一致することが必要になりますが、文字どおり真の父の種の立場に戻ることはできません。そのため真の父すなわちメシヤと、愛と心情において完全一体化した基準が必要です。次にすでに生まれている者が、文字どおり真の母の胎中に入ることもできません。

 ではどうすればよいのでしょうか。それは、真の父母と、真の父母を通して生まれた真の子女と一体化することによって、もう一度生まれるための条件を立てていかなければなりません。真の母から生まれた真の子女と一体化することを通して、双子と同じ立場に立ったという心情的条件を立てることによって、復帰された本然の子女としての恵沢を受けることができるのです。

 堕落によって相反発し合う善悪二つの種がエバの胎中に宿り、カイン、アベルという怨讐関係が一つの胎から出発するようになりました。したがって、真の父の中から出発した一つの種として、共に真の母の中に宿って生まれてくるという立場に立つことによって、胎中で二つの種が反発した堕落の起源を防止でき、復帰されるのです。ですから、祝福前にメシヤを愛し慕って心情的に一体化した上で祝福を受けて、真の父母、真の子女と一つになっていくことによって、血統転換された立場に立っていくのです。

 それは接ぎ木に例えることができます。本来ならば甘柿の血統が永遠に続くはずであったのですが、堕落によって渋柿になってしまいました。その渋柿の種が落ちて、渋柿が生えて渋柿の血統が受け継がれてきました。渋柿から甘柿の種が生まれることはありえません。そういう状況において、甘柿の種が新たに天から下りてきて、新しい甘柿が地上で出発しました。

 歴史において受け継がれてきた渋柿の流れとは全く関係のない、天から下りてきた甘柿の種につなぐには、どうすればよいでしょうか。それは、接ぎ木をする以外にありません。渋柿の根に近い部分の幹を切って、その上に甘柿の芽を接ぎ木します。渋柿の根は残りますが、甘柿の芽が成長することによって、そこから新しい甘柿の根が生えてきます。すなわち祝福によって本然の愛を育てていくことによって、新しい甘柿の根が出てくるようになって、元の渋柿の根は腐っていくようになるのです。接ぎ木した枝にはすべて甘柿がなるのです。

 こうした血統転換の結果、サタンの血統から神の血統に変わることができます。真の父母の血統につながれることによって、サタンとの血統関係が清算され、原罪のない神の実子の位置に立つようになるのです。しかも、そこに生まれてくる子女はいうまでもなく、生まれながらにして原罪がありません。無原罪の子女ということは、本質的にイエス、すなわち堕落する前のアダムと同価値をもつのです。

 イエス・キリスト一人を生み出すために、四千年の犠牲の歴史があり、タマルやマリヤのような絶対的信仰が背景にありました。それを考えると、祝福の恩恵は図り知れないものであると感じざるをえません。祝福を受けた女性は、マリヤ以上に神が祝福した胎を持つようになるのです。マリヤの場合は、ヨセフとの間にイエスを生み出す道はなく、そのことがイエスの生涯の悲劇の要因にもなりました。

 しかし、祝福を受けたカップルにおいては、真の父母との因縁で実子の位置、すなわちアダムとエバの位置に立つことができます。しかも真の父母によって、本来的な結婚をしたのですから、その夫婦から無原罪の神の子を生み出すことができるのです。当時マリヤとヨセフは、真の父母がいなかったため、神が示す本来の結婚をすることはできませんでした。それゆえに、マリヤとヨセフからは無原罪の子供を生み出す道がなく、私生児のような形で身ごもる瞬間に胎中聖別するという方法以外に道がなかったのです。

 真の父母が存在されることにおいて、祝福家庭はマリヤとイエスよりも、もっと恵まれた立場に立っているといえます。そして、その子供から永遠の神の血統圏が出発していくようになります。血統を通して神の心情と愛が、自動的に相続されていく道が開かれていくのです。真の愛の伝統を出発し、将来において、神の直接主管圏に入っていく道が開かれていくようになるのです。


 四 理想相対(理想の結婚相手)

 理想相対は、理想世界に共に行く永遠の伴侶であり、お互いを通して神の理想に近づくことのできる立場に立った人のことです。アダムとエバはもともと理想相対となる立場でした。しかし、堕落によってその基台を失ってしまったのです。祝福の相対者は、アダムとエバの位置を蕩減復帰した立場であり、理想相対となる基台です。祝福の相手は、真の父母を通して、神が仲介となって与えてくださったので、サタンが侵入できない立場で結ばれた夫婦です。歴史におけるすべての失敗を蕩減復帰した基台、サタンの讒訴条件にかかった一切を清算した基台の上で、神の公的原理によって結ばれた夫婦なのです。

 (一) 血統的な罪の清算

 この祝福の相対関係において、血統的な罪を清算していくことが可能となります。

 私たちには直接的に私を生み出してくれた父母と、間接的に生んでくれた先祖がいます。この関係を無視して私の存在を論じることはできません。先祖から有形、無形の影響を受けるのみならず、地上の子孫からも霊界の先祖に影響を与えています。それゆえ、地上に存在する私は、過去の先祖と未来の子孫の両方に責任を持たなければなりません。先祖の問題は私が解決し、清算してあげる以外にないのです。

 霊界において最も複雑な問題が愛の怨讐だといわれます。先祖におけるいろいろな愛の恨み、歪み、もつれが血統を汚してきました。本来、神を中心として愛を完成すれば、そこから神の血統が出発するようになっていましたが、サタンを中心とした非原理的な愛によってサタンの血統が出発しました。愛が血統に影響を与えるのです。

 それゆえ、清い愛は血統を清くしますが、汚れた愛の関係を結べば、血統が汚れてくるのです。堕落したサタンの血統はみんな等しく受け継いでいるが、その中でも先祖の愛の問題によって、血統の汚れは異ならざるをえません。そういう血統の汚れを私たちは先祖から相続しているのです。

 メシヤは、人類歴史の問題をすべて蕩減し、清算していく使命を持ってこられました。祝福はそのメシヤを通して神の愛を中心にして夫婦の因縁を結んでいくことです。祝福の相対間における本然の愛の関係によって、先祖が犯した愛の過ちを蕩減し、清算していく立場に立ちますから、悪なる血統的因縁を絶ち切ることになるのです。

 それゆえ祝福を受ければ、夫の先祖、妻の先祖の間を遮っていた数多くの障害が取り除かれ、何千万、あるいは何億という先祖の霊人が一体化できる道が開かれるといわれています。祝福は先祖解放につながる最高の道なのです。


 (二) 三大心情の復帰

 祝福による結婚相手を通して、失われた三大心情を復帰する道が開かれます。

 堕落圏にいる父母は、子女をいかに愛しても本然の心情を誘発することはできません。同じ父母から生まれた兄弟姉妹の心情関係も不十分にならざるをえません。また、夫婦の心情も同様ですから、当然、父母が子女に対する心情も本然のものとなりえません。

 この失われた三大心情、すなわち子女としての兄弟姉妹の心情、夫婦の心情、父母の心情を、一人の相対者を通してすべて復帰していくようになっているのです。祝福によって与えられた相対者が自分の息子、娘の位置に立ち、兄弟、姉妹の位置に立ちます。あるいは夫婦の位置、父母の位置に立っていくのです。ですから与えられた一人の相対者との間に、本然の母と息子の心情位置、あるいは兄弟姉妹の本然の心情関係を回復していくことができます。その上に夫婦の本然の心情関係を育て、子女をもうけて本然の父母の心情を備えるようになります。

 だから祝福による結婚相手は、単に夫婦という位置に立つのではなく、独身の時代に家庭で結びえなかった本来の心情関係を、相対者を通して全部復帰することができるのです。祝福を受けてまず、子女として、兄弟姉妹としての本然の心情関係を回復して、次に本然の夫婦の位置、本然の父母の位置に立つようになるのです。


 (三) 本然の夫婦愛の完成

 祝福による結婚相手との間で、本然の夫婦愛を完成していくことができます。

 堕落した立場においては、夫婦愛にサタンが相対するようになったため、夫婦が愛し合うほど神から遠ざかり、サタンが侵入してきて、破壊されていかざるをえませんでした。本来、愛は一体化と平安と幸福をもたらすものであるにもかかわらず、愛するほどに分裂と不安と不幸を招くようになりました。

 しかし、祝福の相対は、愛し合えば愛し合うほどに神に近づき、その愛は年を経るとともに無限に高まっていきます。すべての問題を消化して一体化させ、永遠の平安と幸福をもたらすのです。夫婦が互いに愛することは神を愛することにつながり、喜びも、生きがいも、生命さえも相対なくしては考えることができない存在になるでしょう。その絶対的な愛の前に神も完全屈伏するようになるのです。


 (四) 理想的な未来の出発

 祝福の相対から理想的な未来を出発することができます。神の目的から見て理想の結婚相手から理想の子女を生む道が開かれてくるのです。真の父母の種が出発点となっているがゆえに、親以上の子供が生まれることができ、理想の未来を出発できるのです。

 このように祝福による結婚の相対は、過去、現在、未来のすべての理想実現の扉を開くマスターキーになるのです。



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