祝福の意義と価値 目次
第四章 祝福とわれわれの姿勢
一 祝福の相対決定
(一) 真の父母による相対との出会い
素晴らしい祝福の相対は、誰がどのように決定するのでしょうか。相対を決定する権限を持っておられるのは、神のみです。生命を司るかたは神のみですから、私を創造された神はまた、私にふさわしい相対を創造されたかたでもあります。それゆえ神のみが私にふさわしい相対をご存じであり、相対との因縁を結ぶ権限を持っておられるといえます。
しかしながら、神は堕落圏にいる私たちを直接指導することはできません。ですから人間自身が自ら、それをなしていかなければなりません。かといって私たちは、神が備えたふさわしい相対を自ら判断する力量を持っていません。
神と完全に一体化して、理想的相対を見分ける眼識と権能を神から相続されたかたが真の父母です。このような実体の真の父母が現れて初めて、私たちは、そのかたを通して相対を特定することができるのです。
真の父母は祝福のときには、特別の霊的アンテナを立てられ、今日まで蕩減復帰の道を越えるためにサタンと対決して、熾烈な戦いを展開されてきた非常作戦を用いるといわれます。相対の決定は、その本人にとって永遠を決定する瞬間ですから、真剣そのものであって、決してむやみに行うのではありません。
父母という位置は子供に責任を持つ立場です。何事においても責任を持つことは簡単ではありませんし、自分に責任を持つだけでも大変です。ましてや子供の永遠の幸福に対して責任を持つ立場は、私たちの想像を絶する世界です。だから真の父母は祝福のときには夜も休むことができないといわれます。他人の結婚のためにそれほどまで熟慮し、投入し、犠牲になった仲人が歴史上に存在したでしょうか。肉親の父母のわが子に対する思いに勝るとも劣らない世界なのです。まさに、真の父母は神から相対決定の権限を相続されるにふさわしいかたであるといえます。
文先生は少年のころから人を見る能力において人並はずれたものを持っておられました。今も一目見れば、その人の性格、運命、長所、短所などすべてが分かるといいます。だから、この人にふさわしい相手はこういう人でなければならないと即座に感じるといわれます。
そして、現在においてよいというだけでなく、その人の先祖にとってどうなのか、先祖の問題をすべて清算して解放するためにふさわしく、さらに未来において生まれてくる子供はどうかまでを見られます。その人にとって過去においても現在においても、未来においても素晴らしい相手はどういう人なのかすぐ分かるのです。そういう人を祝福の相手として推薦してくださるのです。
このような権能を持っているかたによって初めて、理想的な相対との出会いが可能になります。それが真の父母という存在です。
(二) 相対決定の観点
相対の決定に対して、私たちはどのような観点を持てばよいのでしょうか。もともと、神は男性と女性を相対的な関係を持つ存在としてつくられました。アダムをつくられ、その相対者としてエバをつくられたのです。だから地上には、男性の数と同じくらい女性がいるようになっています。それは偶然ではありません。神は、結婚を一つの目的として、将来男女が一つになっていくことを前提にしているがゆえに、地上に男性と女性がほぼ同数に誕生しているのです。
一人の男性を神が創造するとしたら、同じようにその相対も神が創造されます。それゆえ、相対は自分が好き勝手に選んだり決めたりするものではなく、神が決定するものであるという原則的な観点に立つ必要があります。神が創造した相手を探し出すことによってはじめて、私は結婚することができるのです。これが基本的観点です。
では真の父母によれば、だれでも理想的な相対となるのでしょうか。そうではありません。松は松どうしで接ぎ木しなければならないように、互いに適う形があるのです。まして自分たちどうしで気に入ったからといってむやみに結婚したら、すぐに問題が起きてきます。
そして、結婚は自分の世界を越えて、他の世界につながっていく道を開いてくれます。二人の結婚を通して、二つの世界が連結されていくのです。男性と女性はそれぞれ異なった世界に属しています。男性にとって女性の世界は未知であり、女性にとって男性の世界は未知なのです。
しかし、愛で一つになれば、お互いに今まで知らなかった世界に触れることができるのです。ここに高い者が低い者を求め、低い者を高い者以上に愛していくという発想が必要です。高い所にいながらにして、低い所に相対できてこそ、どこにでも通じることができ、永遠に作用することができるのです。
ですから、反対の世界に通ずるような結婚はより大きな価値を持ちます。高い者が低い者と結婚したとしても、高い者が低くなるのではないのです。大統領が乞食の娘と結婚したら、大統領が乞食のようになるのでしょうか。そうではなく、乞食の娘がファースト・レディに引き上げられます。富んだ人が貧しい人と結婚したら貧しくなるということはありません。頭の良い人が頭の悪い人と一緒になっても、頭は悪くなりません。かえって相手を引き上げることができます。自分の関心のない趣味をもっている人と一緒になれば、それらの知識を得るようになります。すべて引き上げられていくのです。低い者と一緒になってマイナスになるものはありません。むしろ、新しい世界が開かれ、どこにでも通じることができるようになるのです。
さらに、一度上がったら下がるのが宇宙の原則で、自然もそうなっています。その原則から見れば、高い者と高い者が一緒になれば、あとは下がるしかありません。下がる運勢の者は上がる運勢を持った者と一緒になる時、下がらないで持続できます。ですから美人が醜い男と一緒になったとしても、むしろ長い目で見た場合にはよいといえるのです。
聖書にも「自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされる」(ルカ一八・14)とあります。神は自分を低めて、低い人と出会って暮らそうとする人を哀れみ、かえって高い人と出会わせようとされるのです。
次に、相対は理想的な調和と均衡をなさなければなりません。これはとても大切なことです。山と谷が一緒になるようなものです。山ばかりとか谷ばかりよりも、山があったり谷があったりと、変化に富んだところに調和の美しさがあります。同系色の花ばかりだと単調ですが、さまざまな色の花が調和すれば、互いに引き立て合って美しさがもっと出てくるのです。
「統一」という言葉をとても嫌がる人がいます。なぜなら、統一という言葉が画一化を意味すると考えるからです。赤なら全部赤にしてしまう、青なら全部青にしてしまうのが統一だと考えるのです。それは実に面白くない世界です。
しかし、私たちのいう「統一」とは、調和による統一であって、画一化ではありません。赤とグリーンが調和すると赤がもっと引き立ち、グリーンがもっと引き立ちます。画一化されて個性がなくなるのではなく、反対のものが調和して個性が最高に発揮されていくのです。それが真の統一です。
それを可能にするのが愛なのです。より美しい調和とバランスが生まれるためには、赤と赤ではいけません。山と山でもいけません。むしろ、山と谷のような、あるいは夏と冬のような反対のカップルが、理想的だといえるのです。たとえば顔が横に広い人と細長い人、目の細い人と大きな目の人、目のくぼんだ人と目の突き出た人、太った人と細身の人、よくしゃべる人と寡黙な人などのようなカップルから、素晴らしい調和が生まれてくるのです。
結婚は子孫のためにするものであり、また未来のためにするものです。もし自分の好きな人と結婚して、そこに生まれてきた子供が、だれも見向きもしないような子供だったらどうでしょうか。それ以上の不幸はありません。それは自分自身が不具であったり、欠陥があって感ずる不幸よりも大きな不幸です。
逆に、親以上の子供が生まれたなら、親の悩みは解消されます。自分自身に欠点や問題があっても、親以上の子供が生まれたなら、その家庭は幸福と希望を感じるようになるのです。そういう意味で、夫婦どうしにとってよいという以上に、二人の持っている良い点だけが似るような子供を生める者同士がいかに結びつくかが重要な問題になるのです。両親に欠点があったとしても、双方の長所だけを相続した子供が生まれるとしたら、この上ない希望であり、素晴らしいことです。
以上のような観点に立って祝福に臨むことが肝要ですから、受ける者としてはあれこれ思いを巡らすのではなく、最低の人と結婚しても最高に素晴らしい人のように愛して、幸せにしてあげようという思いを持つことが大切です。そうすれば心は平安です。もちろん神と真の父母が責任をもって、私に最もふさわしい人を与えてくださることはいうまでもありません。
ただ、私たちの中には運勢が良くない人もいます。たとえば、寿命がいくばくもない運勢の人とか、後家の運勢を持っている人がいれば、その死を免れるような相手が望ましいのです。それは当事者にとってみれば夢にも思わないような、とても一緒にやっていけそうもないような相手だと感じることもあるのです。しかし、そのような相手でなければ、その人が過去から背負ってきた問題を清算する道がないのです。
しばらくは葛藤があり、気持ちの悪い思いをするかもしれませんが、五年、十年とたって先祖の問題が清算されていくにつれて、この人を除いて私の相対は考えられないというほど、素晴らしいカップルになっていくことができるのです。それは、最初に気に入った人と一緒になって後に不幸になるよりは、間違いなく希望的です。反対の人と出会わなければ、お互いの弱点が保護されないし、関心と愛を相手から受けられないのです。自分にないものを持っているので、時の経過とともにより関心がいきます。
一般的には、趣味や性格の一致した人を結婚相手に選びがちですが、そのような観点のみで選んだ相手には飽きがきてしまうものです。一方向だけが好きだとか、特定のタイプだけが好きならば、その人は特定のタイプにしか通じなくて、他からは孤立してしまいます。
ですから、結婚を通して三六〇度に通じ、上下左右すべてに通じるようになるのが理想的だといえるのです。このような観点から見れば、最も理想的な結婚は国際祝福ということになります。
二 国際祝福の意義
異なった文化圏を背景に持つ二人が国際結婚することによって真の愛で一つになっていけば、その愛の力によって既成の文化を克服し、二つの文化を合わせて、より高い文化、今まで世界になかった新しい文化圏の創造が可能になります。
本来、神の愛を中心とした一つの文化圏が形成されるはずでしたが、堕落によって文化圏が分かれ、いくつもの対立する文化圏を形成するようになりました。これらの異なった既成文化を消化して、一つの愛の文化圏の創造を可能にするものは、国際祝福以外にありません。
また、全世界の民族と人種が一つになる、一番の近道は国際結婚です。違った人種の男女が夫婦となって、愛の関係を築いて一つになるときに、世界ははじめて一つになります。ここにおいて完全な調和と統一が可能となるのです。
政治的な外交力や経済力、あるいは文化交流、スポーツ交流は、その手助けにはなりますが、国を越えて一つになるには限界があります。それは常に、自国の国益が動機になっているからです。いざとなれば、いつでも他を切り捨てる可能性を持っています。民族を超え、国を超えた完全な調和と統一は、真の愛の力によるしかないのです。それが夫婦であり、親子の関係です。ですから国際結婚によってのみ、人種の壁を超え、国の壁を超える真の道があるということができます。
例えば黒人と黄色人種が結婚したとします。そこに黒い皮膚と黄色い皮膚の双子が生まれ、その双子を母親が両側に抱いて、超民族的心情にあふれて乳を飲ませる姿は、地上のいかなる光景より美しいのです。そこから民族を超え、国を超えた新しい伝統が始まります。一人の母親を通して、民族と人種を完全に超越した世界が生まれてくるのです。
そのような中でも特に、歴史的に怨讐の関係にあった民族、国家、人種や文化圏であるほどに理想的相対なのです。なぜなら、その二人が夫婦の愛の関係を結ぶことによって、一気に怨讐圏を超えていくことができるからです。
怨讐圏が解放されない限り神の理想を実現する道がないということを考えると、歴史的に怨讐関係にある者どうしほど、より理想的なカップルだということができるのです。それは、より早く神の理想を実現する、よりふさわしい結婚です。そのような結婚を願う人が増えてくれば、地上天国の実現は間近いということができるのです。
怨讐という敵対する立場だった者どうしが愛で一つになれば、どんなに素晴らしい愛の世界が展開されるでしょうか。一度味わえば永遠に忘れることのできない、真の愛の世界が出現するのです。ですから民族間、人種間の壁を越えて、国際結婚で成し遂げられた家庭は、どんな家庭より偉大な家庭です。後に、同民族間で結婚した者たちが、国際結婚した家庭を探してプレゼントを買って訪ね、祝賀を述べる日が来るのです。
三 祝福に臨むわれわれの姿勢
祝福は、夫婦の問題だけに限ったものではありません。アダムとエバが堕落して祝福の位置を失ってしまったので、祝福を受けた者はそれを蕩減復帰する位置に立っています。また六千年の歴史の中で生まれて死んでいった多くの男性、多くの女性を代表した位置なのです。
しかも祝福は、夫婦の因縁を結んだだけで終わるのではありません。その祝福によって真の子女を生み、神様を中心とした新しい家庭をつくっていかなければなりません。さらに、新しい氏族、新しい民族、新しい国家が形成されなければならないのです。そのすべてが祝福から出発するという自覚を持って、祝福に臨むことが必要です。
次に人間は「為に生きるようつくられている」という原則を知るならば、当然結婚も相対のためにするという精神を持たなければなりません。自分より立派な人、自分より美しい人を得ようとするのは、間違った考えだといえます。自分より劣っている人、自分より貧しい人と一緒になろうとすることが、相手から見れば希望と喜びであり、「為に生きる」ということになるのです。ですから、相手がたとえ醜い人であっても、美人を愛するよりもっと愛そうという信念を持つことが、重要な結婚観です。そこから、神の理想が出てくるのです。
自分なりの好みと考えで結婚をして、悪い子女を生めば家庭は破壊され、国の運勢は傾いていくのです。国の将来を背負って立つような、国の運勢を抱き、世界の運勢を抱くような子孫を生んでいく、天国の国民を生んでいくという意識で、結婚を考えていかなければならないのです。
これまで、多くの人々が自由結婚を理想的な形態と考えてきました。しかし今日の自由結婚は、自分の欲望を中心にしたものです。それはまさしく、ルーシェルが自分の欲望を中心としてエバと結婚し、エバが自分の欲望を中心にアダムと結婚していった流れをくむものであって、堕落によってつくられた結婚の形態だといえます。
本来、自由には責任が伴うものです。しかし、夫や妻に対しどのような責任を負っていこうというのでしょうか。簡単に離婚し、家庭を破壊している現実からは、責任のかけらも見いだすことができません。いわゆる「結婚の自由」は、男女が、天地の原則や秩序、責任の拘束から免れようとする自己中心の欲心を満たすための自由だといえるのです。自由結婚はサタンが人間を堕落させるためになす結婚であって、神の前に二度と出ていけないようにするサタンの罠です。自由結婚が盛んに行われるほどに、真の家庭が築かれるどころか、家庭生活に失敗した人が多くなっています。結婚しない人も増加しています。
祝福を受ける者は、そのような社会の風潮を一掃しなければなりません。家庭に愛が溢れ、夫婦、親子、兄弟姉妹関係が本然の愛でつながり、永遠の未来に連結できるようにしなくてはなりません。私たち一人ひとりに、神が願う理想的な社会を建設していく義務と使命があるのです。
四 祝福を受ける資格
では、祝福を受けるためにはどのような資格と内容を備えなければならないのでしょうか。
(一) 堕落圏を越える
祝福は、堕落圏を越えた位置で受けるものです。カインとアベルが一つになるという基準を立てなければ、堕落圏を越える基台ができません。
また、本然の愛の世界を失ったのですから、それを復帰するためには自分自身を他のために投入しなければなりません。堕落圏を越え、現実的な愛を越えて、祝福という本然の愛を復帰していく立場に立つためには、ヤコブがエサウを屈伏させたように、日ごろの生活において周囲の人々のために尽くして、本来の愛を復帰するための準備と訓練をしていかなければなりません。
(二) 原理の理解
祝福を受けるためには統一原理を十分に理解しなくてはなりません。原理を十分に理解しない者は祝福を受けることができません。
もし法律を知らない人を裁判官として立てれば、その人は自分勝手に判決を下すでしょう。神のみ言を知らない人を祝福して、気ままにあらゆることをして回ればどうなるでしょうか。
率先して神の愛の基準を立て、天の伝統を相続していくべき者が天地の原理を知らなくて、無原則にふるまえばとんでもないことになります。ですから、神の原理の基本的内容を理解しなければならないのです。そうしてはじめて、祝福を受けることによって神の実子の位置に立ち、神の愛をはじめ全権を相続するのです。
(三) 真の父母との一体化
真の父母と一体化することが必要です。真の父母は神に代わって、さらに私たちの肉親の父母に代わって私たちの結婚を取り扱ってくださるのです。
本来、神と一つになった父母が、子供の結婚を取り扱うべきなのですが、残念ながら私たちの肉親の父母は神の愛と一つになっていません。さらにサタンの讒訴圏を完全に越えた位置に立っていないため、サタンが相対できない結婚をさせることができません。
それゆえ、真の父母が私たちの父母に代わって結婚を司ってくださるのですから、私たちは真の父母を信頼し、愛して一つになることが必要です。真の父母が十字架の犠牲の道を越えて築かれた土台を、祝福を通して子女の因縁をもって継承していくのです。
ですから、私は真の父母から生まれたという信念が必要です。いかなる力もこの因縁を絶つことはできないという、絶対的信念を持たなければ祝福を受けることはできません。そうでなければ、祝福によって真の父母からすべてを相続する道がないのです。
(四) 原理的結婚観を受け入れる
繰り返し述べてきたように、結婚は自分の思いでなすのではなく、神と真の父母の願いに合わせなければなりません。神と真の父母が承諾するときに初めて祝福を受け、全権を相続していくことができるのです。
今日、自分の気に入った相手を自分で求めて結婚するようになっているのは、本来の道を逸脱しており、異常なことなのです。神が備えたふさわしい人と結婚をすることが原則なのにもかかわらず、自由結婚を提唱したのが堕落です。これを根本的に蕩減しなくては復帰はありえないのです。したがって、祝福を受けるためには、当然原理的な結婚観を受け入れなければなりません。
(五) 離婚しないという信念を持つ
祝福は夫婦のためだけに受けるのではありません。神の創造理想を完成するためであり、新しい民族、国家、世界を形成するためです。祝福はその出発点になるのです。
では、離婚するということは、何を意味するのでしょうか。出発点が二つに分れるということです。結婚して一人の子供を生んだ女性が離婚して、別の男性と結婚した場合、一人の女性を中心として怨讐関係の、二つの家庭が形成されることになります。怨讐の二つの民族、二つの国家を形成するようになるのです。
エバは、天使長とアダムという二人の夫を持ちました。そこからカインとアベルという二つの怨讐が生じ、カイン型とアベル型という二つの世界をつくり出しました。
本来、神を中心として民族は一つであり、世界は一つでなければなりません。祝福は民族のため、世界のための結婚であることを考えるなら、結婚は一度しかできません。祝福によって一つになる道を開いたのに、離婚するならば再び分断する立場に立つのです。もし祝福を受けて離婚すれば、サタンよりも悪い存在になります。サタンが讒訴し、サタン扱いするのです。そういう意味において、絶対に離婚しないという信念と決意が必要です。
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