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第1部

第1章 迫害の道


   「北韓へ行け」という神の啓示

 文鮮明師が人類救済の道を出発したのは、一九三五年四月十七日のことだった。この日、まだ少年だった文師は神に召命された。

 早朝、文少年は故郷の定州(北朝鮮平安北道)にある猫頭山で涙を流しながら熱心に祈っていた。そこに、イエス・キリストの霊が現れて言った。

 「自分が果たせなかった使命を、あなたが継承してほしい」

 この時、文少年は十六歳(数え年)だった。幼いころから聡明で利発だったとはいえ、文少年の驚きは想像して余りある。後に文師はその劇的体験を次のように回想している。

 「復活節の朝、長い時間涙を流しながら祈ったあと、イエス・キリストが現れ、多くの啓示と教示を下さった。イエス様は深遠な、また、驚くべきことをたくさん語られた。神様は苦しんでいる人類を御覧になり、悲しんでおられると言われた。そして、私に地上での神の役事に対する特別な役割を果たしてほしいと要求された」

 人類を救って地上に天国を建設してほしい、というのである。文少年は事の重大さに驚き何度も辞退したが、イエス様は文師以外にこの使命を達成できる人はいないと告げられた。

 少年だった文師はついにこれを天命として受け入れ、神と人類のために生涯をささげることを決意した。その時の心境をこう語っている。

 「私の前に現れた神は栄光に満ちた喜びの神ではなく、恨と悲しみの心情を持たれた方として現れた。私は、自分の置かれた悲劇的な環境が神の恨と哀しみに比べて、あまりにもささいなことだと悟るようになった。そして、私は二つのこぶしを固く握って、神の恨を解怨しようと誓った」

 文師はそれ以来、一瞬たりともこの時の「神の恨を解怨しよう」という固い誓いを忘れたことはないといわれている。

 世界基督教統一神霊協会(=統一教会)は一九九四年五月一日、創立四十周年の記念式典をソウルで行ったが、その席上、文師は自分の心情の一端をこう吐露している。

 「神様が一番心配している問題を、一人で責任を持って解決しようと、堂々とこの世の悪と対決しながら、勝利できる聖人を神は探しておられる。そのため、聖人の行く道は平坦であるはずがなく、誤解と迫害が必然的についてくる。

 私は生きてこのみ旨を成すと神に誓い、寝ても覚めてもその思いに没頭した。一千万回、誓いながら念を押し、監獄の一番底においても誓い、ひどい拷問で死線をさまよう時も、この誓いをした」

  一九四六年五月下旬、文師はソウルから三八度線(軍事境界線)に近い臨津江のほとりにあるイスラエル修道院を訪ねた。

 その後、朝早く坡州にあるこのイスラエル修道院から、文師はコメの買い出しのため白川に向かうトラックに乗った。そのころ、ソウルではコメを手に入れるのが困難だった。白川は板門店から西へ車で一時間ほど行った所にあるコメの産地である。

 ところが、自川への車中で、文師は突然、神の啓示を受けたのである。

 「北韓に行け!」

 神の声を聞くとすぐ、文師はそのまま平壌に向かった。ソウルに妻子を残したまま何の連絡もせず北に向かったのである。この時、文師の家には一升のコメもなく、一銭のお金もなく、そのうえ子供(文聖進氏)は生まれて二カ月の乳飲み子だった。

 北朝鮮に行くようにとの啓示を受けた文師は、ソウルに残している妻子が死んでしまうかもしれない状況であることを十分に知っていた。

 しかし、顧みることが許されなかった。家に連絡やあいさつもせず、手紙を書くこともできず、そのまま平壌に向かったのである。すでに北朝鮮はソ連軍が占領していた。この時、文師は出陣する兵士のように、死を覚悟して三八度線を越えていった。

 文師が北朝鮮に行ったのは、もちろん神の啓示を受けたからだが、具体的には韓国で既成のキリスト教団が文師を神が遣わした者として悟ることができず、猛反対し、キリスト教を中心とした神の摂理が韓国で失敗したからである。

 特に、重要な立場にあったイスラエル修道院の金百文牧師が、文師の天的使命を理解できなかったことが失敗の主因となった。

 文師はよく祈る人だった。ソウルでも平壌でも毎日、何時間も泣きながら人類のために祈り続けた。ときには十七時間ぶっ通しで祈り続けたこともあった。しかし、ただの一度たりとも、自分の妻子や父母、兄弟のために祈ったことはなかったという。

 それは、自分の家庭を犠牲にしても、人類を救済しなければならない責任を感じていたからである。

 文師が崔先吉さんと結婚したのは終戦直前のことであるが、婚約するにあたって、文師は、「結婚後六、七年間、離れて生活するようなことがあっても、それを克服して夫に従うように」と念を押した。この言葉どおり、文師は一人、北朝鮮に行ったため、妻と別れ別れになった。

 北朝鮮へ行って七年ほど過ぎてから、釜山で文師は妻の崔先吉さんと再会した。崔先吉さんは、文師と結婚する前からキリスト教徒だった。日本の植民地時代には神社参拝を拒んだため、監獄生活を体験したこともあるほど信仰の篤い女性だった。文師が北朝鮮に行った時、夫人の年齢は二十一歳くらいである。

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   金日成の激しいキリスト教弾圧が始まる


 私は一九九四年八月、平壌にある鳳岫(ボンス)教会を訪ねた。かつて、米国の宣教師ビリー・グラハムも来て説教した教会である。牧師の話が終わったあと、私は次のような質問をした。

 「この国には現在、クリスチャンは何名ぐらいいますか」

 牧師の回答は「約一万人」とのことであった。この回答が正しいかどうかは分からないが、戦前、平壌が“東洋洋のエルサレム”とまで言われ、たくさんのクリスチャンがいたころに比べればあまりにも少ない数字だ。

 平壌市内を車で回ったが、教会の建物はほとんど見ることはできなかった。私はキリスト教が平壌で栄えていたころに思いをはせ、気が重くなった。

「キリスト教と金日成主席の主体思想は、果たして共存できるのですか」

 一緒に平壌へ入った男性が、思いがけない質問を牧師に投げかけた。北朝鮮のガイドの頬はピクピク動いた。

 しかし、牧師は慌てた様子もなく、淡々と説明してくれた。もっとも、私には何を言っていたのか分からなかった。今、思い出しても意味不明である。

 「キリスト教を処理しなければ、北朝鮮の共産化はできない」

 金日成が平壌に現れたころ、これが共産主義者たちの口ぐせだった。当時と今では考え方が変わったのだろうか。あるいは、もはやキリスト教など北朝鮮当局に敵対する勢力ではなくなってしまったのだろうか。

 ここで文師が一九四六年、北朝鮮に行ったころの平壌の社会状況を少し見てみよう。

 一九四五年八月十五日、日本の敗戦によって、朝鮮人に突然、祖国の解放が訪れた。日帝時代に神社参拝を拒否したために投獄されていた人々が次々に出獄して、平壌では教会再建の動きが始まっていた。同年十二月に発足した「以北五道連合会」は、キリスト教会を再建するために組織された。

 会長に選ばれたのは、金珍味牧師(一九〇〇〜一九五〇)である。同牧師は四七年四月、共産党に拉致され興南監獄に収監された。興南では文師と同じ監房で過ごしたこともある。

 文師が神の啓示を受けて、平壌に来たのは一九四六年六月のことだったが、その四ヵ月前、北朝鮮臨時人民委員会(=政府)が発足して、金日成が首班に就任した。

 同委員会はキリスト教会に対して「土地改革」の名目で、教会堂などの土地を没収し、信徒の献金を搾取行為とみなして、教会に圧力をかけてきた。

 一九四六年三月一日、ついに北朝鮮当局とキリスト教会は激しくぶつかった。

 教会側はこの日、「三・一独立運動」を記念した集会を計画していた。三・一独立運動とは一九一九年三月一日、日本の統治下で朝鮮人が「独立万歳」を叫んだ運動である。その記念集会をキリスト教会は予定していたが、それに対して人民委員会側も同日、平壌駅前で金日成を中心とした記念集会を計画していた。人民委員会はキリスト教会に、教会側の集会を取りやめ、平壌駅前の集会に参加するよう要求した。キリスト教会側はその要求を拒絶し、信徒約五千人を集めて記念行事を強行したのである。

 人民委員会は教会行事を粉砕するために、赤衛隊を教会に送り込んで、牧師を連行しようとした。このやり方に信徒たちは怒り、抗議の市街デモヘと進んでいった。

 一方、平壌駅前では、金日成が民衆に初めて姿を現した一九四五年十月十四日の大会に続いて当局主催の大規模な集会が開かれていた。金日成は演説を終え、

 「わが民族を解放したソビエト軍万歳!」

 「世界人民の偉大な指導者であり、恩人であるスターリン万歳!」

 とスローガンを叫び、壇上で手を振った。その時、壇上の金日成を目掛けて手榴弾が投げつけられた。金日成はかろうじて難を逃れた。

 共産政権は一九四六年、「基督教連盟」を組織して、教会を政府側に取り込んで、共産主義の宣伝に利用しようとし始めた。この連盟に加盟しない牧師やキリスト教徒に対して、投獄したり追放するなどの弾圧を加えた。この時、多くのキリスト教徒は身の危険を感じて三八度線を越え、南に脱出している。

 文師がソウルから平壌に入った一九四六年六月は、ちょうどこのようなキリスト教弾圧が激しくなってきた時期だった。

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   参加者も号泣した文師の伝道集会


 「知り合いのおばあさんが亡くなった。韓国の葬式を一度見てきたら?」

 韓国の友人から、ある時、こう声をかけられた。

 私は好奇心から、その家を訪ねたのだが、そこで一人の婦人と出会った。金仁珠さんである。

 金仁珠さんは、文師が平壌に来て半月もたたないころ、文師の説教を直接聞いた一人だった。私はこの奇遇を天に感謝した。仏前で祈ったあと、さっそく、その家の屋上で金仁珠さんから話を聞いた。

 彼女は文師と出会った平壌での日のことを語り始めた。

 「私は小さいころから、教会の礼拝を一度も休んだことはなかったのですが、その日は教会には行かず、親戚の人に誘われて小さな家の礼拝に参加したのです」

 平壌にやって来た文師は、ある人の家庭を拠点にして伝道を始めた。神の歴史的心情と聖書の奥義を涙ながらに訴える文師の教えは、瞬く間に人々の心をとらえ、多くの人々が集まってきた。

 「驚いたことに、文牧師の礼拝では讃美歌を泣きながら歌ったのです。なかでも一番泣いていたのは文牧師でした。文牧師の祈りは普通の人の祈りとは全く違って、神様がおられるなら必ずや聞かれるであろうと思うほど、真剣な祈りでした。床には文牧師の涙と汗が流れ落ちていました」

 こう語る金仁珠さんは、小学生のころから父親と一緒に路傍に立って伝道をしていたほど、熱心なキリスト教徒だった。

 それまで金さんが通っていた教会は平壌の章臺■(山+見)教会で、日曜の礼拝には一千人ぐらい信徒が集まる大きな教会だった。その礼拝時間は一時間ぐらいで終わる、型どおりのものだった。

 文師の教会はといえば、普通の民家だったが、信仰の熱気が満ちあふれていた。文師の涙を流しながらの真剣な説教は何時間も続いた。

 イエス・キリストの十字架については、イエスは死ぬために来たのではなかった、ユダヤ人の不信仰によって殺害されたと説いた。キリスト教の核心である十字架上でのイエスの死を語るとき、壇上の文師も礼拝の参加者も、共に神とイエスの悲しみを共感し泣いた。

 説教が終わったあとの祈りにも、一同は号泣した。文師の着ているワイシャツはいつも涙と汗でびっしょりと濡れていた。

 文師が平壌で伝道集会を開いていた場所は、市内の景昌里である。

 私は北朝鮮を訪問したおり、その場所を確かめようとしたができなかった。

 北朝鮮に滞在中、バスの中で北朝鮮のガイドは、平壌の目覚ましい発展ぶりを語り始めた。

 「アメリカ帝国主義者の無差別爆撃により、平壌は完全に破壊された。朝鮮戦争の三年間で、千四百三十一回の爆撃と四十二万八千七百四十八個の爆弾が投下された。平壌は百年たっても復旧できないだろうと…」

 その時、車は大同門を左に見ながら通過しようとした。

 「あっ、大同門だ!」

 私は思わず声をあげた。車はスピードを落とした。私の願いがかなって大同門を写真に収めることができた。

 大同門の形は以前と少し異なって。いたが、位置は変わっていない。この大同門によって、一九四六年当時、文師が伝道集会を開いた場所がある程度推測できた。

 今日、万壽台に金日成の銅像(高さ二十メートル)がある。金日成の死後、多くの人々が追悼の意を表すために訪れた所だ。

 文師が伝道集会を開いていた場所は、この銅像と目と鼻の先にある。

 ところで、文師が平壌で伝道していたころ、前述したように北朝鮮臨時人民委員会(=政府)は宗教に対して弾圧を始めていた。その格好の対象になったのが、キリスト教からも異端視されていた聖主教団「腹中派」という団体だった。

 聖主教団は、金聖道女史(一八八四?〜一九四四)が神の啓示を受けたことから始まった宗教団体である。その啓示の中心的な内容は、次のようなものだった。

 @人間の堕落の原因は淫乱である
 Aイエス・キリストは十字架にかかるために来られたのではない
 Bイエス・キリストは再び肉身を持って韓国に来られる

 その教団の教祖・金聖道女史が亡くなったあと、聖主教団の平壌教会の責任者だった李一徳氏の夫人、許孝彬女史が中心となって聖主教団「腹中派」ができていった。

 やがて、「腹中派」は社会秩序を乱したという罪を着せられ、許孝彬女史はじめ幹部が大同保安署に逮捕される。

 一方、共産党は文師に対しても「腹中派」と同じような集団の指導者として拘禁したのである。文師を巡行したもう一つの理由は、文師が公民証を持たずにソウルから平壌に来たため、韓国の李承晩が遣わしたスパイではないかと疑ったからだ。

 文師は北朝鮮に来て二ヵ月しかたたない八月十一日、平壌の大同保安署に収監された。

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   獄中で再臨主に会うという啓示


 文師は百三日間にわたって大同保安署に拘置された。その間、生死の境をさまよう過酷な拷問を何度も受けた。文師の集会に通っていた車相淳氏は、服を差し入れるために大同保安署に行くと、文師の服は血で固まっていたため脱がすことができず、服を破って着替えさせたという。

 同じころ、この大同保安署に勾留されていた日本人がいた。林豊氏(仮名)である。林氏は平安南道保安部の仕事をしていたが、朝鮮銀行などを爆破する陰謀を持っていると疑われ連行された。同氏はこの保安署での自分の体験を以下のように述べている。

 −拷問の方法にはいろいろあったが、ほとんどは革のムチを水でぬらして殴るものである。初め、寄ってたかって殴られたり蹴られたりした。気絶したあとに目を覚ますと、水の中に投げ込まれていた。次の拷問は、体が全く動けないように縛りつけ、足の裏を思いきり殴る。足の裏を殴られると、頭に激痛が走り、何も分からなくなって気絶してしまった。

 −大同保安署では、三畳ぐらいの部屋に七人から十人が入れられている。その中に半畳分ぐらいの便所がある。部屋にはシラミと南京虫がいる。私たちは肌着を脱いで、昼の明るい所で毎日シラミを数えた。きょうは百二十匹いた、百三十匹いたと数えるのが楽しみだった。シラミを数えている間だけが、苦しみを忘れることのできる時間だったからだ。ここにいた囚人たちは皆、そのようにしていた。

 −拷問を受けて二週間ほどすると、拷問の三日前に予告があった。この三日間は苦しく、切実なものである。予告されてから時間があればあるほど、この苦しみは長くなる。拷問は夜にしか行われない。夜九時から明け方の三時ぐらいまで、悲鳴の連続だった。

 林氏は釈放されて大同保安署を出たが、しばらくはまともに歩くことができなかった。一ヵ月以上前に足の裏を殴られた痛みが、まだ残っていたからである。

 林氏以上の拷問を受けた文師は、一九四六年十一月二十一日、瀕死の状態で大同保安署から外に投げ出された。顔は雪のように白く、体は傷だらけで、血やたんを吐いていた。とても助かる状態には見えなかった。

 ところで、文師と同じ時期に収監された「腹中派」の許孝彬女史は、獄中で再臨のイエス・キリストに出会うことができる、という啓示を受けていた。

 じっとその時を待っていたが、許孝彬女史は獄中にいた文師がいかなる人物であるかを悟ることができないまま獄死した。

 「聖主教団」の教祖金聖道女史は、一九四四年に死去する前に遺言を残した。そこには次のように記されていた。

 「私に神様が託された、このみ旨を成し遂げることができなければ、他の人を通してでも成し遂げられるだろう。その代わりの人も、私と同じように淫乱の集団と誤解され、迫害を受け、獄中で苦しみを体験するだろう。そのような教会が現れたら、真実の教会だと思って訪ねなさい」

 のちのことになるが、一九五五年、統一教会に通っていた女子大生十四人が退学処分を受けたという「梨花女子大学事件」の新聞記事を見て、金聖道女史の息子鄭錫天氏は母親が遺言した教会ではないかと思い、統一教会を訪ね文師の弟子となった。

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   共産党とキリスト教による迫害で再逮捕


 平壌で伝道していた文師のところに集まった人たちは、それまでのキリスト教会に満足できなかった人や、霊界から直接教えられてきたという人が多かった。

 池承道さんもその一人である。ある日、彼女が祈っていると、

 「あと五年ほどで主(キリスト)が来られる」

 という声を聞き、それ以来、その日を待ち続けていた。五年後のある日曜日、池承道さんは主に必ず会えるような気がして、聖書と讃美歌を持って歩いていると自然に足が景昌里に向かい、導かれるようにして文師のいる所を訪ねた。

 池さんのような人たちは、文師の集会に行くようになってから以前の教会に通わなくなり、その教会の牧師の言うことも聞かなくなった。

 こうした信者たちの動きに対して、一部の教会や牧師たちは、嫉妬心も手伝って、文師の教えを異端として迫害したのである。

 ある冬の寒い夜、文師の教会に行くことに反対された婦人が、夫に殴られ髪を切られ裸同然の姿で、垣根を越えて文師のところにやって来た。その姿を目撃していた人も多かったため、文師の教会は「淫乱の集団だ」という根も葉もないうわさが広がり始めた。

 そして家族や既成教会から、平壌の共産党当局へ約八十通もの投書が寄せられた。

  一九四八年二月二十二日(日曜日)、再び文師は逮捕された。この日から、文師が自由の身になるまでの期間は約二年八ヵ月間だった。

 文師が逮捕されることによって、信仰を失っていく信徒もたくさんいた。また、文師のところに盲人を連れていき、

 「イエス・キリストが奇跡を行って盲人の目を開けたように、この盲人の目を癒してほしい」

 と願い出る婦人もいた。文師はそれに対して、

「私には病人を癒す使命はない」

 と答えたが、その言葉で文師から離れていった人もいる。

 一九四八年四月七日に公判が行われ、裁判所の法廷はキリスト教徒でいっぱいになった。彼らは文師に対して口々に、

「イエス・キリストは頭に何をかぶっていたか」

 と嘲笑したり、なかには

「あいつを石で打ち殺せ!」

 と罵声を浴びせかける者もいた。

 「韓国の李承晩のスパイで、詐欺行為をして罪のない人から金を奪い、社会の秩序を乱したー」。これがその時の文師の罪状だった。その罪状を文師は否認したが、法廷から「社会秩序紊乱罪」で五年の刑が言い渡されたのである。この時法廷にいた文師の弟子である金元弼氏は、文師の様子を次のように語っている。

 「文師は余裕をもって、堂々と裁判を受けていた。法廷から出るとき、手錠がはめられていないほうの手をあげて、『私が再び帰ってくる時まで元気で頑張っていなさい』というような表情で、笑みまでも浮かべていた」

 判決を下した判事は、文師が無実であることは分かっていたが、上からの命令で五年の刑の判決を下さなければならなかったことを、のちに告白している。平壌の刑務所に向かう文師の胸には恨みや憤りではなく、希望があった。なぜなら、刑務所には神が準備した人物がいることを、あらかじめ霊的に知らされていたからである。

 平壌刑務所に入った文師は、金元徳という青年に出会った。彼は国家機密漏洩罪で死刑を宣告されていたのだが、文師が平壌刑務所に入る直前に、不思議な夢を見ていた。夢の中で白髪の老人が現れ、金元徳氏にこう告げた。

 「お前は絶対に死なない。南から平壌にやって来た青年を迎える準備をせよ!」

 あまりにも唐突な内容だったため、金氏は忘れてしまったところ、再びあの老人が現れ、以前の夢の内容を信じなかったことを叱責し、近いうちに南から来る若い青年に会うようにと教えた。次に、亡くなった父親が夢に現れ、金氏を宮殿のようなところに連れていった。階段を三段上がるごとに三拝しながら上り詰めると、眩しいほど輝いている玉座があり、そこに一人の青年が威厳をもって座っていた。

 「顔をあげて、あの青年を見よ!」

 と父親に言われて、金氏は玉座のほうを見たが、眩しくてはっきりと見ることができなかった。続けざまにそうした夢を見ていた金氏の監房に、文師は収監されたのである。会った瞬間から金氏は文師に心が引かれ、文師の話を聞いてみたいという思いにかられた。文師はある日、金元徳氏に、

 「あなたはだれにも言えない悩みをもっていますね」

 と言いながら、夢に老人が現れた事実を尋ねた。彼は自分しか知らない夢のことを聞かれたので驚いたが、見た夢の一部始終を文師に打ち明けた。

 金氏はこの時、夢の中で玉座にいた青年が正に文師であることを悟った。

 文師は平壌刑務所にいる間、覡(男のみこ)だといううわさが広がり、文師を取り調べる際はとくに三人以上の看守が見張りをしていた。

 この平壌刑務所に1ヵ月半ほど収監されたあと、一九四八年五月二十日、文師は東海岸の咸鏡南道にある興南監獄(徳里特別労務者収容所)に移監された。



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