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第2章 興南収容所の真実
極端に粗末な食事と過酷な労働
興南には、戦前の野口財閥の建設した朝鮮窒素肥料株式会社興南工場があった。興南監獄(収容所)に入れられた囚人たちは、この工場で強制労働が義務づけられていた。興南の収容所では毎月百名近くの囚人が死んでいった。全囚人数が千五百人というから、実に十五人に一人の割合で死んでいったのである。結局その後も新たな囚人が送り込まれてくるから全体の人数は同じくらいだった。
収容所を支配していた北朝鮮の共産主義者は、三年後には八〇パーセント以上の囚人が死ぬと予想していた。事実、最初の一年間で四〇パーセントの囚人が死ぬという、地獄のような状況だった。収容所では、厳しく過酷な強制労働が課せられたが、与えられる食物は極端に少なかった。そのため、普通の健康体の人でも二年ともたない。
毎日のように裏門から棺が運び出され、文師の監房でも毎月一人は死んでいった。
同収容所にいた人によれば、一日の作業目標を達成すれば一人分の食事が与えられるが、目標が達成できなければ食事の量は二分の一に減らされる。さらに、作業場に行かなかった場合、三分の一に減らされたという。収容所での生活では、ご飯を一碗食べられるか半分に減らされるかで、天国と地獄を味わった。
病人でも、病気で苦しいことや痛いことよりも、空腹のほうがつらかった。だから、死が近づいた人でも、ご飯を少しでもたくさん食べるために無理して仕事場に行った。門を出たとたんに座り込むような体でも、追って工場に向かうといったありさまだった。
作業場に着いても仕事はできない。仕事をしている真似をしながら、作業が終わるまで耐え忍ぶ。こんなことも、すべてわずか一碗のご飯のためだった。
夕食は収容所に戻らなければ食べることができないから、仕事場で倒れることはできない。追ってでもまた収容所に戻った。このような毎日が繰り返されるのである。
囚人のなかにはご飯をスプーンですくい、口に入れながら倒れて死んでいく者もいた。横でそれを見ている囚人は、かわいそうだとも思わない。死んだ人が残したご飯を奪い合うのだ。死人の口のなかにのみ込めず残っていたご飯も、取り出して食べるという凄惨な現実が目の前に展開していた。
配給されるご飯は白米ではない。大豆、あわ、とうもろこし、麦などを混ぜ合わせたもので、三日で食べ終わってしまうくらいのわずかな量だった。汁は塩と大根の葉が入っているだけ。
このような飢えの極限のもとでは囚人たちは普通、家族が面会に来ても、懐かしい妻や母親の顔を見る前に持ってきた物に目がいってしまう。多くの囚人たちは、面会にきた人がはったい粉(米または麦の新穀を炒り、ひいて粉にしたもの)を持ってこないと分かるとひどくがっかりしたものだ。
囚人たちは自分の与えられたご飯を食べながら、他人のご飯から目を離さない。自分が食べていることも忘れる。そして、食べ終わって空の茶碗を見て驚いて叫ぶ。
「だれがおれの飯を食ったのか」
喧嘩も絶えなかった。同じ監房の囚人が面会ではったい粉を手に入れたと聞いただけで、眠ることができない人もいた。はったい粉を盗んで食べたいという思いと、それを思いとどまらせる良心とが、葛藤して眠れないのである。
強制労働が行われた興南肥料工場では、硫安(硫酸アンモニウム)がベルトコンペアーで運ばれて、工場の真ん中に落ちてくる。それをかます(袋)に入れ、はかりで四十キログラムに計って、縄で縛って貨車(トロッコ)に積み込む。
十人一組で、千三百袋が一日のノルマだった。このノルマは、相当のスピードでやらなければ達成できない分量だ。
おおよそ、約二十秒で四十キロのカマス一袋をつくるくらいのスピードだが、これは厳寒の冬に下着だけで仕事をしていても汗が噴き出す重労働だった。
かますを扱うため手の皮がはがれ、肉が赤くむき出して出血する。そこに、硫安がつけばその痛さは格別である。
文師は綱を解いて指先にかぶせるキャップのようなものを作って、苦しんでいる囚人に与えた。
かますに肥料を入れ、綱で縛る仕事をすると着ている綿の服は三日間もしないうちに裂けてしまう。硫安が服につけば穴があく。そのため、監獄では食べ物や水の次に貴重なものが針だった。
囚人のある者は、針金を利用して針を作った。ある監房で針が一本できたといえば話題になった。その針一本を手に入れるためにも、賄賂を使わなければならない。
ところで、文師はどんなに暑くなっても決して肌を見せなかった。他の囚人はそのことが不思議でならなかった。
歴史を通して修道士、修道女たちが肌をあらわにしなかった以上の基準を立てることを、天から要求されたため、文師は他人に素肌を見せなかったのである。
一九四九年十二月中旬からある短い期間、文師にとって一生忘れることのできない出来事が起きた。毎食、三分の二くらいしか脱穀していない蕎麦が配給された。
最初の日、それをそのまま食べた囚人たちの皮膚がむくれた。殼があるので食べにくい。それでも飢えているため、ついのみ込んでしまう。そうして、病気にかかった。
文師は蕎麦の薄い皮を一つ一つていねいにはがして、いつもの三倍の時間をかけて食べた。囚人たちにとって、この期間は最も苦しい期間だった。文師は今でも、一年のうちこの時期を迎えると、その時のことを思い出し、神に祈りをささげるという。
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「この地獄を勝利できれば世界を救える」と決意
多くの囚人たちは興南収容所で暮らすうちに、たちまちやせ衰え、太ももが子供の太ももよりも細くなり、死人のように見えてきた。
だから、収容所から仕事場に向かう途中、足に力が入らず何度も足が曲がる。多いときは十回以上も曲がってしまう。
肥料工場に着けば十人一組で作業が始まる。だれもが一番楽な仕事をさせてほしいと願った。しかし、このような厳しい環境のなかで、文師は、
「最もつらい仕事は自分がやる」
と決意していた。だから、四十キログラムの肥料をかますに入れ、それをはかりにかけるという、一番苦しい労働を自ら進んで受け持ったのである。
この精神は、文師の生涯を貫いている。
「最悪の環境で勝利できなければ、人類を救済することができない。この地獄の状況で勝利できれば、世界を救済できる」
「現在を克服できない人間は、未来に勝利をもたらすことは不可能である」
こう思って苦難に立ち向かった。地獄のような環境のなかで、仕事に誠心誠意を尽くしたのだ。
「私はこの作業をするために生まれてきた」
と自分に言い聞かせた。
休憩時間を知らせる鐘が鳴っても、聞こえなかったこともある。周りにだれもいなくなって、初めて休憩時間であることを知った。
文師は三週間ほど、食事の半分を他の囚人に与える決心をし、実行した。
与えられた食事をすべて食べても栄養失調で死んでいくのが、現状だった。他の囚人に食事の一部を与えることなど、だれも考えたりしない。
しかし、そのような環境であればあるほど、他人に与えることによって感じる喜びと慰めは大きい。これが文師にとって、過酷な牢獄で生きる力となった。
一人分すべてを自分で食べたときは、神から二人分の食事を与えられたように感じて満たされたという。
文師は毎日、心のなかで自分に問いかけた。
── パンを慕うほど神を慕うか。
なぜ、文師は人が嫌がるつらい仕事を進んで選んだのか。その理由の一つは、神が自分以上に困難な立場に立っていることを知っていたからだ。
「今やっている重労働の十倍の労働でもやり抜く」
これが文師の決意だった。
文師は当時のことを振り返って、こう語っている。
「悪に対して永遠に戦う決意を固める最良の場が牢獄であった。私は悪を打ち負かすことができると確信した。「金日成の力がいかに強くても、獄中でよく訓練され、この苦役に耐え抜けば何ものにも勝利することができる』」
文師はより重い労働を求めて自身に言い聞かせた。
「私はこれを成し遂げてみせる。できなければ死んでしまう」
文師は厳寒の興南で、裏地のない薄い服を一枚着ただけで寒さにも耐え抜いた。厚くて重い服はすべて他の囚人に与えて、いつも薄い夏服を着て自分自身を訓練していた。
神に「監獄から救い出してほしい」と祈ったことは一度もなかった。
「私に同情しないでください。必ず人類を救済します」
文師は、どんな苦境にあっても神を慰める祈りをささげた。
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「復帰の園」に込められた心情
興南の収容所に朴正華氏が移送されてきたのは、文師よりもあとのことである。
平壌で大隊長をしていた朴氏は、上部の指示を仰がず軍隊を出動させた職務怠慢による罪で、興南に送られたのだった。
朴氏が強制労働に服してから間もないころ、同氏の下手な仕事ぶりを見て語りかけてきた青年がいた。
その青年が文師である。
「あなたがこのような仕事をしていては、満期を迎える前に死んでしまう。私があなたに荷造りを教えてあげるから私の話を聞きなさい」
文青年から一週間ほど教示されると、朴氏もしだいに健康な人たちのように、若い人たちと一緒に作業をすることができるようになった。
それから間もなくして、朴氏は不思議な夢を見た。
「正華よ、正華よ、起きろ!」
韓国服を着た白い髭を生やした老人が、朴氏に夢の中で語りかけてきたのである。「おまえに荷造りを教えてくれた、若い人がだれか知っているのか?」
「何の罪で入ってきたのか分からないが、私と一緒に懲役に服している罪人です」
朴氏がこのように答えると、その夢に現れた老人は次のように語り始めた。
「おまえは幼いときから再臨主(再臨のイエス・キリスト)が来ることを待ち望んできたが、その方が再臨主だ」
朴氏は夢から覚めた。とても信じられるものではなかったが、目覚めたあと眠りにつくことができなかった。
翌朝、文師に会いたいという心情にかられた。朝食後、全体が集まる時、文師を探しその後ろに席を取った。朴氏が疑いの気持ちで文師を見つめている時、
「昨夜、あなたは夢を見なかったか?」
と文師が朴氏に語りかけてきた。この時の朴氏の驚きは、大きな棒で胸を殴られたような感じだったという。
「はい、夢を見ました」
朴氏は答えた。
「その夢で、私をだれだと言っていた?」
「再臨主です。再臨主だと言っていました」
このようなことがあった数日後、朴氏は千五百人の囚人のトップの位置にあたる総班長の役に就くことになった。
総班長の仕事は、作業所に行く囚人の数を確認し、人を配置することである。
朴氏は文師を作業の中で一番易しい仕事に配置した。その仕事にはノルマもない。
ところが、文師は朴氏を次のように戒めた。
「おまえが私の体を思って、このような所に送ったのは分かるが、私がここに入ったのは罪のためではなく、天のみ旨を成すためである。
このような易しい仕事をしてここを出れば、
『収監中、朴正華という人を通して楽な仕事をしたので生き残ったのだ』
とサタン(悪魔)は讒訴する。だから、このような老人がいるような所に私を配置してはいけない」
総班長である朴氏のもとには、面会に来た人からの食物などが囚人を通して集まってきた。飢えのなかでも、総班長にはったい粉を持っていく理由はほかでもない。
自分に易しい仕事を回してほしいというシグナルである。
朴氏は受け取ったはったい粉の一部は、必ず文師に届けた。
「昨日、はったい粉を召し上がりましたか?」
と朴氏が文師に問えば、いつもの答えが返ってきた。
「私よりもっと、おなかがすいていた人がいたので、それを全部分けてあげた」
文師ははったい粉をよく人に分けてあげる人として、監獄のなかでもうわさになるほどだった。
ある日、文師はマラリヤにかかった。高熱のために顔を赤くし、時には震えながらも一生懸命仕事をする文師を、朴氏は見るに見かねてこう懇願した。
「これから一週間ほど、休める部屋を用意しましたので、明日からそこで休んでください」
「おまえは、またサタンが私を讒訴するようなことをするのか?」
マラリヤにかかって六日目になると、文師は流れるような汗をかき、足もフラフラしてバランスがとれない状況になっていた。文師の手も思うように動かない。
「弟子の切なる思いを聞き入れてください」
朴氏は文師の袖をつかまえて哀願した。
「私が苦労しているのは、この歴史のプログラムのとおりである。おまえの誠意は分かるが、私はおまえ以上に苦しいのである」
文師は朴氏にこう語りながら、仕事を続けた。
文師は死線をさまようなかで、過去のイエス・キリストをはじめ聖人、義人たちが越えることができなかった峠を越え、彼らの“ハン”(恨)を解かなければならなかった。
そのためには、天地に一点の負債もあってはならない。だからこそ、文師は興南では、常識では理解できない壮絶な戦いを続けたのだった。
毎年、文師は模範労働賞に選ばれた。一般の囚人の二倍の仕事をしたのが受賞の理由だった。
「文先生が模範労働賞を受賞されて本当にうれしいです」
朴氏が言うと、文師は次のように答えた。
「私は受賞したのがうれしいのではない。サタンの誘惑に勝ったのがうれしいのだ」 収容所から毎朝、工場に出かけるとき、文師は、
「働くために行くのではない。理想世界へ旅行に行くのだ。きょうも何か新しい体験をするぞ」
と思って作業場までの四キロメートルほどの道を歩いたのである。
文師はこのような死と直面するような興南の収容所で「復帰の園」という詩を作った。
神の愛と理想を中心とした、希望と喜びの世界を表現している詩である。当時はこの詩にメロディーがついていなかったため、日本の軍艦マーチのメロディーをつけて歌った。
獄中での文師の内面世界の一端が伝わってくる詩だ。
一 千歳の願い荒れの園に
勝利の基を求めて
尽くし来られた血の御跡
これが父の賜う愛
これが父の賜う愛
二 幸の花咲く自由の道
楽しい望みの花咲きて
喜び嬉しい園の香り
これが父の望む理想
これが父の望む理想
三 咲き染む自由、幸の園
嬉しく楽しい父の許
永遠に生きゆく花の園
これが父の願う園
これが父の願う園
四 永遠の願いのこの理想
父が立て給う本然の国
楽しく香りて誉れ帰せ
これが父の創る善
これが父の創る善
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母親との面会
文師が興南の獄中にいたある日、母親の金慶継さんが訪ねてきた。息子が興南の収容所に入ったことを知って、面会に来たのだった。
文師の故郷定州から興南までは約六百キロ離れている。当時、定州から興南に行くには数多くの証明書を取らなければならず、容易なことではなかった。
髪は丸刈で、囚人服を着た息子の姿を見て、母の慶継さんはとめどもなく涙を流した。
「私がどれほどお前を愛したか知れないのに、どうして監獄なんかに入るのか。私の話を聞いていれば入らなくても済んだのに……。なぜ、お前がこんなに苦労しなければならないのか」
母親がはったい粉を差し入れすると、文師は母親が見ている前でそのはったい粉を囚人たちにわけてあげた。
やっと母が工面して、持ってきたはったい粉だった。しかし、息子は食べないで、こともあろうに他の囚人に全部あげてしまうー。これを見て、母親は気も狂わんばかりだった。
自分が食べず、人にあげれば母親が悲しむことを、文師が知らないはずがない。けれども、知っていてもそうせざるを得なかった。
なぜなら、囚人たちのなかには、面会に訪ねてくる人もなく、一度も差し入れをもらったことのない人がいたからである。
ある時、母親が差し入れてくれたはったい粉を、同じ監房にいる二十五人に等しく分け与え、残りを棚の上に置いたところ、一人の囚人がそれを盗んだ。翌朝、それが発覚し、他の囚人から盗人が袋叩きにあったことがある。
文師は殴るのをやめさせ、そのはったい粉を再び囚人たちに等しく分け与えた。
母親の差し入れは、はったい粉だけではなかった。パジ(ズボン)とチョゴリ(上着)もあったが、それも文師は着ないで自分以上にひどい囚人服を着ていた人にあげていた。
だから、文師の着ていた囚人服はいつもボロボロで、風が吹けばヒラヒラするものだった。
「あの服はおまえのために持ってきたのに、だれが分けてあげるように言ったか、こんなことがあっていいものか!」
涙を流しながら叫ぶ母親に、文師は言った。
「私は文なにがしの息子ではない。その前に大韓民国の息子である。また、大韓民国 の息子である前に世界の息子であり、天地の息子である。だから、彼ら(他の囚人) を愛したのちに、母親の言うことを聞くのが愛の道理である」
文師は自分の両親や妻子よりも、他の人々を愛した。それは、神ご自身が自分の息子(イエス・キリスト)を犠牲にしながら、人類を救おうとされたことを知っていたからである。
文師はその神の伝統に従ったのだが、子供のころから人一倍、母親思いだっただけに、内心は引き裂かれるようにつらいものだった。
文師が興南収容所に収監された期間は、一九四八年五月二十日から一九五〇年十月十四日までの約二年五ヵ月である。
北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の成立は一九四八年九月九日なので、文師が収監された期間は、共産主義体制下でのことだった。
共産主義革命による農地改革で、定州でも各家から貴重な食糧など多くの持ち物が収奪された。
いくら息子のためとはいっても、金慶継さんがはったい粉や衣類を準備することは容易なことではなかった。
しかし、収容所で苦労している息子のことを思えば、母は何も持たずに面会に行くことはできなかった。
冬になれば凍死しないかと心配して、結婚したときに着た服を持っていったこともある。
家の中にあるもので売れるものはすべて売り尽くした。
この牛がいなければ、農業をやっていくことができない、という大切な牛までも売った。
獄中の息子のために村中から物乞いしたり、遠い親戚に出かけていってまで、差し入れを工面したのだった。けれども、興南から戻ってくれば、
「もう二度と興南なんかに行かない」
と言って涙を流した。苦労して物を持っていっても、息子がそれを全部他の囚人に分け与えてしまうからだ。
それでも、何日か過ぎると、また息子のいる興南に行く準備を始めた。
「息子が収容所から出たら、二度と故郷から出さない。もし、再び収監するようなことがあれば、息子に代わって自分が入る」
これが母親の決意だった。
家の北側には大きな栗の木があった。その近くにあった弥勒の石像の前で、母親は息子のために祈り続けた。
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夢に現れる獄中の聖者
こうした文師の収容所における生活態度を見て、尊敬する人々が多くいた。
彼らは朝になると、競うようにして文師のところに来て挨拶をした。
朝、収容所から工場へ向かう前に
「出発準備!」
と号令がかかる。囚人たちは監房の横にある狭い廊下に出て、四列縦隊をつくって座る。準備の時間は十分以内。
そのわずかな時間を利用して、文師に挨拶するために他の監房から毎朝のように囚人がやってきた。文師がやめるように言っても、文師のところに来て顔を見せ挨拶をして、走り去っていく。
なかには文師の服に触れていく囚人もいれば、文師を抱擁する者もいる。彼らは、銃を持った看守たちの目をくぐって、這うようにしてやって来た。
看守に見つかれば独房に入れられるのが分かっていても会いに来たのである。
文師の横にいる囚人たちは、このことに関して知っていてもだれ一人として看守に報告しなかった。彼らも文師を尊敬していたからである。
一粒のご飯が落ちても拾って食べ、食べ物を見ればよだれを流す悲惨な環境だったが、面会してはったい粉をもらえば、そのはったい粉を文師と共に食べようと新聞紙に包んで工場まで隠し持っていく囚人もいた。
昼食の十二時の鐘が鳴ったら、広い工場のどこかから文師のところにやって来て、昼食の前にそのはったい粉を文師と食べるのである。
死んでいくとき、文師の名前を呼ぶ人もいた。
「先生と一緒に良い日を持てたことを思い出してくださる日が来ることを……」
のちの話になるが、文師が興南収容所から出て平壌に向かう途中、咸興にある文正彬氏の家に立ち寄った。
彼は文師と共に興南収容所にいて、毎朝、文師のところに来て挨拶をした一人である。文師が挨拶をして発とうとすると、文正彬氏はついてきた。彼には妻と二人の子供がいた。文師が、
「なぜ私に従ってくるのか?」
と尋ねると、彼は次のように答えた。
「私の行く道は妻子と共に生きるのではなく、先生に従って生きるのです。死ぬのも先生と共に死にたい」
文師は十六歳(数え年)のとき、生涯を神と人類の救済のためにささげる決意をした。
再臨のキリストとして立つためには、二千年前にイエス・キリストが成し遂げることができなかった勝利の基準を、打ち立てなければならない。
イエスの十二人の弟子は、イエスが十字架にかかるとき、イエスを見捨てて逃げ去った。だから、文師は、獄中で十二弟子を立てなければならなかったのである。
しかし、監房の中には共産党が配置したスパイがいた。そのため文師は直接み言を語って伝道することができなかった。
にもかかわらず、多くの囚人が文師を慕い、従ってきた。また、霊界から文師に従うよう教えられてやって来る囚人もいた。
先祖が夢に現れて、
「何号室の五九六番(文師の囚人番号)に、あなたのもらったはったい粉を手をつけないでささげなさい」
と命令されたこともあった。
中には、夢のお告げに従わずに、一人で食べようとしていた囚人がいたが、その囚人には、先祖が夢の中で首を絞めてまで、文師にはったい粉を持って行かせようとしたこともあった。命よりも貴重なほどのはったい粉を持った囚人たちが、
「ここに五九六番がいますか?」
と文師を訪ねてくることがたびたび見られた。
とはいえ、夢で先祖が二、三回現れた程度では、人間は生死を超えるような行動は起こせない。
彼らをそこまで駆り立てたのは、やはり、文師の「真の愛」に触れたからだった。
文師と共に収容所にいた朱昌郁氏は、文師について次のように述べている。
「はったい粉ひとどんぶりと新しい服一着が交換されるほど、はったい粉が貴重でした。それなのに文師は面会に来た母親や人からもらったはったい粉を、周りの囚人たちにすべて与えるのです。それに作業のなかで一番きびしい仕事ばかりを受け持っていました。囚人たちは率先垂範の文師に対していつも良い印象を持っていたのです」 文師が興南収容所に入る前、神の啓示を受けて文師のところに訪ねてきた婦人がいる。玉世賢さんという。
彼女は五回ほど平壌から興南収容所に面会に行ったのだが、その時のことをこう語っている。
一カ月分あると思って持ってきたはったい粉を、文先生はその日のうちに他の囚人に分けてあげるのです。また、行くたびに新しい服を差し入れましたが、面会に行くといつもボロボロの服を着ていました。あとで分かったことですが、新しい服は出獄する人たちにプレゼントしていたのです」
文師はまた、平壌に残してきた信徒たちのために毎日熱心に祈った。
興南収容所では、父母が子供のために祈り続けることすらも困難な環境だったが、血のつながりのない多くの人々のために文師は睡眠時間を削って祈り続けた。
「収容所の中で救世主(真の父母)になれなくて、真の救世主にはなれない」
こうした文師の「真の愛」の実践は、多くの囚人たちの心をとらえて離さなかった。
文師と同じ監房にいて、現在ソウルに住む金仁鎬氏もそうした一人だった。興南刑務所での文師の生き証人ともいうべき人物である。
今回、金氏に直接インタビューできたので次章で紹介したい。
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