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第3章 生き証人・金仁鎬氏に聞く


   文鮮明師と一緒だった金仁鎬氏に直接取材

 金仁鎬氏は今から四十数年前、興南収容所で文鮮明師と共に過ごした一人である。

 金氏に直接会って話を聞けば、もっと具体的に、客観的に興南での文師の姿について知ることができると考え、私は意を決して韓国に飛んだ。

 ソウル在住の金氏に会うアポイントは日本では取れなかったが、韓国に行けばなんとか会えるだろうという予感がしていた。ソウルに着いて三日後、梨泰院にあるホテルのコーヒーショップで、金仁鎬氏と会うことができた。

 金氏は、興南での収容体験などをつづった『ソウルに来る道』をすでに出版していた。同書には、興南収容所での文師の姿と収容所内の様子が一部書かれている。日本を発つ前に、私はその本に目を通しておいた。

 約束の午後三時、初老でやせぎみの紳士が現れた。初対面だったが、入ってくるとすぐに金仁鎬氏だと分かった。

 私はなぜ会いに来たかを簡単に説明して、すぐにインタビューを始めた。

 インタビューの中心的なテーマは二つだった。

 @興南収容所での文師はどのような人物だったか
 A収容所で囚人たちはどのような生活をしていたか

 金仁鎬氏とのインタビューの内容を紹介する前に、同氏が興南収容所に入った経緯を簡単に触れておきたい。

 金氏は一九二六年、平安北道寧辺郡に生まれた。寧辺は現在、北朝鮮が核兵器を開発しているとして問題になっている所である。

 金氏は共産政権下の一九四七年、平壌で共産党打倒を目指す秘密結社・朝陽団を組織し、金日成打倒のビラをまいた。この時、金氏は二十一歳だった。当然のことながら検挙され、一九四八年、興南収容所に移された。

 これは文師が平壌刑務所から興南収容所に移監されたのと同じ年だった。金仁鎬氏が興南収容所から解放された日は、文師と同じ一九五〇年十月十四日である。

 興南収容所には、当時、千五百人ほどの囚人がいた。これぐらいの人数になると、文師と同じころに収監されても、文師について知らない人もたくさんいたはずである。

 しかし、金仁鎬氏は監房内の移動があったとしても、不思議と文師と同じところに移った。文師と同じ監房で一年ほど寝起きを共にしたのである。

 「文師は聖人です」

 獄中の文師について聞いてみたところ、開口一番、金氏はこう答えた。

 私はもう少し話を聞き出すために、いくつかの質問を投げかけてみた。金氏はぽつりぽつりと、文師について語り始めた。

 「私は興南収容所にいたころ二十二、三歳でした。文先生は私より年上で、高貴な方でした。人生の問題についても相談することができ、心から尊敬できました。それに、文先生は本当に寝る時間の少ない方でした。一日の睡眠時間は三時間くらいではなかったでしょうか。『不言実行』で、あまり語ることはありませんでしたが、行動で私たちに見本を示してくれたのです」

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   文師に神通力があるといううわさ


 金氏の著書『ソウルに来る道』の中から、文師について触れた部分を紹介しよう。

 文鮮明氏はやはり、人と異なるところが多かった。彼はいつも正しい姿勢でいた。

 だれもが疲れて、お互い寄りかかったり、壁に斜めにもたれて座っているのが普通だった。その中で、文鮮明氏だけは常に正座しており、座っているときも床に横になっているときも、その姿で一目でそれと分かった。

 彼は共産党員の看守たちも認める模範囚だった。その理由は、少しの反則も犯さなかったし、体格は壮健で少しも休まず、熱心に作業をしていたからである。

 「私が少しでも熱心に作業をすれば、同僚のみんながそれだけ苦労しなくて済むだろう」

 周囲から、体を少しいたわったらどうかと言われれば、文氏はいつもこのように答えながら、働く手を止めようとはしなかった。

 文鮮明氏の罪名は「社会紊乱罪」というもので、当時は通称「反動罪」というものと、ほとんど同じ罪状だった。

 当時、キリスト教はいろいろな教派に分かれており、無知な人々を混乱させていた。文鮮明氏はキリスト教を整備して、統一しなければならないという信念を持ち、「真なる信仰は家庭から」という「家庭教会」運動を展開した。

 そして、必ずしも教会に行かなくても、いつでも真実な心で祈りと反省をすれば、だれでも篤実なキリスト教信者になれると教えていた。

 草創期、彼の感動的で人間味あふれる説教により、多くの信者が集まってくるようになった。

 そこで、当時の既成キリスト教団体から嫉妬と謀略により、「異端」という侮辱を受けた。このような既成キリスト教会の偏見と、共産党の宗教抹殺政策とが結びついたのだった。

 文氏は集会中に連行され、「社会秩序紊乱罪」という名目で、約三年(実際は五年)の懲役刑を言い渡された。

 文氏は言葉は少なかったが、いつも穏やかな顔で一貫しており、仕事の面では、だれも彼の力と熱心さに及ばなかった。

 一つだけ気になることがあった。文氏は一度も風呂に入らないのだった。

 囚人たちは、肥料工場での仕事を終えて出てくると、工場用水で体を洗っていた。しかし、文鮮明氏は毎日、そのままで過ごしていた。

 一日中、忙しく仕事をすると、目や鼻にまで肥料の粉がつき、それに汗とほこりが混ざってべとつき、風呂に入らなければ耐えられなくなる。そのため、たとえきれいではない廃水のような工場用水を使ってでも、沐浴するのである。

 後日、この文鮮明氏の気になる謎が解けた。

 ある日、私(金氏)は用便をしたいと思って、いつもより二時間ほど早く起きた。

 まだ夜が明けていない監獄の中は暗かった。暗闇に目を慣らそうとして静かに座っていると、部屋の片隅で暗闇の中に座っている文鮮明氏の姿が見えた。

「金君かい?早く起きたね」

 祈祷でもしていたのだろうか、文氏は閉じていた目を開けて言葉をかけてきた。

「毎日このように夜明け前に起きておられるのですか?疲れないのですか?」

「大丈夫だよ。早く起きるのに体が慣れて、もっと休もうとすると体がむずむずするんですよ」

 用便を終えて帰ってくると、文鮮明氏は上着を脱いで、タオルに水をつけて冷水浴をしていた。

 「文先生、寒くありませんか。風邪でも……」

 「工場で体を洗わないから、こうでもして体を拭かなければ耐えられないんですよ」 つまり、彼は工場廃水のような水では決して体を洗わず、飲む水を大切にタオルに況しておき、毎日、明け方に全身をふき清めていたのだった。

 起きて祈りを終えたあと冷水浴をして、もうI度祈ったあと、食事をして作業に出かけるのであるから、彼の強靭な体力と精神力は大変なものだった。

 死と隣り合わせの環境で、自分の体力を管理することだけでも並たいていのことではない。

 それなのに、自分の宗教儀式を守っていくために、黄金にも値する大切な睡眠時間を、毎日二時間ずつ削るということが不思議でさえあった。

 もう一つ不思議なことがあった。

 このうわさは収容所内に広く行き渡って、知らない人はいなかった。うわさによると、文鮮明氏が神通力を持っているというのだった。

 共産党の中心分子である看守たちは、反動犯とか社会秩序紊乱犯たちには、理由がなくても、過酷に取り扱っていた。しかし、文鮮明氏だけにはそうでなかった。

 囚人たちは最初、文氏があまりにも熱心に作業し、全く規則を犯さないからだと考えていた。しかし、実は他に別な理由があるといううわさだった。

 文鮮明氏には神通力があるので看守たちは恐れて、あえて虐待できないというものだった。

 ある看守が理由なく文鮮明氏を虐待すると、その夜、山の神様のような老人が現れて、看守に言い聞かせたという。

 看守がそれでも文鮮明氏を苦しめると、また夢に老人が現れて看守を処罰したという。だから、どんなに悪質な看守でも文鮮明氏を苦しめることができないのだった。

 さらに不思議なことは、こうした事実を文鮮明氏自身が前もって知っていて、前日自分を苦しめた看守に、前夜見た夢の話をあたかも自分が見たかのように、詳細に話して確かめるということだった。

 本当に不思議なことだったが、文鮮明氏はそのうわさについては何も言及しなかった。

 理由はともかく、初めて興南に来て文鮮明氏を苦しめた看守たちも、数日後には態度が突然変わるところから見て、全く事実無根のうわさとは思えなかった。

 私は昔も今も、キリスト教徒でもなければ統一教会の信徒でもないので、気兼ねなく話をすることができるが、文氏が興南監獄で見せた変わらない言行と人格は、長らく忘れることができなかった。

 もう一つ、文氏との面白い思い出がある。

 当時の収容所では、食べる物がほんとうに不足していて、差し入れた食べ物を隣の同僚に分けてやることはとても難しい状況だった。

 しかし、文氏は自分が食べるべき食事を、ひもじくて我慢できない隣の同僚たちに分けてやっていたのだった……。

 当時、収容所では食べ物に飢え、重労働に苦しめられていた囚人たちの間に流行していた話があった。監獄の中でもらって食べた豆一つは、一般世間での豚一匹に匹敵するというのである。これが収容所の実情を物語っている。

 文氏と興南で別れたあと、私は長いあいだ文氏の消息を知らなかった。私も彼も生き地獄から生きて帰ってきたということが、どれほど大きな祝福であったことか分からない。

 以上、少し長くなったが金氏の『ソウルに来る道』から引用した。

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   これが監獄の一日


 人間だれしも最低の立場に立てば、その人間の真実の姿が現れる。

 まして、興南収容所は地獄のような場所だった。生死をさまよう環境のなかで文師がどう生きたかは、文師の真の姿を知るためには貴重な資料となろう。

 文師はある人々にとっては再臨のイエスであり、弥勒仏だという。人類の救世主であり、人類の・六の父母〃である。また、ある人たちから見れば、ヒトラーやスターリン以上の独裁者であり、世をまどわす大悪人である。収容所内における文師の生き方を見れば、どちらが真実かをはっきりと見極めることができるだろう。

 収容所で囚人として一緒に過ごした金仁鎬氏によれば、収容所には文鮮明師以外にも何人かの牧師がいた。しかし、中にはとんでもない牧師もいたという。

 収容所でマラリアが大流行したことがあった。その時、あるキリスト教の牧師の娘婿もマラリアにかかった。夜中、この娘婿は熱を出し苦痛を訴え、舅である牧師に薬(キニーネ)をくれるように哀願した。ところが、その牧師はマラリアに効く薬を持っていたにもかかわらず、娘婿の頼みを断ったという。

 囚人たちはその牧師の行いを見て、その牧師を「木死」と言ってあざ笑うようになった。牧師も木死も朝鮮語では同じ発音の「モクサ」である。

 囚人たちは、この牧師が困難な環境のなかにいたとはいえ、他人ならまだしも娘婿に対してそんな冷たい仕打ちをしたので「木石のように死んだ人間だ」と軽蔑したのだった。

 ところが、その牧師は今日、韓国で大きな教会を運営して、信者たちから尊敬と名声を博している。金仁鎬氏はこの牧師の過去を知っているので、複雑な気持ちになるという。

 興南収容所の監房は狭かった。一部屋に約二十五人(または三十〜四十人)が詰め込まれていた。だから、監房では体を斜めにしなければ休むことができない。夜中に、トイレにでも立てば、再び自分の寝る場所を確保するのも容易なことではなかった。

 四人ずつ頭を反対にして休んだという話を聞きながら、私は囚人の寝ている状態を簡単にスケッチした。

 金仁鎬氏は私のスケッチを見て、すぐにボールペンを取って書き直し始めた。

 私は向かい合って寝ている互いの囚人の足先が触れ合うようにスケッチしたのであるが、実際は互いに相手の股の中に片方の足を入れ、両側の囚人たちの足が交互に組み合わさるようにして、少しの隙間もなく休んだのだった。

 トイレは出入り口から一番遠いところにあった。新しい囚人ほど、トイレの近くで休むのが規則になっていた。監房長はトイレの反対側、すなわち鉄の扉に一番近い所を占める。

 あらかじめ断っておかなければならないことがある。金仁鎬氏は興南の収容所体験から半世紀近くもたとうとしているので、日時など細かい点についての記憶はあいまいな点がある。

 収容所の一日のスケジュールについても、『ソウルに来る道』に書かれていることとインタビューとでは多少違いがあった。

 ここでは、本人から直接聞いて確認した内容を紹介しよう。

 一日のスケジュールについては以下のようだった。

 起床は早朝四時半ごろ。サイレンが鳴り、看守たちが「起床!」と叫んで回る。続いて朝食が配給される。

 食事の時間は三十分あったが、実際には二、三分で終わってしまう分量だった。

 五時ごろ、囚人全員は運動場に集合して点呼をとる。六時ごろ、収容所のある徳里から六キロほど離れた、興南肥料工場に向かって出発する。

 手をつないで下を向いて歩く。脱走を防止するためだ。日曜日を除けば、どれほど激しく雨が降ろうが、雪が積もろうが、収容所と工場までの道を往復する。

 七時半ごろ、興南工場に到着。そこで、その日の仕事の配置が決められ、八時ごろから仕事が始まる。

 昼食は十二時から始まる。朝食と同様、三分もあれば食べ終わってしまう量しかない。

 昼食時間の残りは娯楽会が開かれた。といっても、囚人たちが楽しむのではない。看守たちが楽しむために、囚人たちに流行歌などを歌わせるのである。

 歌う人は毎日、ほとんど決まっていた。娯楽会の時、居眠りでもしようものなら後ろから殴られる。囚人同士で雑談することもできなかった。

 午後の仕事は一時ごろから、夕方六時ごろまで続く。そして、再び収容所に向かう。収容所に戻れば、看守たちのチェックを受ける。作業場からガラスのかけらや、タバコの吸い殼、ひも、マッチなどを隠し持って来なかったかを調べるのだ。

 夕食は八時ごろから始まる。九時からは「読報会」が三十分ほど行われる。「読報会」とは、朝鮮労働党の機関紙である『労働新聞』の社説を読んで、討論する会である。また、その日の作業についての批判や、収容所に入ることになった罪過に対する自己批判もやらされた。そして、十時前後に就寝する。

 日曜日だけは仕事がなかった。そのかわり、「読報会」が二時間と日光浴が一時間、義務づけられていた。囚人たちはこの日に、平日にはできない洗濯など、日常生活のすべてをやっておかなければならなかった。

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   小石が入っている苦いスープ


 極度の栄養失調と過酷な労働によって、興南収容所に来ると囚人たちはみなやせ始める。

 一ヵ月を過ぎると老人や体の弱い人は、二日に一人ぐらいの割合で死んでいった。マラリアで死ぬ人は約二パーセント。その他の死者はほとんどが栄養失調である。

 皮膚を指で押して、それが戻らなかったら、死ぬのは時間の問題だった。

 朝食と夕食は徳里の収容所の中で食べる。各監房には鉄の扉の横に食事を出し入れする場所がある。茶碗のような器に入れられたごくわずかなご飯と汁だけである。

 私は、金仁鎬氏に茶碗の形をスケッチしてもらった。ご飯や汁(スープ)は人間が食べるようなものではなかった。スープは海水を煮たためか苦く、食器の底に何かあると思ってじっと見ると、小石が沈んでいたりする。

 食事のメニューはいつも同じだった。昼食は仕事場で食べる。そのとき、ご飯は小さな板の上に角張った型(豆腐のような形)にして出される。今度は私がスケッチして、確認をとった。

 水は朝と夕方の二度、一人ひとりに与えられた。昼は各個人には与えられなかったが、水がためてあるところから一杯だけ飲むことができた。水の量を尋ねると、金仁鎬氏はテーブルの上にあったグラスを持ち上げて示した。

 興南収容所で囚人たちは九月九日、つまり北朝鮮の建国記念日を迎えた。この日は金日成主席の配慮で、収容所に牛一頭をプレゼントしてくれたという。所長の長い金日成賛美の演説が終わり、待ちに待った食事になった。ところが、牛肉のスープだというのに、牛の脂は一滴も浮いていなかった。

 こんな悲惨な生活が続くと、囚人たちのあいだには殺伐とした雰囲気が生まれる。

 また、監房の中には看守に情報を提供するスパイがいた。だから、お互いに話もしなくなり、だれがスパイなのかを探るために互いに監視し合ったりした。

 監房内の様子を報告すれば、ご飯が少し余計にもらえたりするといった便宜が与えられるため、囚人は簡単にスパイの役を引き受けてしまうのだった。

 興南肥料工場で働いているのは、囚人が大半だったが、一般の労働者たちもいた。

 彼らは八時に出勤して六時になれば仕事を終える。ノルマなどは特になかったようで、作業の合間にタバコを吸ったり、雑談も自由にしていた。

 「昼食時間になって、彼らが家から持ってきた弁当を食べる姿を見ると、私たちは自然に口からよだれが流れたものだ」

 金氏は当時を思い出して、そう語った。

 しかし、囚人たちには途方もないノルマがあり、作業時間内にノルマを達成しなければ、終わるまで作業をやらせられる。できなければ夕食が半分になったことは、すでに書いたとおりである。

 十人一組で仕事をするのだが、分担は以下のようだった。

 ベルトコンペアーから肥料が落ちてくる。その肥料を二人で、かますに入れる。それをはかりにかけて、四十キログラムの重さに合わせるのが一人、開いているかますの口を縛る人が二人。そのかますを運ぶ人が二人いる。

 そして、その縛ったかますを二人で貨車(トロッコ)の上にあげる。もう一人は、貨車の上で肥料を受け取って積む人である。その他、交替要員が一人いる。この一人を加えて十一人が一組となって、一日千三百かますをこなさなければならない。

 この十人一組(交代要員を入れると十一人)の仕事の分担については、『ソウルに来る道』の中に書かれている内容とは若干異なっている。しかし、十人一組で千三百かますをこなすことなどは同じである。

 一時間ごとに十分ずつの休憩時間があったが、実際には休憩を取ることができない。休まずに仕事をして、かつ時間を延長して作業しなければ、千三百かますという目標は達成できないようになっていた。

 夕方、収容所のぼんやりした明かりで手を見ると、指先の皮がみんなむけていた。指先がひりひりする。これは金仁鎬氏だけでなく、みな同じだった。

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   文鮮明師は“生きた神様”


 インタビューはさらに続いた。

 ── 囚人服は何度か支給されたのですか。

 「一回きりです。服など破れれば、自分で繕うのです」

 ── 収容所に入ったとき、他に支給されたものはなかったのですか。

 「ゴム靴が支給されました」

 ── 下着は支給されなかったのですか。

 「はい、ありません」

 ── 囚人服に印がついていたといいますが、どこにどんな印がついていたのですか。

 「『教』や『校』を表すハングル(朝鮮文字)で■という文字が、囚人服の背中とズボンの前の右側に赤くつけられていました。逃亡したときの目印です」

 私はレポート用紙に書いた項目に目をやりながら質問を続けた。

 ── 金仁鎬さんの囚人番号は何番でしたか。

 「四二四番です」

 ── 面会が許されていたようですが、一月に一回と決まっていたのですか。

 「基本的には一ヵ月に一回でしたが、そうでない時もありました。面会の日にちは決まっていませんでした」

 ── 面会時間や面会場所は決まっていたのですか。

 「面会時間は約三十分、面会場所は朝鮮戦争以前は特に決まっていませんでしたが、戦争後、特別に場所を作りました」

 ── 面会の時は、看守が近くにいるのですか。

 「はい、面会する時は前もって予行演習をするのです。面会の時の対応を指導されます。そのとおりにやらなければ、以後、面会できなくなるのです」

 ── 面会に来る人は、何を持ってきますか。

 「はったい粉などです」

 ── それ以外に持ってくるものは?

「服や下着です」

 ── 興南の冬は雪が積もることがありますか。

 「一メートルほど雪が積もったことが、二度ありました」

 私の質問はこのあとも続いたが、インタビューを通じて感じたのは、金仁鎬氏が冗談一つ言わない、まじめで実直な人柄だということだった。

 質問がようやく終わろうとするころ、金氏は一息ついてやっとタバコを取り出した。

 私は興南と平壌の地図を取り出して、収容所のあった位置などを確認した。最後に、雑談する中で、一言で言うと文鮮明師はどんな人か、と聞いたところ金氏は即座に、“生きた神様”であると言った。この言葉の意味は最初、どういうことなのか分からなかった。よく聞いてみると、次のようなことを言おうとしていたことが理解できた。

 「イエス・キリスト、孔子、マホメットなどの聖人は死んで、今は地上にいない。今、この世にいる聖人は文師である」

 これが、地獄の中の地獄ともいうべき過酷な牢獄で約一年間、文師の行動を二十四時間、見てきた人物の言葉だった。




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