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第4章 神が導いた興南解放


   朝鮮戦争の勃発、奇跡の仁川上陸

 文鮮明師が興南収容所に収監されてから約二年後の一九五〇年六月二十五日に、朝鮮戦争(韓国動乱)が勃発した。

 この戦争によって文師をはじめとして興南収容所の囚人たちが解放された。それは開戦後四ヵ月が過ぎようとする一九五〇年十月十四日のことだった。

 興南収容所から解放された文師はのちに、「仁川」という映画を制作した。制作した目的は青年たちに、神を愛し国を愛することを教育するためだった。仁川とは、朝鮮戦争で国連軍が上陸作戦を行った地名である。この映画の目的は他にもあった。北朝鮮の共産主義者(=朝鮮労働党)がソ連と中国の支援を受け、韓国を侵略した事実を正しく伝えることと、マッカーサー元帥と国連軍に感謝の意を表すためだった。

 朝鮮戦争の勃発直後、国連安全保障理事会が開かれたが、このとき、常任理事国のソ連が欠席したことがいまも謎とされている。もし、ソ連が出席していれば拒否権を使い、国連軍の結成と派遣は実現しなかったかもしれない。ソ連が中国の代表権問題を理由に、国連安全保障理事会をボイコットするようになったのは開戦前の五〇年一月十三日からだった。朝鮮戦争は一九五〇年六月二十五日、北朝鮮が非武装地帯(三八度線)を越えて韓国に侵攻して始まった。

 翌二十六日、米国のトルーマン大統領は朝鮮半島の米軍事行動の指揮権をマッカーサー元帥に与えた。同元帥は六月二十九日、戦線視察のためソウルに近い水原に赴いた。このとき、マッカーサー元帥は仁川上陸作戦の“天啓”を受けたという。

 上陸作戦は当初、「世紀の大ばくち」「勝算は五千分の一の賭け」などと言われた。

 統合参謀本部をはじめ陸・海軍も、この危険の多い作戦には反対した。同年八月二十三日、軍首脳部の仁川上陸作戦に対する反対意見に対して、国連軍総司令官に任命されたマッカーサーは次のように語った。

 「仁川上陸作戦は失敗しない。必ず成功する。そして、十万人の生命を救う」

 九月十五日、マッカーサー総司令官が信念をもって敢行した上陸作戦は、見事成功、実際、多くの生命を救った。文鮮明師も、その救われた一人であった。

 朝鮮戦争が始まったのち、興南収容所の状況はどのようだったのか。金仁鎬氏の証言をもとにまとめてみた。

 収容所では朝鮮戦争が勃発した日、戦争について囚人たちに次のように伝えられた。

 「六月二十五日、早朝四時を期して、米帝国主義者の指示を受けた南の兵士たちが、三八度線全域にわたって大々的な武力侵略をしてきた。我々の勇猛な兵士は即刻、反撃に出、勇敢に敵を退けている。同志たちも覚悟を新たにして、いっそう奮励、努力してほしい。また、同志たちはどのような事態が起こっても動揺せず、任された責任を完遂するように」

 この知らせを聞いた囚人たちは一瞬ざわめいたがすぐに作業所に追いやられた。

 仕事が終わった夕方、囚人の一人である金珍洙牧師は、この戦争について自分の考えを何人かの囚人に、用心深く話した。

 「数カ月前から、各種の武器や人民軍を南方に移送したのは、共産主義者が南を侵略するための準備だった。これは、ソ連軍にけしかけられた結果だろう。北朝鮮側が先に戦争を起こしておきながら、事実を歪曲して発表している」

 収容所では人民軍の勝利を知らせるため、毎日、騒がしかった。夕方の「読報会」で読む労働新聞は、北朝鮮の勝利の記事を大きく取り上げていた。

 看守のなかには、韓国が北侵したという報道を真に受けて憤慨し、「人民軍に入隊する」という血書を書いて上官に提出する者もいた。

 戦争が始まってから、囚人への食料の配給はますますひどいものになった。死者が以前よりも多く出るようになった。食事は洗わないままのゆでたじゃがいもが一つ。その後、栗飯になり、やがて蕎麦をゆでて食べるようになった。

 戦争が始まって面会が禁止されたため、はったい粉も手に入らなくなった。

 固い殼がある蕎麦をはしで砕いてのみ込むと、のどがちくちくする。しかたなくのみ込むとあとがたいへんである。便秘になりむりやり排便すると、消化できない蕎麦の殼が肛門を傷つけ出血する。その痛さはたいへんなものだった。

 じゃがいもと蕎麦だけだったので、いがらっぽい植物の毒気で唇が裂けた。こうして、過酷な重労働と栄養失調でほとんどの囚人は瀕死の状態になっていった。

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   公開人民裁判とB29の興南爆撃


 「六月二十五日、売国奴の李承晩傀儡政府軍は、三八度線以北地域に全面的な侵攻を開始した」

 金日成は朝鮮戦争が勃発した翌日の放送でこう演説した。そして、演説の最後を次の言葉で締めくくっている。

 「全人民の正義の戦争に総決起した朝鮮人民万歳!

 朝鮮民主主義人民共和国万歳!

 勝利を闘い取るためにさらに前進を!」

 労働党が政権を執ってからは、共産主義者による虐殺が、朝鮮戦争が始まる前から行われていた。

 一九四九年十月十四日から二日間にわたり、収容所と興南工場の中間に位置していた興南市天機里の労働会館で公開人民裁判が開かれた。裁判は脚本どおりに進められる。

 法廷には反共団体である「排共清算団」の幹部たちが全員すっきりした姿で現れた。家族は傍聴することもできず、工場幹部と熱心な共産党員だけが傍聴するなかで行われた。

 被告たちは静かにたたずんでいた。なかでも、朴建成氏は陳述の機会を利用して次のように述べた。

 「皆さん! 私は志を果たすことができず、共産党の奴らにより無残に死んでいく。私が流した血は金日成の徒党を打ち破る民族の魂になり、皆さんの民族の良心とともに永遠である。金日成と共産党は民族の反逆集団である。総決起して打倒しよう!」 その後も公開人民裁判は引き続き行われて多数の人が虐殺されていった。

 朝鮮戦争が始まって間もない一九五〇年七月初旬、国連軍は北朝鮮への戦略爆撃の開始を決定した。

 攻撃目標は平壌、元山、興南、清津、羅津の五つの工業都市が選ばれた。

 最初の爆撃目標に選ばれたのが興南の工場群だった。それだけこの興南は重要な北朝鮮の戦略的拠点だったのである。

 戦略偵察飛行機RB29は、興南の爆撃予定地を空から撮影し、作戦の開始は七月三十日の朝に決まった。まず、火薬工場、続いて窒素肥料工場、化学薬品工場と爆撃が行われた。

 窒素肥料工場への爆撃は八月一日である。

 「興南肥料工場を目標に八月一日、『ナニイ・ベイカー』作戦が実施された。攻撃に加わったのはB29、四六機。五〇〇ポンドの爆弾を投下した。爆撃の規模は大きく、一万六〇〇〇フィート(約五〇〇〇メートル)の上空にいるB29にも、衝撃が伝わった」(『韓国戦での米空軍戦略JR・F・フトレル著/行林出版』

 八月二日の読売新聞一面でも、同じような内容を報じている。

 「米空軍B29は一日、約五〇機の編隊で再び北鮮の工業地帯興南を空襲、四〇〇トン以上の高性能爆弾を投下した。目標は朝鮮窒素肥料会社の化学、非鉄金属工場で爆撃終了後、一万五〇〇〇フィートの上空まで煙が上がるのが見られた」

 肥料工場には鉄筋コンクリートの防空壕があったが、一般人が先に入ったため、千五百人の囚人たちは入ることができなかった。

 しかし、結果的には防空壕に入った一般人の大半は死亡し、囚人の多くは助かっている。死者の数は確かではないが、当時、囚人の総班長をしていた朴正華氏は、一般人が二千七百人、囚人は二百七十人死亡したと語っている。

 爆撃を受けた日、囚人たちの顔が死人のように凍りついていたなかで、文師だけは泰然として、爆撃などなかったような態度だったという。

 文師はあらかじめこのような事態がくること、そして自分を中心とした直径十二メートル以内は神が守ることを知っていた。だから、親しい者には自分の近くにいるように伝えた。

 爆撃の時は、一人瞑想していた。

 ところで、金仁鎬氏がいた本宮収容所では、反動思想犯と凶悪犯を除いて、収容所から多くの囚人が人民軍に駆り出された。北朝鮮の人民軍が釜山近くの洛東江で国連軍相手に苦戦していたころである。

 戦争が終わればすべての罪を許し、戦功に従って英雄の称号も与えるという甘言に、喜々として収容所の門を出ていく囚人もいた。だが、彼らは洛東江の戦闘で、弾受けにされたのである。

 本宮収容所の近くにある興南収容所も同様だった。朝鮮戦争が起こって間もなく、興南収容所にいた全囚人に出動命令が出た。囚人は収容所を出発し、前線に向かった。

 しかし、出発して三日ほどして中央から出動命令の取り消しがあり、再び興南収容所に引き返してきた。その中には、文師も含まれていた。

 ところが、戻って三日後、再び囚人に出動命令が下りた。この時、文師はなぜか収容所に残されたのである。

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   収容所で囚人の虐殺が始まる


 文師が興南収容所から解放されたのは、十月十四日のことである。

 朝鮮戦争の戦局は、大きく変化していた。反撃に出た韓国軍は一九五〇年十月一日、三八度線を突破して北上した。韓国ではこの日を「国軍の日」に定めている。十月七日、国連軍も三八度線を越えた。

 十月十日、韓国軍は興南より南の都市、元山を占領した。共産主義者たちは、国連軍が北上していることを知り、多くの韓国人捕虜を虐殺し始めた。

 韓国国防部の『韓国戦争史第四巻』には、十月十四日の記録が示されている。

 ── 午前七時、高原(興南と元山の中間にある都市)を占領したあと、わが軍の捕虜が虐殺されていたのを目撃した連隊作戦将校の田宗郁少将は、次のように証言した。

 「わが連隊が高原にまず入ったが、その小学校の講堂と学校の裏山に掘ってあった塹壕に、国軍(韓国軍)捕虜と良民二万余名が虐殺されていた。死体は油類によって焼殺されたまま放置されてあった。米国のヘリコプターがきて写真に撮り、これを国連総会で敵の残忍性を暴露するための証拠品にすると聞いた」

 また、同書のなかで第三師団部隊の戦闘を書いたくだりにはこう記されている。

 ── わが軍の電撃的な進撃で、人民軍(北朝鮮軍)は極度に慌て、高原邑の第一人民学校で国軍(韓国軍)捕虜、約五百人を虐殺した。連発銃で掃射し手榴弾を爆発させ、次にはガソリンをまいて火をつけるという、残忍無道な虐殺を行った。

 したがって、文師が解放された日(十月十四日)には、韓国軍も国連軍も地上からはまだ興南にまでは追っていなかった。同日の記録は、さらにこう記している。

 ── 十月十四日、(韓国軍)首都師団は永興に部隊を終結させ、咸興と興南に攻撃する準備をした。一方、米国空軍のB29爆撃機は、東洋最大の興南肥料工場とその付近に猛烈な爆撃を加えた。

 興南収容所では十月十二日、刑期七年以上の囚人が約七十人、十数キロ離れた山に連れて行かれ虐殺された。

 文師の刑期は五年(のち三年四か月に減刑)だった。十月十四日は、文師が殺されるはずの日だった。十三日の夜、文師が興南の町を見ると、事態が変化し始めていた。

 文師はどのようにして、興南収容所から解放されたのだろうか。

 私がインタビューした金仁鎬氏は当時、興南収容所から十キロほど離れた本宮収容所にいて、文師と同じ日に解放されている。金氏の証言をもとに、十月十四日の様子を再現してみよう。

 本宮収容所では十月初旬のある夜、看守が各部屋を回り名前を呼び上げた。理由は、食料難のため興南収容所に移監させるということだった。

 名前を呼ばれた人は金珍洙牧師を含めて中年以上で、病人が多かった。出ていったトラックが一時間ほどして戻ってきたが、この時、すでに虐殺が始まっていた。

 金珍洙牧師もこの時、虐殺された。金牧師は、興南収容所の所長と同じ平壌の崇實専門学校を卒業していたので、所長は金牧師に同情し、特別に食事を配給したこともあった。しかし、金牧師はそんな時でも、決して自分一人では食べなかった。

 金牧師の夫人は、興南収容所のあった徳里に引っ越してきて、毎朝、一日も欠かさずに丘の上に立って夫を見送っていた。霧のかかった朝、工場に行く夫をいつまでも目送する夫人の姿は、他の囚人たちの脳裏にも焼き付いている。

 この金牧師も、収容所で文師の弟子の一人となった。しかし、金牧師は興南収容所での労働があまりにも苦しかったため、ある日、比較的労働が楽だった本宮収容所に行くことを希望した。文師は、この時

 「絶対、本宮に行ってはいけない」

 と忠告したが、金牧師は興南収容所での生活に耐えることができず、本宮に移った。そのため、虐殺されることになった。虐殺が行われた翌朝、看守たちは不安と興奮が入り交じった複雑な表情をしており、目は殺気だって凶暴な光を帯ていた。

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   間一髪で救われる


 十月十四日早朝四時、金仁鎬氏のいた本宮収容所で非常召集がかかった。ここに残っていた囚人たちは、全員集合させられた。一列に並ばされたあと、囚人たちは手首をひもで縛られ出発した。囚人たちはだれもが死を予感した。

 「祖国の姿を見ることができず、死んでしまうのか」

 と自問自答する者もいた。明けてくる東の空を見上げると、涙が込み上げてきた。囚人たちは心のなかで叫んだ。

「私は生きたい。まだ死にたくない」

「私がなぜ死ななければならないのか」

「死ぬ前に、豆腐チゲに真っ白いご飯をもう一度、食べたい」

 本宮収容所を出た囚人たちは、人目につきにくい山道を十キロほど歩いた。

 死に場所である鉱山の坑道がだんだん近づいてきた。と、そのとき突然、韓国軍の戦闘機が現れた。戦闘機は囚人を避け、看守たちだけに機銃掃射を加えた。看守たちは囚人を銃で威嚇しながら、戦闘機に向かって発砲した。囚人たちは得意になり、縛られている手を挙げて喜んだ。しかし、その後再び、韓国軍の戦闘機は現れなかった。囚人は看守に鞭打たれ、足で蹴飛ばされ、再び隊列を整え行進した。鉱山が見えると力が抜けた。

 「ひょっとして再び韓国軍の戦闘機が現れて……」

 と期待したが、その影は見えなかった。囚人たちの足取りは重かった。その時、突然、馬のひずめの音が後ろから聞こえてきた。

 本宮収容所の警護課長が馬から慌てて下り、看守たちを集めて何かを熱っぽく話し始めた。すると、近くの低い山の尾根から銃の音が聞こえた。

 金仁鎬氏はその時、韓国軍と人民軍の戦いが始まったのだと思った。

 銃声を聞いて、看守たちは北に向かって逃げ出した。囚人たちはぼう然として、小さく消えていく看守たちを見つめた。囚人たちは互いに顔を見合わせ、訳が分からないという表情でしばらく立っていた。

「共産主義者が逃げていった!」

「私たちは助かったんだ7」

 どうして、こうなったかは分からなかったが、完全に助かったという安堵感で、みんなはへなへなと、地べたに座り込んだ。極度の緊張から解かれて、足に力が入らず、立っていることができなかった。ようやく生き延びたことを実感して、喜びを満喫しようとした時、銃を持った青年二十人余りがこちらに向かって走ってきた。慌てた囚人たちは、散らばって身を隠そうとした。

 「皆さんを助けにきたのですから、心配しないでこちらに出てきてください7」

 青年たちは囚人に向かって叫んだ。彼らは反共団体の大韓青年団(一説では救国青年隊)の隊員だった。

 看守と囚人たちが本宮収容所を出たあと、本宮には少数の人民軍の高官と幹部しか残っていなかった。大韓青年団は本宮収容所を奇襲して、幹部たちを人質にした。幹部たちの命を生かすことを条件に、囚人たちの虐殺を中止させるように伝令を送らせたのだった。看守たちは、囚人を救うために撃った銃声を、国軍の先発隊の銃と思って逃げ出したのだった。金仁鎬氏によれば、興南収容所にいた囚人も本宮にいた囚人と同じ方法で救出されたという。

 救われた囚人たちは、大韓青年団に引率されて、興南収容所の裏側にある大きな果樹園に行った。そこで金仁鎬氏は、興南収容所から解放された文鮮明師と対面した。

 囚人たちは興奮と喜びに歓呼の声を上げながら、万歳を三唱したのち惨殺された人々のために黙祷をささげた。

 首都平壌が制圧されたのは十月二十日だった。興南の占領は十月十七日だから、平壌より三日早いことになる。解放された文師が興南収容所を出て平壌に到着したのは、国連軍が平壌を占領した四日後の十月二十四日だった。

 文師が逮捕されてから解放されるまでの期間は二年八ヵ月だった。後日、興南収容所時代を振り返って、文師は次のように語っている。

 「私にとって収容所は恐ろしい所ではなかった。どれほど鞭が恐ろしく、どんなに環境が悲惨であっても、真の愛を慕う私の心を占領することはできなかった。神を呼び、神に向かう私の心を折ることはできず、神を慕う愛の力に彼らが折れたのである」



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