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第2部

第5章 誰も書かなかった朝鮮戦争秘話


 この2部では興南を中心にした朝鮮戦争の秘話をまとめてみた。

 調べる中においていまだだれも明らかにしていなかった歴史的事実を数多く発見し、驚きの連続だった。

 5章では明らかになった朝鮮戦争の歴史的事実を、6章では興南肥料工場の歴史を取り上げた。

 日本のすぐ隣の朝鮮半島で戦われた凄惨な朝鮮戦争(韓国戦争、一九五〇〜五三年)は、南北合わせて百二十六万人の死者、建造物の四〇パーセントの破壊、業種によって異なるが生産設備の三〇から七五パーセントの破壊、そして経済規模で三十億ドルの被害を出したといわれている。

 朝鮮戦争は、南北どちらが先に攻撃をかけたかなど、多くの謎を含んでいる。

 最初に、謎の多い朝鮮戦争について、エピソードを交えながら、歴史の裏に隠れていた闇に光を当てたい。

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   興南を解放した大韓青年団副団長の文鳳済氏


   北朝鮮で反共運動を行った文鳳済氏

 興南の収容所にいた文鮮明師を解放したのは大韓青年団だったが、その青年団員を北朝鮮へ送った責任者である文鳳済氏は、その四十年後に文師と会うことになった。

 大韓青年団の副団長として約三千人の若者を、北朝鮮に送り込んだと述懐する文鳳済氏は今も健在である。この三千人のうちの何人かが興南を解放し、文師を救出したのである。

 私はソウルで文鳳済氏に直接インタビューした。

 文鳳済氏はソウルに在住しており、「失郷民愛国運動協議会」(社団法人)の会長をしている。“失郷民”とは共産化された北朝鮮を嫌って韓国に移住した人々のことをいう。

 彼らは二世をも含めて韓国で一千五百万人以上いて、韓国民の約三分の一である。当然のことながら、彼らの北の故郷への思いは熱く激しい。

 文鳳済氏は一九二五年生まれだから、私がソウルでインタビューした一九九〇年の時点で、七十五歳だった。

 文鳳済会長は、現在、北朝鮮の原爆製造工場があると見られている寧辺で生まれ、价川で育った。价川で中学(今の高校に相当)に通っていた時、一九二九年の学生万歳事件に加わって退学になった。

 その後、日本に留学し、さらに上海に渡る。当時、韓国の臨時政府が上海にあったからだ。終戦によって日本の支配が終わり故郷、价川に戻った。そこには、できて間もない北朝鮮人民軍師団司令部とソ連の旅団司令部があった。

 私は、文鳳済氏に当時の模様を聞いてみた。

 「当時はソ連軍が進駐した直後でした。价川には約十万人の北朝鮮の軍隊があったが、その中には共産党員はわずか十人か二十人くらいしかいなかった。共産党員が少なかったわけは、進駐してきたソ連軍が悪すぎた。強盗、強姦、殺人が日常茶飯事で、共産主義の実態を北にいた人々は実際に見て知ったからです。その上、北にはクリスチャンが多かったので、共産主義が浸透しにくかったのです」

 こう話す文鳳済氏はその時、ソ連軍の支配下であったにもかかわらず、北朝鮮で反共組織をつくった。すると价川にあった北朝鮮の軍隊から一度に七千人も集まった。

 文鳳済氏は反共活動を続けたが、身辺に危険が迫りついに一九四六年一月二十五日、まず平壌に出発。キリスト教民族派の指導者゙晩植氏(一八八二〜?行方不明、朝鮮日報社長、平安南道人民政治委員会委員長、のちに金日成に軟禁されて生死不明)と会い、別れを告げて、三八度線を越えて韓国に入った。

 ソウルに着いたのは二月二日。しかし、ソウルの状況も絶望的であった。


   ソウルのマスコミもほとんど左翼的に

 「ソウルに来て驚いたのは新聞や雑誌がほとんど共産勢力にやられ、左翼的だったことです。それに対して反共陣営は全く色がなかった」

 一九四六年三月二日、゙晩植先生の秘書ということで大韓新聞社の社長に会い、五日に「三八度線撤廃国民大会」を開こうと二人で相談した。

 三日後、国民大会には多くの民衆が集まってきた。そこで北朝鮮から来た文鳳済氏は、北朝鮮の実状を報告した。

 集まった民衆約二万五千人は撚え上がった。

 その民衆がデモに移ると、約十万人にふくれあがった。

 そして自然発生的にソ連総領事館にデモをかけ、民衆は石を投げた。

 流れは止めようもなくなり、左翼的な論調の新聞社の工場に乱入し、輪転機に砂をまいたりした。

 このため、翌日、その新聞は発行できなくなった。

 「私は翌三月六日、李承晩民主議院議長(後の大統領)から呼び出され、話し合いました。そして三千万同胞と力を合わせ民主的な韓国を統一しようと、意気投合したものです」

 その後、文鳳済氏は李承晩政権のもとで国防部顧問、交通部長(=大臣)、治安本部長(=大臣)などを歴任する。


   文鳳済氏の送り込んだ反共青年団が文鮮明師を救出

 文鳳済氏は李承晩大統領と出会ったあと、反共組織である大韓青年団の副団長を務めた。

 朝鮮北部は昔から関西、関北といわれ、まとめて「西北」と呼ばれていた。だから北部出身の青年団はもともと西北青年団といわれていた。文鳳済氏は北部出身で、西北青年団の団長を兼務していた。大韓青年団はこの西北青年団と韓国にあった五つの青年団が合わさってできた。

 第1部で述べたとおり、興南肥料工場の囚人たちは一九五〇年十月十四日、あらかじめ韓国から送り込まれた大韓青年団の武装部隊が奇襲することによって、解放された。

 興南工場には共産主義に反対していた政治犯や、宗教者たちが集められていたことを韓国側は前もって知っていたため、大韓青年団を使って真っ先に奇襲攻撃をかけたのだ。

 囚人の解放は、国連軍が興南を占領して解放する三日前だった。

 文鮮明師を含めて捕らわれていた囚人のうち、虐殺を免れた人たちはその時、救出された。

 文鳳済氏は興南工場の解放について次のように証言した。

 「国連軍に先立つ興南収容所の解放は、西北青年団以外やるものはいません。韓国が独立した一九四八年の時点で、青年団は北朝鮮出身の西北青年団と南の五つの青年団の合計六つありました。それをまとめて大韓青年団と呼んだのです。北朝鮮に実際に入って活動したのは、その中でも西北青年団でした。興南を解放した大韓青年団とは、そのもとにあつまった西北青年団以外ありません」

 「私は、国連軍が三八度線を越えて北上したとき、平壌に入りました。そこで新たに青年団を再編成し、北の各地に送り込みました」

 文鳳済氏は西北青年団の団長だった。

 反共青年団を送り込んだ目的について、文鳳済氏は語る。

 「私は当時、西北青年団の若者たち約三千人を北に送りました。それは諜報と反共組織のためです。金日成がまだ確固とした基盤を築いていなかったので、北朝鮮でも反共組織を作る余地がありました」

 「当時は、国際共産主義の運動が高潮期でした。一九四九年に、中国では毛沢東が指導する共産党が政権を握りました。蒋介石の率いる国民政府軍は台湾へ追いやられていました。だから金日成は、三八度線の南(=韓国)などはすぐ取れると思っていたようです」

 そういう状況の中で文鳳済氏は青年たちを、危険な北朝鮮に送り込んだという。彼らは北朝鮮出身で土地勘があったため、その危険な任務に志願したのだった。

 こうして文鳳済氏が団長を務めていたときに、北朝鮮に送り込んだ西北青年団の青年たちが、文鮮明師をはじめとする興南の囚人たちを解放することになった。

 文鳳済氏は一九九〇年、ソ連(当時)を訪問した。その時、ソ連の朝鮮族の集まりである全ソ高麗人協会の幹部が訪ねてきたという。

 「ソ連の朝鮮族の幹部たちは、私のことをよく知っていました。彼らは、『強敵だから知っているのは当然です』と言っていました」

 大韓青年団および西北青年団についてソ連は敵としてよく調査して知っていて、その幹部だった文鳳済氏を彼らは歓迎してくれたという。それほど大韓青年団は大きな役割を果たしたといえよう。


   文鳳済氏、文師に会う

 大韓青年団の青年たちが興南にいた文鮮明師を解放してから四十年後、青年たちを送った文鳳済氏は、文鮮明師に出会うことになった。

 場所はソウルの青坡洞にある統一教会本部教会の礼拝堂。文鳳済氏は文鮮明師の主宰する日曜礼拝に出席した。

 文鮮明師は説教壇から文鳳済氏に「あなたはどこの文氏ですか。大臣を務めたこともありましたが、神のみ旨を知っていましたか」と語りかけた。文鳳済氏はそれに対して、礼拝堂の最前列に座り、にこにこしながら聴いていた。


   文鳳済氏、北朝鮮の反共捕虜を逃がす

 文鳳済氏はいくつかの興味深いエピソードを語ってくれたが、北朝鮮の反共捕虜を解放したのもその一つだった。

 韓国には朝鮮戦争での北朝鮮の捕虜が十六、七万人いた。捕虜の中には北朝鮮にいながら共産主義を嫌っていたが、強制的に徴兵された兵士も多かった。しかし、米軍は捕虜たち全部を、北朝鮮へ返せと命令していた。

 だが、そのまま北朝鮮に強制的に返せば、北朝鮮で処刑される捕虜も多い。そのため当時、治安本部長だった文鳳済氏は李承晩大統領と相談し、捕虜たちの自由意志を尊重して北に帰りたいものは帰らせ、韓国にとどまりたいものはとどまれるように処置を下す決定をした。

 これは米国側の意向を無視し、秘密裏に決めたものだった。

 それは南北が板門店で捕虜交換を行う前夜のことだった。

 捕虜収容所の門を開けて、韓国にとどまりたい者たちは、闇夜に紛れて脱走させることにした。これは、米軍には全く知らせず、当時の李承晩大統領が首をかけて決断した。

 文鳳済氏は治安本部長として周到に準備し、実際の指揮をとった。

 捕虜たちはその晩、囚人服を地面に埋め、支給した民間人の服を着て脱走、民間の家に隠れた。

 最大の捕虜収容所だった巨済島からは約三万五千人、あとでまた約二万人を韓国内に逃がした。

 中国人の捕虜三万人は自由意志で台湾に行った。その他インド、アルゼンチン、ブラジルなどに約一千人が自由意志で行った。

 この数字は、文鳳済氏が挙げたものである。

 「一九五三年六月十八日、板門店での捕虜交換の前夜に決行しました。夜が明けてみると米軍はびっくりです。捕虜が大量に消えていたからです。もちろん北へ帰ることを希望したものは板門店で北朝鮮に帰し、韓国兵の捕虜と相互に交換しました。その数は約二万人でした」

 捕虜を逃がしたことに対して最初、国内外から非難ごうごうだった。しかし、数日もすると賞賛の論調に変わり、「(捕虜交換を定めた)ジュネーブ協定の精神を見事に実行した」と、国際世論の支持を得るに至った。

 その後、韓国で生きることを選んだ北朝鮮の捕虜たちは、ほとんどが普通の韓国人として自立した生活をしている。

 この捕虜解放の処置を文鮮明師は、神の願いに沿ったものだったと高く評価した。


【文鳳済氏の経歴】

社団法人「失郷民愛国運動協議会」会長。

一九二五年六月二十八日北朝鮮平安北道寧辺生まれ。

一九二九年、学生万歳事件で平安南道傍川の中学校を退学。

日大経済学部在学中、上海に渡る。要視察人物として特高からにらまれる。

日本の敗戦後、北朝鮮で民族派の独立運動を行う。

 韓国に渡ってからは自治本部長(大臣)、国務院事務局長(国務院総務長官)、交通部長(大臣)などを歴任。現在妻と息子一人、娘六人。家族も一九四六年、北朝鮮から韓国に渡った。



   朝鮮上空の雲に現れたイエス・キリスト

 朝鮮戦争のさなか、朝鮮の上空に大きな雲で形づくられたイエス・キリストが現れた。フランスの「パリ・マッチ」誌は一九五一年十月二十日付で、その写真と記事を掲載した。以下は記事の翻訳である。朝鮮戦争に神が関与していた一つの証しでもある。

 「このキリストの写真は、奇跡的ともいうべき偶然によって韓国の空に現れ、二機の爆撃機の後方を飛んでいたアメリカ人パイロットが撮影した。フィルムを現像するため、そのパイロットはシカゴにいる両親のもとに送った。驚いたことに彼の両親は、写真に、雲で形づくられた「人かげ」を見た。背景には二機の爆撃機が見える。

 この『神の写真』を見たシカゴの新聞はすぐさま、号外を発行したが、その号外は数時間以内に売り切れた」

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   フルシチョフ元ソ連共産党書記長の証言


 朝鮮戦争に対して、ソ連および中国がどの程度関与したかは、それらの国が共産圏だったためほとんど公表されてこなかった。しかし、一九七〇年に公表された『フルシチョフ回想録』は、ソ連首脳の一人であるフルシチョフ元書記長が、北朝鮮が主導権を取って攻撃したことを認めた極めて重要な資料である。さらに、ペレストロイカ(改革)以後、重要な証言が発表された。

   「戦争を始めたのは同志金日成だった」

 「私(フルシチョフ)はいま歴史のために真実を語っている。戦争を始めたのは、同志金日成だった。それはスターリンの発意ではなかったが、金日成を支持した」

 フルシチョフはこう証言した。

 この『フルシチョフ回想録』には北朝鮮が主導権を発揮して開戦を決定したことが書かれていた。しかし、同書はペレストロイカ以前だったため発表できなかった部分がかなりあった。それを補う形で再び、『フルシチョフ・封印されていた証言』が出版された(ジェロルド・シェクター、ヴァチェスラフ・ルチコフ著、日本語版・福島正光訳、一九九一年四月草思社刊)。

 その中で「第六章東の同志たち」には、金日成がいかにして朝鮮戦争を開戦にまで持っていったのかの証言がある(引用文は途中省略あり)。

 一九四九年に金日成がモスクワに来た時、私(フルシチョフ)は会議に出席した。彼(金日成)は攻撃のための具体的な計画を携えていた。

 晩餐会では主として金日成が侵攻するという、すでに下された決定をめぐって話し合った。彼は絶対に成功すると確信していた。国民は自分を支持するだろう。国民はこの戦争が起こることを期待している。自分には強い味方があるし、準備はすべて整っている。

 成功は全く疑いないと彼は思っていた。行動を起こす日が合意された。[一九五〇年六月二十五日に]戦争が始まった」

 北朝鮮軍は当初、一気にソウルを落とし、破竹の勢いで南下した。しかし、兵結線が伸び、制空権を米軍を主体とした国連軍に押さえられ苦しい戦いになってきた。そして、北朝鮮軍が釜山の最後の一角を攻めきれずにいた時、国連軍は仁川上陸を敢行、北朝鮮軍は一挙に後退した。この時の金日成、スターリン、そして中国側の態度についてフルシチョフは証言する。

 「(ソ連の)大使は、金日成は絶望的になっていると報告してきた。スターリンの反応はどうだったか。この私(フルシチョフ)は彼の言葉をじかに聞いている。スターリンは言った。

 『それがどうした。ほうっておけ。こうなった以上、極東ではアメリカ軍を我々の隣人にすることにしよう』。

 まさにその時、中国が突然、会談しようと提案してきた。毛沢東の代理として中国から周恩来がやってきた。彼らは約五十万という大軍を投入して北朝鮮を援助すると申し出たのだ」(『フルシチョフ・封印されていた証言』)

 スターリンは、アメリカを恐れていた。ソ連邦を崩壊させてまでも友邦である北朝鮮を助けるつもりなど、さらさらなかった。しかし、中国は国連軍が国境に迫ってきたので、やむをえず参戦することになる。

 “志願軍”という名称をつけられた中国の正規軍は、一九五〇年十月、大挙して鴨緑江を越えた。中国の参戦である。

 中国の参戦によって国連軍は押し戻され、一九五〇年十二月、興南から大撤収を行うことになる。その後、一進一退を繰り返し、一九五一年六月以降、ほぼ現在の軍事境界線(三八度線)で膠着状態に入った。現在に至る南北の分断である。

 金日成は、フルシチョフの証言にもあるように、開戦前に中ソの了解をとりつけ、周到な準備をした。その大義名分がどうであれ、朝鮮戦争は金日成が中ソの援助のもとに始めた武力南侵だった。

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   開戦の五ヵ月前から北朝鮮は軍を編成


 北朝鮮は朝鮮戦争が始まる少なくとも五ヵ月前に、中国に住む多くの朝鮮族を集めて軍を編成し、開戦の準備を行った。この事実を示す証拠を私は、北朝鮮との国境に近い中国吉林省の延吉の町で発見した。それは、参軍した兵士の墓の墓碑銘を読んで、判明したものだ。


   中朝国境の墓碑銘は語る

 この兵士の墓は、開戦の五ヵ月前に、ある中国人兵士が中国から北朝鮮に参軍したことを物語っていた。墓のある延吉は、約百九十万人の朝鮮族が住んでいる延辺朝鮮族自治州の州都だ。この墓の主である兵士も、中国に住む朝鮮族であると思われる。

 この兵士の墓を、私が見つけたのは全く偶然だった。ある夏の日の午後、延吉駅から長春方向への国道を車で走ったときのことだった。道端に、整然と墓が並んでいるのが目に入った。中国でこんなふうに国道のそばに墓があることは、極めて珍しい。何かがある、と思って降りてみた。

 墓の並んでいる敷地の奥には、「革命烈士廟」と名付けられた祠があった。墓石は八つ並んでいた。彫られた碑文を読むとそれらはなんと、朝鮮戦争で戦死した兵士の墓だった。しかも、兵士たちが北朝鮮軍に編入されたのは、朝鮮戦争が始まる五ヵ月前のことだった。

 墓石の表には、兵士の名前が彫られ、裏や横側には、その兵士の生涯が簡略に刻まれていた。その中の一つを挙げると、次のようなものだった。

 墓石の表には「革命烈士中隊長南在渉」と彫られている。裏には兵士の一生が、次のように彫られていた。

 「一九二四年三月二十二日生まれ 〈中略〉 一九五〇年一月十日、朝鮮人民軍二軍団二七師団 一七〇連隊 一大隊 重機中隊 三小隊に参加 一九五一年十月十九日、江原道平座戦死、父 正六、母 申姓女、妻 金於今」

 墓碑銘からまず分かることは、戦死したこの南在渉中隊長は朝鮮戦争の始まる五ヵ月前、一九五〇年一月十日に北朝鮮人民軍に参軍した事実である。

 そして、戦死したのは江原道の平康。ここは朝鮮戦争での有名な激戦地だった。平康は、その南にある鉄原、金化とを結んで「鉄の三角地帯」と呼ばれたほど砲弾が飛び交った場所である。

 墓のあった延辺朝鮮族自治州は古林省の東にあり、北朝鮮に接している。人口の約半分は朝鮮族である。この墓の周囲は現在でも朝鮮族の耕す水田が青々と広がっている。兵士は朝鮮族だったと思われる。

 墓が並んでいた革命烈士廟の敷地は幅約二十メートル、奥行き約十メートル。その中央には古ぼけたカワラ屋根の小さな祠があって、中には「革命烈士記念碑」と彫った白い石碑が収まっていた。そして祠の横には一列に、整列するかのように八人の朝鮮戦争で戦死した「烈士」の墓石が道に向いて並んでいた。その高さは約六十センチ。この南在渉中隊長は「烈士」の中で、最も階級が高かった。

 金日成は南侵する前に中国内の朝鮮族を利用することを早くから考えていて、動乱の始まる前に半ば強制的に徴兵したと研究家の間でいわれていた。私が撮影した写真はその事実をはっきりと裏付けるものだった。

 この時の兵士の参軍は、金日成が韓国に対して先制攻撃を仕掛けるために集めたものであって、開戦後のT九五〇年十月二十五日に、中国から本格的に義勇軍が参加したものとは別の召集である。

 中国の軍事情勢に詳しい杏林大学の平松茂雄教授の研究によると、開戦直前に中国側から北朝鮮に引き渡した朝鮮民族部隊は、一九四九年七月から八月にかけて二個師団および、ソ連軍出身者などからなる四千五百人で、それらは朝鮮人民軍第五、六師団を形成したという。

 また一九五〇年五月初旬、つまり動乱勃発の約四十日前には中国各地から約一万人が元山に到着し、朝鮮人民軍第七師団として編成された。また第一師団と第二師団には、それぞれ朝鮮族から編成した一個連隊が加えられた。

 平松教授によると、中国の朝鮮族として引き渡された兵力は合計三個師団と二個連隊である。当時の朝鮮人民軍(北朝鮮軍)陸軍の兵力は十個師団十二万八百八十人、特殊部隊六万一千八百人、総計十八万二千六百八十人だったことから、中国から引き渡された朝鮮族の兵力は歩兵部隊の約三分の一を占めたことになる。

 それに対して韓国陸軍の総兵力は八個師団六万七千四百十六人、その他支援部隊二万七千五百五十八人、総計九万四千九百七十四人だった。

 平松教授は中国から北朝鮮に朝鮮族兵士を引き渡したことによって韓半島の軍事バランスは決定的に北朝鮮に有利になったと、著書『中国と朝鮮戦争』(勁草書房)の中で分析している。

 平松教授は、中国の朝鮮族の兵士を北朝鮮に引き渡したことは、北朝鮮にとって補助的なものではなかった、そして中国の朝鮮族の軍隊を編成することによって初めて南侵が可能になったほどの、決定的な要素だったと見ている。

 ただしこの烈士廟の南在渉中隊長は、平松教授の研究に出ていない師団に所属している。当時、中国からほかにも多数参加したのか、あるいは朝鮮族兵士を北朝鮮の各師団に分けて配属したのかなどは、不明である。

 一方、朝鮮戦争に参軍した東北中国の朝鮮族の実際の気持ちはどうなのか。

 彼らはこの時、金日成によって多くの働き手を奪われ、戦死させられた。この烈士廟の近くにも、息子を戦死させられて身寄りのなくなった老人のために養老院(当地では「敬老院」と呼ぶ)があった。そのため表面上はともかく、内心では中国の朝鮮族たちは朝鮮戦争へ参軍させられたことに対して「恨み骨髄」の状態と言われている。

 延吉市は盆地で、町の真ん中をプルハトン川が東へ流れる。そのまま川を下ると豆満江に合流し、中・朝・露の国境の三角地帯を経て日本海へ抜ける。この辺りは今でも伝統的な朝鮮族の衣装や、オンドルが見られる。川が蛇行して造る平野は谷間に広がり、秋には金色の稲穂が風に揺れ、道の両側には朝鮮族の愛でるコスモスの花が咲き乱れている。

 朝鮮戦争が勃発して以来四十数年がたつ。延古市は歴史から忘れ去られたかのような、北東アジアの国境の町だったが、激動する国際政治に翻弄されてきた。同じアジア人として、その悲しみが晴れる日を願わない人はいないだろう。

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   旅順でソ連兵参戦の決定的写真をスクープ!!


 朝鮮戦争は、休戦以来、一九九五年で四十三年目を迎える。

 旧ソ連がこの戦争に参加したことは、今までほとんど知られていない。

 最近になって参戦したロシア将兵たちが少しずつ証言し始めたが、当時のフィルムも、具体的な記録もいまだに全く未公表である。

 私は、朝鮮戦争で戦死したソ連将兵の墓が旅順にあるとの証言をもとに、中国の三大軍港の一つであり一般外国人は立入禁止の旅順に入った。

 そしてロシア人墓地で、ジャーナリストとして初めて朝鮮戦争で戦死したソ連兵の墓の撮影に成功した。

 ここでは、ソ連兵が朝鮮戦争に参加したという秘話を明らかにする。


   ソ連邦英雄の証言「ミグパイロットの墓は旅順に」

 ソ連のミグ戦闘機のパイロットは、朝鮮戦争に参軍したことを『NHKスペシャル・朝鮮戦争』(一九九〇年十一月、NHK発行)の中で証言した。

 「戦死したパイロットは、旅順のロシア人墓地に葬った。その時の悲しみは今も忘れることができない」(同書)

 これはエフゲニー・ペペリャーエフ・ソ連空軍大佐の証言である。ペペリャーエフ氏はソ連で撃墜数が歴代二位を誇る、ソ連邦英雄の一人だ。

 しかし、NHKは旅順にミグパイロットの墓を取材することはできなかった。空軍兵士の証言だけで、旅順のロシア人墓地に眠るミグパイロットの写真は、だれも撮影したことがなかった。

 「朝鮮戦争に参軍したミグパイロットは、旅順に眠っている……」

 このソ連パイロットの証言は真実だろうと、私は直感した。しかし、旅順はずっと外国人には開放されていない。さらに、ソ連軍のパイロットが眠っているという墓地など、普通では見ることはできない。

 旅順は中国の遼寧半島の突端にある軍港の町。日露戦争の時、ここを攻略するため日本軍は二〇三高地で戦い、日本とロシアの多くの若者たちが死んでいった。

 日露戦争に勝利したのち、日本は旅順を租借した。その時、日本は戦死したロシア将兵たちを郊外に丁重に葬った。その場所は旅順郊外にあり、当時は「露国墓地」と呼ばれていた。

 朝鮮戦争は、日露戦争から半世紀近くあとだが、もしもソ連兵が戦死した場合、同盟国であった中国は、日露戦争ゆかりのロシア人墓地に葬ったに違いないと、私は直感した。人間の習性として、過去からゆかりのあった墓地に葬りたいと思うはずだと私は考えた。

 朝鮮戦争に参軍したというペペリャーエフ氏の証言を読んだのは、一九九一年四月のことだった。その1ヵ月後、ゴルバチョフソ連大統領(当時)は、直奏愚韓国大統領との会談のために済州島に来た。

 「いつか私は旅順に入って、ソ連ミグパイロットの墓を確認しよう……。それは朝鮮戦争でソ連軍が参軍したという決定的な証拠になるはずだ」

 私は済州島での韓ソ首脳会談の取材の場で、ゴルバチョフ大統領の顔を見ながら心に決めた。

 済州島から帰って私は、国会図書館で戦前の旅順の地図を探した。四階にある地図室で、日本陸軍参謀本部が作成した一万分の一の旅順地図を見つけた。だが、地図の欄外には大きな活字で「軍事機密」と印刷されていた。

 この地図を複写して、旅順に持って入るわけにはいかない。旅順は中国の三大軍港の一つ、もともと外国人には未開放である。

 そんな所で「軍事機密」などと印刷した地図を所持しているのが見つかった場合、面倒なことが起きるのは明らかだ。

 旅順の地図を見ると、ロシア人墓地はすぐに発見できた。「露国墓地」と印刷されていたのだ。


   西側ジャーナリストとして初めて旅順のロシア人墓地を取材

 私は旅順の地図を持って入れないと判断し、町の概略を頭にたたき込んだ。大連から旅順に車で入る道は二本ある。一つは南側から海岸線沿いに入る。もう一本は、ほぼ鉄道に沿って、北側から水師営を通る。

 水師営は日露戦争の旅順攻略戦の時、乃木将軍とステッセル元帥が講和の会談を行った場所として有名だ。

 旅順に行く日が来た。済州島でゴルバチョフ大統領を見てから約一年半後、私は旅順の隣にある遼寧省の大連に行くことになった。大連は開放都市、東北中国の表玄関である。

 大連から旅順には車で入った。私は頭にたたき込んでいた旅順の地図を、中国人の運転手にその場で書いて示し、ロシア人墓地を書き込んだ。中国人の運転手は、そこはよく知っているといい、すぐにたどり着くことができた。

 ロシア人墓地の正門は堂々とした白い石造りのアーチで、上部には大きな星のマークが刻まれていた。それは軍関係であることを示している。

 両側に続く壁には、浮き彫りの旗が並んでおり、国のために戦死した人を葬ったことを表していた。

 この時は晩秋の午後遅くで、北風が吹き、木々は黒く、冬枯れの様相を帯びていた。

 正門から墓地に入ると見渡す限り、数百基以上の白い墓石が、ずらりと並んでいた。墓石と墓石の間には背の低い雑木や雑草がまばらに生えていた。

 墓石群は三つの部分に分かれていた。最も手前のものが、朝鮮戦争で死亡したソ連将兵の墓だった。

 その後ろの中段は、太平洋戦争の時のものだった。終戦直前の一九四五年八月九日、ソ連軍は突如、日ソ不可侵条約を破棄して満州に侵攻したが、その時戦死したソ連兵のものだ。ここではそれを“日帝からの解放”と呼び、“解放”を記念した尖塔が建っていた。塔の両わきには旗を抱えてひざまずくソ連兵の彫刻が置かれ、塔の下にははっきりと、「1945」と年号が刻まれていた。日露戦争時の墓石もあった

 さらにこの尖塔の背後、最も奥には、日露戦争時代のロシア兵の墓が残っていた。白い石でできた、高さ約五メートルものモニュメントが建っていた。それは特徴あるロシア正教の十字架をかたどっていた。

 十字架の墓碑銘には「一九〇四年、自分の国と、皇帝と、信じることに命をささげた英雄たちのことを永遠に忘れない」と彫られていた。

 一九〇四年は日露開戦の年だ。十字架の中央には四角い穴があいており、もともとはイコン(聖画)か、あるいは皇帝の絵がはめてあったのだろう。続いて戦死した兵士たちの兵種が刻まれていた。「歩兵、砲兵、工兵、騎兵、通信兵、鉄道兵、コザック兵……」などだった。

 少し離れたところにある墓標には、天使の浮き彫りが美しく彫られたものも残っていた。


   ミグパイロットの墓と、ペペリャーエフ氏の確認

 ロシア人墓地の中で朝鮮戦争時のものは、最前段にあった最も新しい墓石群である。死亡日はいずれも、朝鮮戦争時の最中だった。墓石の高さは約一・五メートル、ざっと見ただけでも四百基以上あった。

 私はパイロットの墓を探した。すぐに単発、後退翼のジェット機が、墓石の上部に浮き彫りにされた墓石が目に入った。

 「ミグ戦闘機だ!」と私は感じた。その数、ざっと五、六十基。絵柄のジェット機は画一化され丸みを帯び、トビウオのような印象だった。死亡した年月日を読むと五〇年十一月から五三年四月までのものが読み取れた。

 「空軍大尉ロブゾフ・ニコライ・イウァーノヴイッチ、1920年生まれ、任務遂行中に死亡、1950年11月26日」

 「空軍大尉クフマコフ・ポリス・ドミトリーエヴイッチ、1922年生まれ、任務遂行中に死亡、1951年4月25日」、などだった。

 朝鮮戦争に参加したことを証言した、もとミグパイロットのエフゲニー・G・ペペリャーエフ氏は現在、モスクワに住んでいる。当時、空軍連隊長でソ連邦英雄称号を持っている。モスクワ在住のジャーナリスト可部道憲氏に、私が撮った写真を見せながらペペリャーエフ氏にインタビューしてもらった。

 ペペリャーエフ氏は地図で旅順の位置を指さしながら証言した。

 「最初、私たちがパイロットを葬った墓石は、涙が出るほどみすぼらしいものでした。この写真の墓は、あとで整備されたものでしょう。パイロットは高級将校以外は、すべてポート・アーサーに葬られました」

 ポート・アーサー、ロシア語でボルト・アルトゥールと発音し、旅順のロシア時代からの呼び名だ。

 墓石の上部に彫られたトビウオ型のジェット機を見てペペリャーエフ氏は

 「間違いなくミグ15改良型だ」

 と断言した。ミグ戦闘機15改良型は朝鮮戦争に送り込まれたソ連の最新鋭ジェット戦闘機で、米空軍のF86セイバー・ジェット戦闘機と史上初のジェット機同士の空中戦を演じた。ペペリヤーエフ氏自身、十九機を撃墜、この記録はソ連邦英雄の中では二十一機に次ぐものだと誇らしげに語った。

 ソ連は一九八五年、アフガンに侵攻した。その善し悪しは別にして、戦死した青年たちの遺骸は故郷に送り帰されて葬られた。

 私はかつて、アフガン戦争で戦死した兵士の墓をウラジオストクで見たことがある。そこには、「プロレタリアートとしての国際的責任を果たした」と、悲しくも誇らしげに彫られていた。

 だが朝鮮戦争の場合、ソ連兵が参戦した事実すらも、ひた隠しに隠され、現代史の闇に葬られている。そして戦死したロシア人将兵たちは、故郷からはるかに遠い異国の地に、人知れず眠っている。訪れる人もほとんどいないだろう。

 この日私が見た数百基もあった旅順のロシア人墓地の墓の中で、ただ一基にだけ、枯れて、からからに乾いた花束が添えられていた。最近、ロシアから訪ねてきた親族でもいたのかもしれない。




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