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第6章 明かされた興南肥料工場秘史


   興南は重要な戦略拠点

 興南は朝鮮半島の東海岸のほぼ、中央に位置している(2頁参照)。東海岸とは、おおよそ北は北朝鮮とロシアの国境である豆満江から、南は釜山までの範囲である。

 興南に視座を据えて両翼を見ると、左、すなわち北百キロには長津江の発電所が電力を送り続けている。右、つまり南百キロには元山港がある。背後の西二百キロには首都平壌がひかえている。

 興南は日本から見て、日本海の向こう、“対岸”に位置している。ここは地政学的に見て、環日本海経済圏の中核になるだろう。今、国連も関与して開発が予定されている豆満江河口の経済特区は、将来、興南のヒンターランド(後背地)となろう。

 名古屋から平壌ヘジェット機で飛ぶ場合、機はまずハバロフスクを目指し、北上する。そしてウラジオストク近辺でロシア領空に入り、南に転じる。北朝鮮の東海岸に沿って機は南下。眼下には北朝鮮の美しい海岸線が、地図を見るように展開していく。

 陸地から近い馬養島を過ぎれば興南は近い。数分で興南上空に達する。

 機上からは興南港がはっきり見える。そして機は、興南港の上空で西に転じて平壌に向かう。興南は、来るべき環日本海時代においても、まことに戦略的に重要な位置を占めている。

 文鮮明師が強制労働に服していた興南は、戦前、日本の野口財閥が開発した。興南の工場群は当時、アジアで最大の化学コンビナートだった。

 興南工場は、朝鮮北部の大規模な電源開発とワンセットになって開発された。先進的な都市設計と技術を誇ったこの工場群は、第二次大戦後、ほぼ無傷のまま北朝鮮に引き渡された。興南工場はその後、朝鮮戦争の時、B29の爆撃を受け、ほとんどが破壊された。さらに、一九五〇年十二月、朝鮮北部に進軍していた国連軍、韓国軍は興南港から大規模な撤収作戦を行った。この時、興南港はほとんど破壊された。現在の興南工場と興南港はその後、再建されたものである。この数奇な運命をたどった興南の歴史について、点描してみよう。

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   興南肥料工場を建設した希代の日本人起業家野口遵(したごう)氏


 興南肥料工場をはじめとする工場群は、日本窒素が出資した朝鮮窒素によって建てられた。

 寒村だった興南を、近代的な工業都市につくり変えたのが、日本窒素の創業者・野口遵氏(明治六年〜昭和十九年)である。

 野日進氏という希代の起業家を抜きにして興南肥料工場を語ることはできない。

 明治から昭和にかけて実業界で活躍した野口氏の出発は、明治三十九年(一九〇六年)、鹿児島県大口にある「曽木の滝」に発電所を建設したことである。

 滝の名をそのままとって「曽木電気」とし、発電した電力は最初、付近の金鉱山に送った。さらにこの電気でカーバイド製造を始めた。工場は熊本県の水俣につくったが、これが現在まで続く、日本窒素水俣工場の始まりである。

 周知のとおり日本窒素水俣工場は戦後、工場排水が水俣病の原因になったとして、戦後、企業責任を問われることになる。

 ついで、野口氏は、明治四十一年(一九〇八年)、石灰窒素の製造事業に乗り出し、曽木電気と日本カーバイドを合併、新会社は日本窒素肥料株式会社と名付けた。

 大正二年(一九一三年)末、硫酸アンモニウム(硫安)の製造工場を熊本県八代に建設。

 翌三年(一九一四年)、第一次世界大戦が始まった。日本はそれまで海外から窒素肥料を輸入していたから、途絶してしまうと農業に大きな影響が出る。需要の増大という追い風を受けて、日本窒素の硫安生産は飛躍的に伸びていく。

 大正十二年(一九二三年)、宮崎県延岡に硫安工場を、水俣にアンモニア工場を建設。その電力を確保するため、九州各地に発電所を建てる。こうして日本窒素は、発電と重化学工業の両方を手がけ、電気化学工業界での地位を築いていった。

 「事業は天にあり、一業成って次業に及ぶ」
 「人に率先して国益になる消耗品の生産に従事する」

 こうした“野口語録”から彼の経営哲学の一端がうかがえる。

 若いころから周囲に吹聴していたようで、いかにも“明治の男”らしい気宇壮大さだ。しかし、その手法は堅実だった。

 初めて手がけたカーバイドの製造から石灰窒素事業を起こし、その基盤の上に合成硫安の事業を始めた。技術的蓄積、経営基盤、市場の広がりなど、木が技を伸ばすように事業は発展していった。

 しかし、日本窒素を世界的な化学工業会社に飛躍させたのは、日本が舞台ではなかった。当時、日本の植民地だった朝鮮が舞台となった。


   朝鮮北部の電源開発に乗り出す

 野日進氏の率いる日本窒素は、朝鮮北部での電源開発に着手した。開発計画はスケールの大きい大胆なものだった。

 朝鮮北部の山脈は、半島の東側を日本海に沿うように走っている。山脈の東斜西は険しく、日本海側に向かって急激に落ち込んでいる。反対に西側は、朝鮮の屋根ともいうべき蓋馬高原が広がり、なだらかに高度を下げる。そのため川は西に流れ、ほとんどが中国と北朝鮮の国境を画して流れる鴨緑江に注ぐ。

 野口氏が考えたことは、この地形をうまく活かすことだった。つまり、山脈の西側で川をせき止め、できたダムの水を逆に、東側の日本海側に落とし、水力発電を起こそうというアイデアだった。大胆な、“コロンブスの卵”のような、発想である。

 さらにそこで産み出された電力で、興南に一大化学工業都市を出現させようとした。この発想は日本での事業展開と同じものだった。

 大正十五年(一九二六年)、日本窒素は全額を出資し、朝鮮水電を設立した。こうして朝鮮北部での、本格的な電力開発が始まった。


   水力発電と合わせて興南工場を建設

 第一弾は、蓋馬高原を流れる赴戦江をせき止める工事だった。ダムの建設は始まったものの、蓋馬高原という山間の僻地だったことに加え、折からの台風に見舞われ、工事は困難を極めた。

 昭和四年(一九二九年)十一月、赴戦江ダムの第一期工事は完成した。出力は十三万キロワットだった。

 当時、日本国内で最大のものが神通川蟹寺発電所の四万五千キロワットだったから、これと比較すれば、その規模の大きさが分かる。赴戦江ダムは、この最初の第一発電所だけで、国内最大規模発電所の三倍の能力を誇った。

 ここで生み出された電力は満州と朝鮮側に半分ずつ振り分けた。こうして朝鮮側に送られた六万五千キロワットの電力によって、興南の化学工場は稼働することになる。

 野口氏は、化学工業都市の新天地として興南を選んだ。興南は東朝鮮湾が深く入り込み、咸鏡南道の中心地・咸興に近い場所にある。それまで興南は二、三十戸が浜辺に点在する寒村にすぎなかった。

 昭和二年(一九二七年)五月、日本窒素は朝鮮窒素肥料株式会社を設立した。資本金一千万円、日本窒素が全額を出資、社長は野口遵だった。興南のコンビナート構想が動き出し、その年の六月、興南で工場の起工式を行った。

 昭和四年(一九二九年)末、興南工場の第一期工事が完了した。興南工場は、まさに赴戦江ダムの完工に時期を合わせて完成したのである。

 明けて昭和五年(一九三〇年)一月二日、硫酸アンモニウム(硫安)の製造が始まった。第一期工事で総工費五千五百万円を費やした興南肥料工場は、硫安四十万トン、硫燐安五万トンを生産し始めた。

 さらに工事は第二期、三期と続き、興南肥料工場のすべてが竣工したのは昭和六年二九三一年)八月だった。

 昭和六年といえば、満州事変が勃発して、日本が日中戦争の泥沼にはまりこんでいく時代である。

 日本政府は、爆薬原料の自給を急いだ。その要請を受けて、興南には火薬工場も建設された。戦争色が濃くなってきた当時の情勢は、興南工場群にとって追い風となっていった。

 やがて野口氏は発電、化学工業を満州にまで広げ、世界的な事業体に急成長させていった。


   空前規模の水力発電事業

 野口氏の手がけた水力発電事業はその後も発展していく。

 赴戦江発電所はさらに増設、合計二十万キロワットに拡張。

 さらに鴨緑江の支流の一つである長津江も同じように西側でダムをつくってせき止め、日本海側に流した。こうしてできた長津江発電所は、昭和十八年(一九四三年)、三十二万キロの電力を生み出した。

 そして、鴨緑江の本流には水豊ダムが昭和十九年(一九四四年)に完成、七十万キロワットの能力を発揮した。水豊ダムは鴨緑江の河口から約百キロ上流にあり、現在でも鴨緑江最大の発電量を誇っている。日本窒素が鴨緑江水系で開発した電力は合計、満州地方も含めてじつに百五十万キロワットとなった。

 さらに終戦時に発電量は、百七十三万キロワット(約百二十億キロワット時)にのばった。この電源開発は、大正十五年(一九二六年)から昭和二十年(一九四五年)の敗戦までわずか二十年足らずの間に行ったものだ。

 しかも終戦時に、なお工事中の発電所は、百五十七万キロワットだった。

 この北朝鮮、満州での水力発電開発がいかに大きな規模だったかは、アメリカでの開発と比較すれば見当がつく。

 昭和八年(一九三三年)、アメリカは、いわゆるニューディール政策として知られるTVA(テネシー川流域開発)に着手した。

 TVAはルーズベルト大統領が、当時アメリカを襲った大恐慌を救うために採用した国家的大事業だった。第二次大戦をはさんで、昭和二十七年(一九五二年)まで十九年間続き、そこで生産された電力は、水力発電で二百五十万キロワット(百二十二億キロワット時)だった。

 野口氏が満州・朝鮮で行った電源開発は、アメリカの国家的プロジェクトであるTVAと、水力発電に関してほぼ同じ規模だったのだ。野口の電源開発は文字どおり空前の規模だった。

 野口氏が造ろうとした興南での化学工場群は、これらの巨大な電源開発を前提としていた。

 日本窒素は、皮切りとなった赴戦江ダムを建設する際に、朝鮮総督府から水利権を認可されたのだが、その時の条件は、二十万キロワットの電力を消化する産業を起こすことだった。実際できあがった興南の工場群は、十分にその条件を満たした。


   さらに拡張していく興南工場

 こうして興南肥料工場では硫安系肥料の生産能力をさらに増強、硫安五十万トン、硫燐安十六万トンに達した。

 最盛期に、工場群で働く人数は四万五千人に上った。昭和の初め、一寒村にすぎなかった興南は一躍、人口約十八万の大都会となった。興南での日本窒素の所有する土地は、工場敷地、社員用地を合わせて五百数十万坪だった。

 従業員の住宅も、当時としては最新式の設備を備えていた。暖房はスチームで、トイレも当時としては珍しい水洗式だった。

 次に、興南への玄関である興南港について、見てみよう。

 興南港は深く陸地に入り込み、港の入り口には二つの島が波を防いでいた。島は天然の防波堤となっていたが、さらに千五百メートルの防波堤を構築、興南港は有数の良港となった。岸壁は二千メートルを越え、一万トン級の船が数隻、横付けできた。

 興南港が北朝鮮で屈指の良港であった事実は、例えば満州に侵攻したソ連軍が満州の重工業施設を積み出すのに使ったことからも推測できる。

 興南港はその後も、たびたび歴史的な出来事に遭遇する。

 数万人の満州や北朝鮮にいた日本兵捕虜はシベリアに連行されたが、その日本兵を送り出したのは興南港からだった。

 また、朝鮮から日本への正式引き上げの乗船地ともなった。その船の名もまさに「興南丸」だった。朝鮮戦争の時には、あとで詳しく述べるが、中共軍に追い詰められたアメリカ軍が北部朝鮮から撤退する時、興南港を使用した。


   太平洋戦争中の興南工場

 興南は太平洋戦争中は、幸いにも被害を受けなかった。

 太平洋戦争後期から、日本本土の工場は、アメリカ軍のB29による空襲を受けていたが、興南には最後までB29による空襲はなかった。そのためほぼ無傷で、興南工場は終戦を迎えた。

 しかし、戦争が進むにつれて正規の社員が兵役にとられていった。そのため、社員以外も動員された。

 例えば太平洋戦争の後期になると、刑務所の囚人が働くことになる。この時の囚人はもちろん、日本の植民地時代の囚人である。
 その数は興南肥料工場に二百九十人、興南金属工場に二百人、本宮工場に二百十七人、竜興工場に二百人、火薬工場に百二十人などで、囚人労働者は合計千人を超えた。その他に少年刑務所の囚人、女性の囚人も若千名、工場で働いた。

 さらにシンガポールで捕虜になったイギリス、オーストラリアの兵隊三百五十人は、昭和十八年から本宮工場で働き始めた。捕虜収容所は、住宅地区に近い場所に新たに作られた。捕虜の待遇は極めて良かったため、戦後、問題になることはほとんどなかった。

 それどころか、戦後、ソ連軍が進駐して日本人を虐待した時、イギリス、オーストラリアの兵士は日本人を守ってくれたことが多かった。このことは当時、敗戦によって厳しい生活を強いられていた日本人たちにとって、忘れることのできない思い出となったという。


   朝鮮戦争で興南は破壊された

 興南工場が破壊されるのは、朝鮮戦争(一九五〇〜五三年)の時だった。アメリカ空軍の大型爆撃機B29の大編隊は、一九五〇年七、八月、四日間にわたって空襲を行った。この時、興南工場はほとんど壊滅した。若干重複するが、簡単に述べておく。

 一九五〇年六月二十五日、北朝鮮が三十八度線を越えて攻撃して朝鮮戦争は始まった。アメリカ軍は開戦後、B29で北朝鮮各地の工場を爆撃した。

 五〇年七月三十日、B29は興南の火薬工場に五百トンの高性能爆弾を投下、工場の八割は破壊された。

 八月一日、B29五十機は四百トンの爆弾を興南肥料工場に投下。

 三日、B29は本宮工場に四百トンの爆弾を投下、電解ソーダ工場、カーバイド工場は完全に破壊された。

 二十四日、B29二十四機は興南製錬所に二百八十二トンの爆弾を投下した。

 こうして興南の工場群は、四回にわたる計千五百トンを超える爆弾で、ほとんどが破壊された。

 しかし、この爆撃でも興南港の埠頭設備だけはほとんど無傷のまま残っていた。数カ月後に米韓軍は、三八度線を越えて北上したが、中共軍の反攻を受けた。その中共軍が包囲をせばめる中、押された米韓軍が興南港から大撤収作戦を行うことになろうとは、だれも想像できなかったはずだ。

 この間、戦局は劇的に展開していた。

 最初、北朝鮮によって先制攻撃をかけられた韓国および、アメリカを主体とする国連軍は、南端の釜山の一角に追い詰められていた。北朝鮮はあとI押しというところまで包囲をせばめていた。

 しかし、北朝鮮軍も苦しい戦いだった。南北に長い兵結線を強いられ、制空権を国連軍に奪われていたからだ。

 一九五〇年九月十五日、韓国および国連軍は、仁川上陸作戦を決行した。仁川上陸によって長く伸びた北朝鮮軍の兵結線は切断され、脇腹に穴が空いたような状態になった。北朝鮮軍は総崩れとなり、戦局は一気に逆転した。

 今度は韓国軍およびアメリカ軍が三八度線を北に越え、その勢いで、中国との国境である鴨緑江にまで迫った。

 アメリカ第一海兵師団は興南から咸興を経て長津江発電所のある長津江湘南岸にまで達した。さらに北進して、江界、満浦に向かおうとしていた。その時、米軍は柳潭里で強力な中共軍と遭遇した。

 十一月二十七日、アメリカ軍は中共軍の厳重な包囲に陥った。やっとのことでこの包囲を脱出、冬が迫り来る厳寒の中、アメリカ軍は悪戦苦闘を続けながら興南まで後退した。さらに、北部に進攻していた米韓軍も後退を重ね、続々と興南に終結してきた。

 十二月十一日、米韓軍などは興南港から乗船を開始、撤退が始まった。十五日、それまで興南にいた師団全員が乗船を終えた。

 二十四日、さらに東北朝鮮方面にいたアメリカ第十軍団の兵員が撤収を終えた。

 興南からの撤退は兵員十万五千、避難民九万千、車両一万七千五百両、貨物三十五万トンという大作戦だった。

 第二次世界大戦時、フランスのダンケルクから英仏軍は、迫り来るドイツの猛攻の中で撤退に成功した。この時、英軍二十四万、フランス軍十二万が撤退し、「ダンケルクの撤退」として有名である。朝鮮戦争の時の興南からの撤退は、それに比すべきものだった。

 興南港の破壊は、全員が乗船を終え、撤収が完了すると同時に始まった。撤退する艦艇からの艦砲射撃は、港を徹底的に破壊した。中共軍の追撃を避けるためだった。第二次大戦中も無傷だった興南埠頭はこの時、完全に破壊された。

 朝鮮戦争によって破壊された興南工場は、戦後間もなく復興した。日本窒素が築いた水力発電が、復興の原動力となった。また日本窒素時代に興南工場で働いていた朝鮮人労働者、そして終戦後、日本人技術者によって教育された朝鮮人労働者たちも、復興の力となった。

 北朝鮮政府発行の資料によると、興南地区では肥料工場で硫安のほか硝酸アンモニウム(硝安)、過燐酸石灰を製造し、生産量は実質年間七十万トンだという。

 もとの本事務所の建物は現在、興南工業大学に使われ、湘南里の社員クラブは職場静養所となっている。

 興南は昭和の初め、ほとんど住む人もいない浜辺だった。興南および興南港がこれほど数奇な運命をたどるとは、建設当事者は夢にも思わなかっただろう。

 それはあたかも、動乱の北東アジア現代史を象徴するかのようだった。

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   補足


【北朝鮮側の資料による興南肥料工場および興南】
・興南肥料工場
 一九二七年着工、同時に興南港、赴戦江発電所も着工。電気でアンモニア製造を始め、三一年から創業。当初は硫安肥料を生産。
 戦後、日本人が帰ったため高等教育を受けた朝鮮人技師は二人しかいなかった。
 金日成主席は、現地指導に来て励まし、一九四七年から肥料生産を始めた。五〇年、朝鮮戦争時アメリカ軍によって工場は破壊された。
 戦後復旧して、五五年から肥料生産を再開。アンモニア合成、コンプレッサなどは自力で開発。
 中国の周恩来首相もこの肥料工場を一九五八年に訪問、他にも外国要人の見学は多数に上る。
 九二年までに金日成主席は五十回以上訪問、金正日書記は十二回訪問。
 現在、労働者一万人、そのうち女性は三七パーセント、工場の敷地は百三十万平方メートル。現在では肥料工場として、北朝鮮では最大ではない。尿素肥料は九万トンを輸出。

・興南市
人口七十五万人、化学肥料、海産物を産出し、平壌に次ぐ第二の工業都市。
 咸鏡南道の海岸線は四百五十キロ、二十四個所の名所がある。



  主な年表(1945〜1950)

  1945年 8・15    終戦
      8・22    ソ連軍の一部、興南に進駐
      8・24    ソ連軍、平壌を占領し司令部を開設
      9・ 2    マッカーサー司令官、北緯三八度線、米ソ両軍の朝鮮分割占領政策を発表
     10・10    北朝鮮共産党(後の朝鮮労働党)創建
     10・14    金日成、歓迎平壌市民大会で初めて姿を現す
     10      文師、イスラエル修道院ソウル教会(上道利集会所)に入り、信徒を指導(〜1946年4月)
     12・ 1    以北五道連合会(会長・金珍洙牧師)発足

  1946年 2・ 8    北朝鮮臨時人民委員会樹立、金日成首班に就任
      3・ 1    平壌の章臺■(山+見)教会で、3・1節の行事挙行。平壌駅前広場で金日成暗殺未遂事件が発生
      6・ 6    文師、神の啓示により平壌に到着。その後、平壌の景昌里で伝道活動を開始
      8・11    文師、李承晩のスパイなどの嫌疑をかけられ、平壌の大同保安署に拘束
     11・21    文師、死体同然の状態で釈放
     12・ 5    興南工場、ソ連側より朝鮮側に引き継ぎ終了
  1947年 2・22    北朝鮮人民委員会樹立、金日成、首班に就任
  1948年 2・22    文師、既成キリスト教団のねたみと共産党の宗教抹殺政策によって再び拘束
      4・ 7    文師、公判で社会秩序紊乱罪で五年刑
      5・20    文師、平壌の刑務所から興南の収容所に移送
      8・15    大韓民国の樹立
      9・ 9    朝鮮民主主義人民共和国の創建
     11      金仁鎬氏、興南の収容所に移送
     12.12    大韓青年団の結成
  1950年 6・25    朝鮮戦争勃発(〜53年7月27日、休戦協定調印)
      8・ 1    国連軍B29で、興南肥料工場を爆撃
      9・15    仁川上陸作戦
     10・ 1    韓国軍、三八度線を突破
     10・14    米国空軍B29、興南肥料工場を爆撃。文師、興南の収容所から奇跡的に解放
     10・24    文師、興南から平壌に到着
     10・25    中共軍、朝鮮戦争に介入
     12・ 4    文師一行、平壌から南下。国連軍、平壌から撤退
     12・24    興南から米韓軍撤退を完了、同時に興南港を破壊


 参考文献、資料

『南北朝鮮キリスト教史論』澤正彦著、日本基督教団出版局
『朝鮮戦争』児島襄著、文藝春秋
『朝鮮戦争空戦史』ロバート・ジャクソン著、朝日ソノラマ出版
『朝鮮問題戦後資料第一巻』東京国際問題研究所
『朝鮮戦争の六日間』瀬田宏著、六興出版
『北鮮の日本人苦難記−日窒興南工場の最後−』鎌田正二著、時事通信社
『起業の人野口遵伝』柴村羊五著、有斐閣
『NHKスペシャル・朝鮮戦争』饗庭孝典著、NHK出版会
『フルシチョフ、封印されていた証言』ジェロルド・シェクター、ヴァチェスラフ・ルチコフ著、福島正光訳、草思社
『野口記念史料室・史料分類目録』(財)野口研究所
『朝鮮を知る事典』平凡社
『旅順地図(一万分の一)』旧日本陸軍参謀本部作成
『アジア動向年報』(一九七八年度版−一九九二年度版)アジア経済研究所
『中国と朝鮮戦争』平松茂雄著 勁草書房
『第五回世界言論人会議』の文鮮明師の基調講演 一九八二年十月五日〜八日(ソウル)


〈韓国語篇〉

『文鮮明先生御言選集』文鮮明先生御言編纂委員会篇、成和出版社
『統一世界』世界基督教統一神霊協会篇、成和出版社
『史報』世界基督教統一神霊協会歴史編纂委員会
『ソウルに来る4』金仁鎬著、図書出版民衆
『興南市誌』一九八八年 興南市誌編纂委員会篇
『韓国戦争史第四巻』国防部戦史編纂委員会編纂
『基督教大百科事典』基督教文社




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愛の奇跡
初版発行 1995年11月21日
著者   武田吉郎,竹谷亘生
印刷所  中央精版印刷