久保木修身回顧録「愛天 愛国 愛人」目次へ

第一部 愛天 愛国 愛人


満州に生まれる

韓半島に渡った父

 私は、昭和六(一九三一)年、中国大陸の満州(中国東北部)にあった安東市(現在の丹東市)で生まれました。安東市は鴨緑江の北側に位置しており、鴨緑江をはさんで北朝鮮の新義州に向かい合っていました。このあたり一帯は四季の変化が激しく、冬になれば氷点下三〇度にも下がる所です。その厳寒のまっただ中の二月三日に、私は生まれました。父の名は仙蔵、母はよしと言い、私はその長男でした。

 そのころ、満州は日本の統治下にあり、一旗揚げようとして意気に燃えた人たちが、日本から次々に移り住んでいました。

 私の父もそういう雰囲気の中で、韓半島(朝鮮半島)に渡った一人でした。父は農家の末子で、当時普通は長男が跡を継ぐので次男や三男というのは、みんな家を出て行ったものです。それで、末子の父も小学校を卒業してすぐ、韓半島に一人で渡って行きました。

 父が若くして韓半島に行ったのは、実は父の長兄が先に渡っていたからです。彼は韓国でキリスト教弾圧関係の刑事、いわゆる憲兵でした。とても怖い伯父で、私などはそばにも寄れませんでした。憲兵としてもおそらくすごかったのだろうと思います。その伯父は韓国でキリスト教の弾圧ばかりをやっていましたが、日本に帰ってからは、キリスト教を研究し始め、カトリック信者となり、晩年洗礼を受けてクリスチャンとして亡くなりました。

 父は、憲兵だった伯父に頼って生活することは難しかったので、伯父の知り合いで韓国人の両班(当時の特権身分階級)の方にお世話になりました。この方は私の父と会って、「こいつは将来ものになる」ということで、家に置いてくれたそうです。その方は、父に「おまえは非常に頭のいい子だから」と言って、当時商業学校としては名門の善隣商業という学校に通わせてくれました。そこでは、作曲家として有名な古賀政男と同じクラスだったそうです。彼のあの独特のメロディーは、韓国で培われたものです。父はこの学校を首席を争って卒業しました。そして、その両班の方が当時朝鮮銀行(現在の韓国銀行)の総裁と友人でしたので、その紹介で朝鮮銀行に就職することになりました。

 とても不思議な因縁だと思うのですが、父が当時通った善隣商業は現在、韓国の統一教会(世界基督教統一神霊協会)の旧本部教会(ソウル・青坡洞)の裏にありました。


肝っ玉の座った母

 私の母も早くから、満州に行っていました。母の父親はリットン調査団(一九三二年)が来たころ、満州で英語の通訳を行っていましたから、おそらく大正の終わりくらいには満州に渡っていたのでしょう。

 父は、ソウルの朝鮮銀行で業務を覚え、その後、国立の満州興業銀行に転勤を命ぜられ、満州に移ることになりました。父と母が結婚したのは、私が生まれた安東市です。

 母は、無類の肝っ玉の持ち主でした。例えば、どこかで[馬賊]が集団で首をはねられるという噂があると、必ず出かけていきました。普通女性はそういう所には行かないものです。しかし、母は目をらんらんと輝かせて、首がはねられる瞬間を見ていたそうです。少し変わった女性でした。何事にも本当に好奇心の塊のようなところがありました。

 女学校の時の面白いエピソードがあります。あるとき、母が通っていた女学校で、場の見学があったそうです。ところが、女学生の誰も中に入ろうとしない。私の母だけひとり入って、一頭一頭解体されるのを凝視して、その場を離れようとしませんでした。そのことが学校中で大変な評判になったそうです。

 母は、そういう少し変わったところがありましたが、かといって情け容赦のない女性であったわけではありません。むしろいつもにこにこして、非常に円満な性格でした。晩年はすっかり白髪になり、皇后陛下(現皇太后様)になんだか似てきたようで、周りからも皇后陛下にそっくりだと言われるようになりました。

 母は、小さい時の私の行動などを見ながら、「この子は何かやる」という確信をもっていたようです。ですから、私が何をやるにしても、いっさい反対をしませんでした。しかられたことも、褒められたこともあまり記憶にありません。それは放任主義だからではありません。私を心から信頼してくれていたのを、私は子供心に感じていました。


贅沢を許さなかった両親

 私の両親は子供には絶対に贅沢を許しませんでした。わが家は父が銀行の支店長でしたから、町の名士でもありましたし、けっこう裕福なほうだったと思います。周りにいた人たちも裕福な人が多く、贅沢な暮らしをしていました。しかし、私の両親は、絶対に贅沢な暮らしをさせてくれません。特に父の教育方針がそうだったようです。

 それで、母は子供にいりこみたいなものばかりを食べさせていました。子供のおやつにと、いりこをカマスにいっぱい買ってくるのです。近所の子供たちは、チョコレートとかキャラメルなどを食べています。どうしてわが家にはこういうものしかないんだと私は不満でした。もしかしたら、うちのお母さんは、まま母じゃないかなどと子供心に思ったことがあるのを覚えています。いつもポケットにいりこが入っていたので、ポケットが魚臭くてたまりません。友達が、臭い臭いと言って寄りつかなくなりました。しかし、今考えるとそうした両親の教育が目に見えない形で、私の人生を守っていたのは間違いありません。


国民学校時代

絵や文学に興味を持つ

 国民学校(小学校)時代、私の成績は優秀なほうだったと思います。クラスで常に一、二番でした。しかし、いわゆるガリ勉のように勉強した記憶はありません。ほとんど唯一の勉強の場は教室でした。あのころ、私は授業で受けたことは全部その場で覚えるという構えで、授業に臨んでいたのです。ですから授業以外で勉強した記憶はほとんどありません。

 私はむしろ絵を描くことに興味を覚えていました。よくは分かりませんが、満州の大自然に魅せられていたのかもしれません。しばしば画板を持って、野外に写生に出かけました。風景に見とれながら、絵筆を走らせていると、自然に人々が集まってきて、私を取り囲み、「これはすごい。独創的だ」と褒められたことが幾度かありました。そういう言葉が励みになっていたことは確かです。

 また、よく詩を書きました。新聞に詩を投稿して、しばしば掲載されたことを覚えています。自分の心に感ずる自然の偉大さや、内面的な苦悩を素直な言葉で表現すること、そしてさらにそれが評価されることに、ある種の快感を覚えていたのかもしれません。

 国民学校の高学年のころ、吉川英治の『宮本武蔵』という大河小説を耽読しました。貪るように読んだ記憶があります。そして、「よし、この宮本武蔵のような修行をして、人間として大成しよう」と自分に誓ったことがありました。武蔵の「剣禅一如」という考えに、幼いなりに、惹かれていたのだと思います。相手と戦いを交える時、自分の剣の先に自分の体が入ってしまう。相手には自分の姿が見えなくなる。我にもあらず、彼にもあらず。まさに彼我一体の境地なのです。こういう世界に大変惹かれていました。

 そのころ、川端康成の『伊豆の踊子』などにも大変感激しました。私がそういう小説を読んでいるものですから、親もひどく心配して、国民学校の校長先生にそのことを訴えに行きました。次の日の朝礼で校長先生から、「久保木君、君は川端康成の小説を読みふけっていると言うけれども、まだ早い」と注意されたこともありました。

 今考えると、私は多感で感受性の強く、その上少しませていた少年だったと思います。そんな多感な私が、感受性の基礎を作る少年時代に、満州の大自然に囲まれて生活できたことは、本当に幸せでした。私にとって、絵を描くことも、詩を書くことも、大自然に息づく大いなる生命との出会いにほかなりませんでした。満州の自然の神秘は常に私を圧倒しました。私はそれを表現せずにはいられませんでした。強い衝動が私に働きかけていたのです。


韓国人や中国人の友人が多かった

 私が五歳の時、父は仕事の関係でソ連・満州国境に近いチチハルに移り住むようになりました。初め父は単身でチチハルに赴任していましたが、私の国民学校入学に合わせて、私たちも父のもとに行き、私はそこの国民学校に入学するようになりました。それもつかの間、父の転勤で西安(満州にあった)の国民学校に転校を余儀なくされました。この町は、奉天(現在の瀋陽)から少し入ったところに位置して、撫順の北側にある炭坑町です。旧満州で一番大きな炭坑町は撫順でしたから、西安はその次ぐらいだったと思います。

 この西安の国民学校は、中国人も韓国人もいましたが、日本人の数のほうが圧倒的でした。約九割が日本人なのに、私はどういうわけか、韓国人や中国人の子供たちと馬が合い、友人のほとんどは、日本人ではなく韓国人や中国人でした。

 当時、中国人の学校もありましたが、ハイレベルの家庭や高級役人の子弟は、日本人の学校に来ていました。彼らの中には、立派な商売を営んでいる家庭もあり、私たち日本人の家庭よりはるかに裕福でした。私は、よくそういう家に遊びに行ったことを覚えています。


父の影響

 私が韓国人や中国人と全く壁のない付き合いができたのは、父の影響だと思います。前述のように父は小さいころ、韓国で両班の方の世話になりました。学校にまで行かせてもらい、とても恩を感じていました。

 父は銀行員でしたので、韓国人にはしょっちゅう銀行の金を貸してあげていました。人情家だったのです。ところが、相手は返さない。返せなかったのかもしれません。それで、父は律義な人間でしたから、自分の給料の中からそれを銀行に返していました。

 私は父と母が喧嘩したのをほとんど見たことがありません。しかし、韓国人に金を貸したことに対してだけは、母は父に文句を言っていました。「何で、そういうあてにできない人に金を貸すのか」と言うのが、母の言い分です。父は取り合わないような風をしながら、「可哀想じゃないか。彼らに自分たちに近い生活をさせてあげられなければ、安心できないじゃないか」と言って母をたしなめていたのを記憶しています。父はそんな考えの人でした。

 そんな父の姿に影響を受けたのだと思いますが、私は小さいころから、日本人とか中国人とか韓国人という意識は全くありませんでした。見下すことも、卑屈になることもありませんでした。心と心が通い合う同じ人間として、接していたように思います。


韓国の友人たちと五十年ぶりに再会

 第二次世界大戦が末期に近づいてきたころ、私たち家族は北京に住んでいました。その時こんなことがありました。韓国の友人たちが、反共軍に入ろうと私を誘うのです。当時韓国人にはいろいろな情報が入ってきていました。それは日本人に入るものとは違った情報です。そのころ、中国共産党の八路軍という軍隊が抗日戦で活躍していました。この共産党の軍隊を討伐するために、いろいろな部隊が当時作られたのです。

 韓国の友人たちが、その討伐軍に入ろうと誘うのです。日本軍から戦車一台を盗んで持っていけば大尉になれるとか、機関銃なら少尉だとか、小銃なら何々だという情報を友人たちは知っていて、それを盗んで共産党をやっつけようじゃないかと言うのです。私なども、その当時から、反共的気分でいましたから、すっかりその気になって、友人たちとともに共産党征伐軍に参加する予定でした。

 ところが、その直前になって、日本人は日本人だけで結集せよという命令が出、日本人は天津から船で日本に帰るというのです。それで、そのまま私たち日本人は天津に行くことになり、友人たちとは別れざるをえなくなりました。

 数年前、私はその時の友人たちとソウルで五十年ぶりに再会しました。これも本当に不思議なことですが、ソウルにいた私の知り合いが、一人の韓国人と仲良くなりました。その知り合いがその韓国人からいろいろ話を聞いてみると、私から聞いていた終戦当時の話ととてもよく一致するので、彼は私に連絡をしてきました。その韓国人と会ってみないかというのです。驚きました。会ってみると、なんと大陸で別れたあの時の友人だったのです。名前は鄭さんと言います。

 その後、そのころの友人が続々と現れてきました。本当に懐かしいものです。別れた後どうなったかと私が尋ねると、「久保木がいなくなったので、みんな気力がなくなってしまった」と言っていました。彼らの中の一人は泣く子も黙ると言われた海兵隊の少将になっていました。ほかに大韓航空の支店長。もう一人は銀行員。これらの韓国の友人たちは、私が北京に四年ほどいたときの友人です。私はそのころの友人で、韓国人の友人のことは覚えているのですが、日本人の友人に関しては全く覚えていません。こういうことも、韓国と深い関係を持った父の代からの因縁だったのかもしれません。


満州での生活

 ソ連・満州国境近くのチチハルという所は、九月の終わりころには凍り始めるような大変寒さの厳しい地域です。一年の半分以上は雪と氷の中で生活をしなければなりません。かといって、その生活は決して暗くて陰鬱なものではありませんでした。スキー、スケートはこの地域ならではの楽しみでした。スキーをするにも今のように道具が揃っているわけではありませんので、自分たちでスキーの板を作ったものでした。

 スケートは特に徹底していました。学校のスケートリンクは十月には滑り始めることができました。学校に行くのに家から、もうスケートの靴を履いて出ます。授業中もそのまま履いています。そして、休みのベルが鳴ると一斉に走り出して、そのままリンクに向かいます。そんな風にして、朝から晩までスケートをして遊んでいました。母も、子供のころから満州にいたので、スケートをよくやりました。スケートの選手権大会で全満州一位になったこともあります。母はいつも颯爽と滑っていました。

 満州の冬には、すべての生命が凍てつくような厳しさがあります。生存を許さない自然の迫力を感じます。氷点下三〇度を超えることもしばしばです。そういう中で、逞しくそして楽しく私たちは生活していました。冬が長く厳しければ厳しいほど、雪解けの春は待ち遠しいものです。最後の雪を溶かす春の陽光を忘れることができません。冬の長靴をしまい込んで、短い夏靴に履き替えて、春の日差しを浴びながら野原を駆け回った記憶が昨日のことのように瞼に浮かびます。

 都会のような安逸な環境では、決して味わうことのできなかった自然の神秘と恵みを幼心に感じていました。その後の波乱に満ちた激動の私の人生において、満州で経験した厳しい自然環境での生活実感が大いに役立ったことは否定することができません。辛くて苦しい困難が長く続くような時、私は「やがて必ず春は来る」と素直に信じることができました。そして、常に春は確実に訪れたのです。



敗戦の傷痕

終戦間近に九死に一生を得る

 国民学校を西安で卒業した後、私は父の薦めもあって、懐かしい生まれ故郷の安東市に戻ることになりました。理由はそこの中学に入学するためです。しかし、一年もたたないうちに、またもや父の転勤で北京に移らざるをえなくなり、私は北京の中学校に通う羽目になりました。

 そのころ、日本は太平洋戦争のまっただ中でした。大東亜共栄圏をめざして戦ったこの戦争も、緒戦こそ華々しい戦果を飾ったものの、その後戦局は一向に好転することなく、日本は敗戦へと傾いていきました。敗戦の憂色に包まれていた当時の関東軍が、一番恐れていたのは、ソ連軍の侵攻です。彼らはこれを未然に防ごうと、ひそかに毒ガスを製造していました。

 私が十三歳になったばかりのころ、学徒動員の名のもとに軍に徴用されていました。ある朝、上官からこの毒ガスをソ連・満州国境へ運ぶように命令を受け取ったのです。運搬隊の責任者として、弱冠十三歳の私が十数名を従えて貨車に乗り込むことになりました。国家のお役に立てることのうれしさと、無事責任を果たせるかという不安とが私を襲いました。私は緊張しながら、貨車の出発を待っていました。

 すると、突然「久保木は残れ!」と言う上官の命令がありました。理由は全く分かりません。直ちに代わりの者が立てられ、貨車は出発してしまいました。私はがっかりして、意気消沈しながら出発する貨車を見送ったことを覚えています。

 しかし、翌朝、毒ガスを積んだ貨車は爆破されてしまいました。乗り込んでいた運搬者たちは全員爆死したということです。私は危うく命拾いしました。運命の不思議さというものを、その時感じずにはおれませんでした。


敗戦

 日本の敗戦は、長年満州や中国大陸で生活していた者たちに、未曾有のショックをもたらしました。日本はどうなるのか? 無事日本に帰ることができるのか? 不安と動揺が襲い、パニックになります。昨日まで支配していた現地の中国人に、こびへつらわなければならない哀れな身になってしまったのです。

 敗戦とともに尊大な態度に豹変する現地人も多くいました。彼らは日本人に悪態をつき、危害を加えようとさえしました。そのうえ、食糧事情も敗戦と同時に次第に苦しくなってきて、社会不安は増幅するばかりです。そういう中で、満州や中国大陸に長年住み慣れた日本人が大陸を後にして続々と日本に引き揚げていきました。

 残された北京近辺にいたすべての日本人は、一カ所に集められました。北京郊外にある防空壕の中に収容されることになったのです。そこでは一切の外出は禁止されていました。防空壕と言っても、地面に穴を掘った一時的な避難所というものではありません。中国人が一応住居用に造ったものです。一つに二十人ぐらい寝る余地があり、そこに数家族がぎゅうぎゅうのすし詰めで生活していました。部屋も分かれているわけではなく、おまけに外出禁止です。もちろん風呂もありません。そういう生活を一年間強いられました。これはかなり辛い体験でした。

 しかし私の母は、前述のように、肝っ玉母さんのようなところがありましたので、全然動じませんでした。物資が乏しくなり、生活が悲惨になっていっても、いつもしゃきっとしていました。そのころ、父は仕事で天津にいましたので、不在です。銀行の残務処理のため天津に残らざるをえなかったのです。それで、母は父のいない中、一人で四人の子供たちを引き連れながら、それでいて平気な顔をしていました。母の不安そうな顔を私は見たことがありませんでした。そうした母の姿にどれほど励まされたかしれません。


ラジオの落語から「間」を学ぶ

 北京にいたのは、中学の一年生のころでした。私は、ラジオで落語ばかりを聴いていました。そのころ、大陸ではNHKの海外放送が流れていましたが、終戦と同時にそれらがピタッと止まってしまいました。アメリカ軍が入ってきて、軍国主義的な要素のあるものは全部カットしたためです。ところが落語だけは、軍国主義と関係がないということで、大いに歓迎されていました。それで、特に海外放送では、落語だけを流すようになっていました。

 我々は日本がどうなっているか、その情報をキャッチしたい。しかし、落語しか流れてこない。それでしかたなく、落語ばかり聴いていたのです。終戦直後だから、ほかに何もすることがありません。防空壕からも一歩も出られません。そのころ落語ばかりを聴いていて、何か体に染みついてしまったような気がします。それは落語の内容というよりも、落語全編に包摂されている芸術性といったものです。それが現在、講演などで大変役立っていることは確かです。

 落語といっても、もちろん古典落語です。古今亭志ん生とか三遊亭金馬などが、奇妙奇天烈なことを言う。これが何とも言えずおかしくて、そのおかげで敗戦の憂き目に遭いながらも、沈んでばかりいずにすみました。

 私が落語で身につけた最大のものは、落語にとって一番大切と言われる「間」の取り方です。これが、今日になってみて、非常に役立っています。各地の講演会の時、私が壇上で話していると、会場全体が完全に無の世界になってしまう瞬間があります。そのような体験を何度かしたことがあります。会場の人々全体が、全員ウッとなって呼吸が止まってしまう。壇上の私の話の中に吸い込まれて、全員の呼吸が止まってしまったという感じなのです。空気までも止まってしまう。針一本落ちても音が聞こえるほどの、静寂の瞬間です。

 これと似たような体験を、以前高校野球をやっていたころに、味わったことがあります。優勝決定戦で、私が相手をしたピッチャーは、その後プロに行った優秀な人たちでしたが、私がバッターボックスに立って打とうとしていると、どういうわけか、ピッチャーが投げてくる剛球がパッと止まる。止まって見える。止まるから、どっちにも自由に打てる。こうして、優勝決定戦に打つことができたので、甲子園に三回も出場することができました。

 講演会の時もそれと同じような感覚です。壇上の私と会場全体が完全に一つになってしまう。その瞬間が呼吸の止まる瞬間です。こうした間の感覚を、落語を通して身につけることができました。北京時代のひとつの収穫だったと思います。


父を訪ねて命がけで天津へ

 さて、防空壕の生活は、同じ部屋に数家庭が同居するという窮屈なものでした。食糧もだんだん欠乏し、お金も減っていきます。それでもみんな生活を切り詰めながら、必死で我慢しながら生きなければなりませんでした。特にわが家は、父が天津にいるため、その給料が手に入りません。生活が日に日に苦しくなっていくのが、私の目にもはっきりと分かるようになりました。

 ある日、私は天津にいる父のもとに行って、給料をもらってこようと考えました。しかし、日本人は私用の旅行はおろか、外出さえできない時期でした。私は長い思案の末、ついに天津行きを決行することにしました。誰にも告げず、防空壕をそっと抜け出したのです。今考えますと、ずいぶん無謀な行動でした。

 出発に先立ち、まず中国服に変装しました。日本人だと分かると銃殺されるからです。北京の駅に着くには、市内各所にある門をいくつか通過しなければなりません。そこの門衛を片言の中国語でごまかしながら、何とか北京駅に着きました。

 無事天津行きの切符を手にして、急いで列車に乗り込みました。ところが、後で気づいたことですが、私が片言の中国語で買った切符は特急車の切符でした。敗戦後の中国で、特急車に乗る日本人はいません。車内には案の定、日本人の姿はありませんでした。私は急に心細くなって、不安に身震いしましたが、運を天にまかせて、座席についていました。

 窓の外の景色を見ながら、「もう少しで、天津だ。天津に着けば父がいる」と自分に言い聞かせ、忍耐していました。緊張感からか手の握り拳は自然に汗ばみ、時折深い溜め息がもれます。すると、車両の向こう側から乗客の切符を点検する車掌の姿が見えました。「しまった!」。私は、その時一瞬血の気が引くのを感じました。額から一条の汗が流れ、膝がガクガクしはじめました。「これで一巻の終わりか」。

 すると、目の前に座っていた白髪の中国人の老人が、私の足をポンと蹴って、何か目配せをします。その目は「逃げろ」と語っているのです。私はとっさの判断で、すばやく席を立ちトイレに駆け込みました。

 車掌の目を盗んでから、二時間がたち、列車は天津駅に近づきました。窓から駅の方を見ると、多くの憲兵が銃を持ちながら見張っています。私はプラットホームに向かって徐行していく列車から線路に飛び降りました。そのまま真っ直ぐ、天津の市街に走りました。

 ようやく天津の日本租界に到着したものの、父の銀行がどこにあるのか全く見当がつきません。大人に尋ねれば日本人であることがばれるので、遊んでいた子供に、「天津銀行はどこ?」と尋ねると、「あそこだよ」とすぐ教えてくれました。やっとのことで父の銀行を探し当てることができた時は、もう夜半になっていました。

 門番に、「僕のお父さんに会わせてください」と言うと、門番は父に伝えに行きました。しかし、父は門番の言うことを信用できず、「そんなことは絶対ありえない。母親の名前、兄弟の名前を聞いてきてくれ」と門番に頼んだそうです。その時、父は門番と一緒に出てきました。扉越しに懐かしい父の声が響きます。「修己か?」「お父さん、修己だよ」。扉の向こうの父の驚く様子が伝わってきました。

 それもそのはずです。日本人が城外に出れば銃殺されるのに、どうやってここまで来たのか。来てしまったからには、仕方がない。あとはどうやって無事に帰すかを父は考えたのでしょう。父は私を見て本当に驚きながらも、無事を心から喜んでくれました。父の姿を見たとたん、長く続いた緊張が一挙に解け、私は崩れるように父の腕の中に倒れ込みました。

 父から給料袋を受け取り、私は母のいる北京の防空壕に帰ることになりました。しかし、帰りがまた大変です。無事帰ることができるかまったく分かりません。

 私の父は、敗戦後も残って、銀行業務を中国人に教える立場にいました。そういうことで、天津の本店にいたのです。私が、父を訪ねて天津の銀行に一人で来たことで、銀行中の人々が大変驚いて、そのことが頭取の耳にも入ったようです。

 頭取は「蒋介石は私の親戚だから、彼に頼んでみよう」と言ってくれました。彼が頼んでみると、即座に一書が届きました。「この少年は悪しき者ではないから、無事帰すように」というようなことが書かれていました。こうした蒋介石総統お墨付きの通行許可書を手にしましたので、私は父の給料袋をしっかり腹に巻き付け、北京に戻ることができたのです。

 防空壕では、私がいなくなったことで大騒ぎだったそうです。[匪賊]にやられたのではないかとか、いろいろな噂が飛び交っていました。そこへ私がひょっこり帰ったものですから、大変驚いていました。

 このようなことで、私としては、個人的に蒋介石総統に大変恩義があります。後年ア総統にお会いしたとき、このことのお礼を申し上げました。これも不思議な運命の巡り合わせのような気がします。


引き揚げ船に乗り込む

 私たち一家は父の仕事の関係で、帰国が大幅に遅れました。とうとう私たちの大陸引き揚げの時が来ました。父は、銀行業務の引き継ぎのため、さらにしばらくは大陸に残らなければなりませんでした。

 母はできる限り多くの品物を日本に持ち帰ろうとしました。そのため、家族全員がそれぞれ六個ぐらいずつ大きな行李を持たされました。首から吊したり、肩から掛けたり、背中にリュックのように背負ったり。私たちは、そうした状態でアメリカ占領軍が差し回した上陸用の舟艇にほかの多くの日本人と一緒に乗り込みました。それに乗り込むためには、長い長い順番を何カ月も待たなければなりません。その時は、北京から天津に移っていて、テント生活を余儀なくされました。

 北京の防空壕の生活以来、私たちは約二年間風呂にも入れない生活が続きました。着のみ着のままの乞食同然の姿だったと思います。天津でのテント生活では、夜回りに来る係官に品物を盗まれないように見張りをしたりして、悲惨な生活でした。

 ようやく船に乗り込むことができて、いよいよ出航の時が来ました。異国の地とはいえ長く住み慣れた大陸への郷愁は断ちがたいものがあります。

 私は陸地が見えなくなるまで、いつまでもいつまでも眺めていました。私を育ててくれた大陸との別れは、たまらなく辛いものでした。こみ上げてくる思いを止めようともせず、脳裏に去来する懐かしい日々を思い出していました。

 こみ上げてくる郷愁の念と、まだ見ぬ祖国日本への憧れ。複雑な心境で私はあれこれと思いめぐらしていました。大陸にいたころ、両親はいつも「日本は美しい国だ」と得意げに自慢するのが口癖でした。そのころ、大陸では泥棒が横行しており、朝盗まれた物が、夕方になると町の闇市で売られるというようなことがしばしばでした。そんな時、父母はいつも日本には泥棒はいない、みんな心やさしく親切で、いい人ばかりだと言って日本のことを誇っていたのです。

 そういう両親の話を聞いて育った私は、日本に対して異常なほどの憧れを持っていました。そんな日本に一度でいいから行ってみたい。夢にまで見たそんな日本に船は徐々に近づいています。私は胸の高鳴りを抑えることができませんでした。


台風で船が沈みそうになる

 憧れの日本到着は、決してスムーズではありませんでした。ようやく日本に着くかと思われた時、台風が襲いかかりました。玄界灘はただでさえ、荒い海です。我々が乗っている船がどんどん日本から離れて行ってしまいました。乗客はてっきり日本に向かっていると思い込んでいたのに、なんと船は青島(中国山東省)の沖に流れ着いてしまったのです。

 台風により船内にかなりの浸水がありました。この船はあと一時間で沈むという船内アナウンスがありましたので、船内は騒然となりました。そして全員甲板に集合することになりました。船長がみんなの前で沈痛な面持ちで話し出します。

 「この船はまもなく沈みます。皆さんとお別れしなければなりません。この中で、歌や踊りのできる人は、最後に披露してください。そして私たちはここでいさぎよく死にましょう」

 船長の話はこのような内容だったと思います。

 そして、みんなで歌い始めました。そこに渡辺はま子という歌手が出てきました。彼女は中国大陸に慰問に行っていたのです。ところが終戦になって、しばらく大陸に残ることになり、私たちと同じ船で帰って来ることになったのです。彼女は「シナの夜」など数曲を歌って、最後に「さよなら、さよなら」と涙ぐんでみんなに手を振っていました。船内には悲壮感が漂っていました。

 日本には、船はもう沈んだという電報が送られていました。ところが、奇跡的に台風がやみ、そのあと急遽船を修理して、何とか四日目に山口県の仙崎港にたどり着くことができたのです。港には船が沈んだと思っていたのか、係官も誰も来ていませんでした。

 私は十三歳ぐらいまで、こうした死に直面する体験を何度かしています。何度か死にそこなっています。幼いころからこんなに死に縁のある人間も珍しいのではないでしょうか。



日本での生活始まる

憧れていた日本に失望

 船から下船して、私たちは休む間もなく、すぐに父の郷里の千葉県香取郡津の宮へと向かいました。何度も汽車を乗り継ぎしましたが、どの汽車も米や野菜を抱えている乗客で満杯でした。東京をはじめ日本の主要都市は、空襲で焼け野原になっていました。人々は食糧に不足し、農家に直接出向いては物々交換をしてまた帰ってくるという有り様でした。汽車はそういう乗客でいつも満杯だったのです。

 どの顔も私には心なしか、疲れているように感じました。敗戦のショックから立ち直るには、まだ時間が必要だったのでしょう。私は両親から常に口癖のように聞かされていた美しい日本、そして憧れの日本が廃墟同然になっている現実に直面して、心ひそかに誓っていました。「この日本を何とか再建したい。私にできることは何だろう」。

 三日三晩汽車に揺られて、ようやく千葉に着きました。父の故郷は香取郡の佐原の近くです。あたりに利根川が流れる美しい所です。私はさっそく佐原中学校に転校の手続きをすませ、日本での生活が始まりました。約一年ほどして父が、銀行の残務処理をすませて、中国大陸から帰ってきました。久しぶりに家族揃って団らんの日々を過ごすことができました。

 しかし、楽しい日々はそう長くは続きませんでした。日がたち、町の様子にも慣れてくると、日本の現実の姿が私の目にもはっきりと見えるようになりました。その日本は両親から聞かされていた日本とは違います。自然も美しく、人情に厚い親切な日本。そんな日本はどこにもありませんでした。今考えてみれば、日本はまだ敗戦のショックから立ち直ることができていなかったのです。日本人全体が自分の生活のことで精いっぱいでした。少年であった私の心には、人々の心がすさんで見えたのです。大陸帰りの者に対する日本人の態度が、冷たいように私には感じられました。憧れていた日本とのギャップのせいだったのかもしれません。私はすっかり落ち込んでいました。

 利根川に、いっそのこと身を投げようと思ったこともありました。日本は確かに美しい、川の水もきれいだ。しかし、そこにいる人間の心が汚い。このことに気づいた時、私にとって憧れの日本に帰ってきた意味がなくなってしまいました。空しさが襲います。将来も、もう考えることもできない。私はすっかり厭世的になっていました。世をはかなみ、いっそのこと死んでしまえとまで思い込むようになっていたのです。


東京へ移転

 そうした私の悩みのことは、家族の誰も分かりませんでした。私は誰に相談することもできず、自分の心の内にしまい込んで、耐える日々が続きました。佐原中学では、私は野球部に所属し、表向きには、けっこう楽しく生活していましたから、両親も私の本質的な悩みにまったく気がつかなかったようです。

 そうこうしているうちに、父は一家を支えるために、ある建設会社の経理係の職を見つけました。会社が東京でしたので、私たちは佐原をあとにして、東京に移り住むことになりました。都会の生活の始まりです。

 佐原中学から東京の慶応中等部に転校し、まもなくそこを卒業したあとは、そのまま慶応高校に進学しました。しかし、東京も私の心の安住の地ではありませんでした。敗戦後のどさくさとはいえ、日本の社会も日本人の心も乱れていました。毎日の新聞の社会面を賑わす強盗、殺人の記事に、私の心はますます憂鬱に沈んでいったのです。

 大陸で両親から聞かされ、私の心の中に抱き続けた日本のイメージはもろくも崩れ去っていました。心はすっかり厭世的になり、何も手につかない日々が続きました。将来に何の希望も託すことができないままに、私の生活も徐々に退廃的になっていきました。

 そのころ、私はふとしたことから、ヤクザとして有名なある組の幹部と出会うことになりました。彼からひどく可愛がられ、だんだん深みに入っていきました。ある日、その幹部がついてこいと言うので、のこのこついていくと、渋谷のガード下でヤクザ同士の乱闘が始まりました。ヤクザが数人刃物で刺しつ刺されつの血みどろの闘いをしているのです。腰もぬかさんばかりに仰天して、私は一目散にその場から逃げ去りました。そんなこともありました。

 日に日にすさんでいく私に母が気づかないはずがありません。表情も険しくなります。ささいなことで、ふてくされたり、反抗したり、親も手に余すようになりました。母は心配して、眠れぬ夜が続いたそうです。


甲子園出場

 だんだん生活もすさんでいく中で、唯一私が打ち込むことができたのは、野球でした。野球を始めたのは、日本に引き揚げてすぐ転校した佐原中学の時です。千葉県ではなかなか野球の盛んな学校でした。巨人に入った城之内投手など、二、三の有名な選手が出ています。国会議員で、精神障害の娘から殺害された山村新次郎議員も、佐原中学で同じ野球部でした。

 東京に移って、慶応中等部でも野球部に入りました。ある日門の所で物思いに耽りながら、立っていたことがありました。大陸から帰ってきた者はどことなく違っていたようです。ボーッとしていたのです。その時、後ろから二、三人の部員が声をかけてきました。「君、君、体格いいですね。野球部に入りませんか」。私はそのままグラウンドに連れて行かれました。翌日野球部に正式に入部することになったのです。

 あとで知ったことですが、その時野球部は私を入れて十人しかいなかったのです。なのにその夏の東京大会で優勝してしまいました。晴れて甲子園出場です。昭和二十六年ころのことです。それに続く翌年の春も連続出場しました。甲子園では残念なことに、出ると一回戦で敗退しました。十人しかいないチームではどうしようもありません。

 先ほども話しましたが、私がバッターボックスに入ると、相手のピッチャーの投げる球が止まって見える。これは川上哲治が同じような体験をしていたそうです。だからすぱっと打てる。大事なときにこうして、ヒットを飛ばしたものですから、東京代表として甲子園に出場できたのです。その時の相手のピッチャーが大崎三男という人で、後の明大の主戦投手となり、阪神タイガースのエースになった男です。

 満州から日本に帰ってきて、なかなか日本に馴染めない。日本のなんたるかが分からない。自殺を考えたり、ヤクザと付き合ったりといった私の退廃的生活でしたが、野球に打ち込んでいる時、私はしばし心の苦痛を忘れることができました。全身全霊を打ち込むことができたのです。陰鬱な時期における唯一の憩いの時でした。燃焼した青春時代でもありました。






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