愛天 愛国 愛人 目次

第一部 愛天 愛国 愛人

満州に生まれる
    韓半島に渡った父

    肝っ玉の座った母
    贅沢を許さなかった両親

国民学校時代
    絵や文学に興味を持つ

    韓国人や中国人の友人が多かった
    父の影響
    韓国の友人たちと五十年ぶりに再会
    満州での生活

敗戦の傷痕
    終戦間近に九死に一生を得る

    敗戦
    ラジオの落語から「間」を学ぶ
    父を訪ねて命がけで天津へ
    引き揚げ船に乗り込む
    台風で船が沈みそうになる

日本での生活始まる
    憧れていた日本に失望

    東京へ移転
    甲子園出場

立正佼成会へ
    母の入信

    とうとう立正佼成会に入信
    立正佼成会の最盛期
    熱心な信仰実践
    たすきを掛けて布教
    大学生活
    佼成会の仕事に専従
    結婚

統一教会に導かれて
    ある友人の失踪

    「統一原理」との出会い
    統一教会の礼拝に初めて参加

庭野会長の決断
    会長に逐一報告

    庭野会長の偉大さ
    佼成会の青年が修練会に参加
    庭野会長ご子息の修練会参加

立正佼成会から統一教会へ
    佼成会信徒たちからの苦情

    庭野会長のためらい
    家族の信頼
    長男の喘息

魂の声に導かれて
    廃品回収の日々

    神の啓示を受ける
    妻の入信
    長男の喘息が奇跡的に回復
    父の死

国際勝共連合の会長として
    勝共運動始まる

    勝共運動の本質的意義

国際勝共連合の設立に携わった人々
    笹川良一先生の思い出

    信念の政治家、岸信介元首相

ワクル(WACL)世界大会の開催
    日本開催の経緯

    カストロ女史とサーモンド米上院議員の参加

勝共運動の国際的広がり
    朴正煕韓国大統領との会談

    中共承認反対と日本人の信義
    蒋介石総統との会談
    ローマ法王と会見

勝共運動と救国の叫び
    日本共産党との理論戦に勝利

    「救国の予言」の全国キャンペーン
    京都府知事選挙で革新を打倒
    「勝共国民運動」を始める

共産圏の崩壊
    レーガン大統領の登場

    ゴルバチョフの登場とソ連崩壊

韓半島情勢の新展開
    金日成主席と文鮮明先生との対面

    主体思想を批判
    怨讐を愛する思想


第二部 世界平和への道すじ

「共産主義崩壊」の予言
    共産主義は七十年を越えられない

    共産主義の本質は憎悪と無神論
    人間の本質を無視した共産主義
    宗教の役割
    二十一世紀は宗教の時代
    東西問題と南北問題の根は同じ

「東アジアの時代到来」予言の意味
    文明は「アジア太平洋文明」で結実

    内村鑑三に見る日本の天職
    東アジアの経済成長とアメリカの役割
    「アジア太平洋文明」の二つの意味
    アジア的なものの見方

「明治以後百二十年で日本は衰退」の予言の意味
    一九八八年が日本の運勢のピーク

    日本の奇跡的繁栄の意味
    アメリカは日本を不信しつつある
    隣国との間の信頼関係
    本当の危機は教育の危機
    高度成長の落とし子たち
    子供たちを取り巻く環境

日本は母性国家たりうるか
    日本文化の女性的性格

    和の精神

日・韓・中の新しい関係
    日本と韓国・中国に横たわる深い溝

    日韓中連帯の方策

世界平和のとらえ方
    一つの世界と普遍的価値

    日本人の美的価値で世界に貢献
    一つの世界と宗教の役割
    国連の限界と世界平和連合への道

政治家に期待すること
    国民大衆を教育する力を

    政治に理想を
    政治と宗教を考える
    隣国との関係が生命線
    私心を捨てる
    宗教のいらない世界を

あとがき











久保木修己(くぼき おさみ)

昭和6(1931)年、中国丹東市(旧満州安東市)生まれ。終戦とともに引き揚げ、13歳にして初めて日本の土を踏む。慶應義塾大学に学びながら立正佼成会に入会。会長秘書として教団の発展に貢献。
昭和37年、世界基督教統一神霊協会に入教。
昭和39年、会長に就任。
その後、国際勝共連合会長、世界日報社会長、国際ハイウェイ建設を推進する会会長、国際文化財団理事長、日韓トンネル研究会顧問、国際釣友好連盟会長の要職を歴任しつつ、欧米三十数か国、東南アジア各国を歴訪し、各国指導者との交流を深める。
このたび、世界平和連合会長に就任。




愛天愛国愛人
愛天・愛国・愛人

愛天 愛国 愛人

  母性国家 日本のゆくえ




久保木修己先生の御経歴

 久保木修己先生は、昭和6(1931)年2月3日、中国丹東市(旧満州安東市)に誕生されました。銀行員であられた父君の御転勤とともに満州各地、北京で幼少時代を過ごし、敗戦によって内地に引き上げ、13歳にして初めて故国、日本の土を踏まれました。中国大陸での中国人、韓国人など民族の違いを越えた数多くの友人との親交、そして帰国して初めて目にした「美しい祖国日本」が、アジア的視野で日本を愛し続けられた久保木先生の原点となりました。

 慶応中等部から慶応高校に御進学、同高校時代には野球部に属し、二度にわたって甲子園に出場されました。慶応大学時代には荒れる日本の世情に心を痛め、立正佼成会に入会されました。立正佼成会では青年部長、会長秘書として活躍されました。

 昭和37年に統一原理と劇的に出会われ、世界基督教統一神霊協会に入会され、昭和39年に会長に就任されました。その後、神を愛し世界を憂う久保木先生を慕って数多くの学生、青年達が集いました。

 共産主義勢力が国の内外で荒れ狂っていた昭和43年4月、このままでは国が滅びる、として国際勝共連合を日本において創設し、会長に就任されました。「共産主義は間違っている」との信念から、久保木先生は日本共産党に対して公開理論戦を挑むなど、全国各地の大学や街頭で勝共運動を指導されました。このような活動は、国の将来を憂える岸信介元総理をはじめ、わが国各界の有識者から「勝共の若き指導者」として高い評価を受けるに至りました。

 さらにベトナム戦争の激化にともない、アジアの平和と安全を憂い、世界歴訪の途上、アジア各国の指導者を訪ね、当時の朴正煕韓国大統領、蒋介石中華民国総統、フィリピンのマルコス大統領らと精力的に会見されました。昭和45年9月には「ワクル(世界反共連盟・WACL)世界大会」を東京・武道館で挙行され、アジアの平和と安全の確立に大きく寄与されました。

 共産勢力の伸張によって、守勢に立っていた保守・良識陣営からは、「勝共の久保木あり」との称賛と期待が寄せられ、中華民国中華学術院から名誉哲学博士号が授与されております。さらには昭和46年6月には、ローマ法王パウロ6世と会見され、世界平和への道について語り合われました。

 昭和48年から49年にかけては、唯物思想、共産主義の脅威を訴え、全国124ヵ所で「救国の予言」講演会を開催し、総計17万余名の聴衆が参加するとともに、全国の有識者に深い感動を与えました。

 昭和54年には、このような勝共国民運動の基盤の上で、「スパイ防止法制定促進国民会議」を設立、広範な国民啓蒙運動を展開されました。その間、昭和53年に蜷川京都共産府政を打倒したことは、「四条河原町の決戦」と呼ばれ、全国的な革新自治体ブームに終止符を打った画期的な出来事として、その功績は今なお高く評価されております。

 昭和59年には、「日本の平和と安全を守る全国7大都市大会」を開催し、勝共運動に対するわが国朝野の評価は一気に高まりました。

 このように常に救国・救世運動の最前線に立って指導され、日本のみならずアジアの共産化を防いだ久保木先生の功績は偉大であるといえましょう。

 久保木先生はまた、世界日報社会長、国際ハイウェイ建設を推進する会会長、国際文化財団理事長、日韓トンネル研究会顧問、世界反共連盟日本会長、アジア反共連盟(APACL )日本会長、米国極真空手会長、国際釣り友好連盟会長、東西南北統一運動国民連合常任顧問、世界基督教統一神霊協会会長を歴任、世界30数ヵ国を歴訪され、各国指導者と交流を重ねてこられました。そして、平成8年には世界平和連合会長に就任されました。

 このように久保木先生は、まさに世界平和に一身を捧げて来られたのであります。同会長の著書には、「久保木修己講演集」、「久保木修己講演・論文集」、「救国の予言」、「愛天・愛国・愛人」等があります。

 久保木修己先生は、世界平和と日本の未来を案じつつ、去る12月13日午前1時59分、享年67歳で永眠されました。逝去に先立ち、令夫人に「積善の家に必ず余慶あり」との言葉を託しておられます。