久保木修身回顧録「愛天 愛国 愛人」目次へ
立正佼成会へ
母の入信
ヤクザの幹部とつきあい始めて、私がだんだん不良みたいになっていく姿を母が見て、とても心配していました。それまで、ほとんど親に逆らったり、口答えなどしなかった私でした。それがここに来て、ささいなことで口答えしたり、攻撃的な態度で迫ってくるようになった息子を理解することができずに、母は精神的にすっかり衰弱していました。
そのころ、私たちの家は東京の中野にありました。家の前のバス停の所を、毎日毎日ぞろぞろと歩いて行く人々がいるのを母は気にかけていました。彼らは、近くの立正佼成会の本部の玄関へ向かっていたのです。息子の素行の問題で悩んでいた母は、ある日意を決して、その集団に混ざって立正佼成会の門をくぐってみることにしました。
本部のお座敷に上がってみると、やがて、一人の品のいい白髪の老婆が現れました。そして、おもむろにお説教を始めたのです。驚いたことに、「この教会は親孝行を教えるところです」という内容のことを語り始めたそうです。母は、自分が一番悩んでいる問題と、老婆の語る内容とがあまりにも一致したので、「ここだ」と思ったのです。暗闇の中に一縷の希望を見つけました。私をなんとしても、入信させようと決心したのです。
とうとう立正佼成会に入信
母は、毎日私を入信させようと勧めました。しかし、私は宗教などで、世の中が良くなってたまるかという気持ちでした。あまり、母がしつこく迫ってくるので、カッとなって茶碗を投げつけたこともありました。それでも、母は必死でした。毎朝早く起きて、お経を読み上げます。母の読経の声で目を覚ます日々が続きました。
初めはその読経の声がいやでいやでたまりませんでしたが、毎日聞いていると、耳に慣れてくるものです。そして、私の耳に母の読経の声が慣れ始めたころから、私の心も徐々に安定を取り戻してきました。母の必死の思いが、読経の声を通して私の心に伝わったのかもしれません。自分でも不思議に思うほど、心は静かになり、素直になっているのです。
母が熱心に勧める佼成会に行ってみようと思う気持ちになりました。それまで、かたくなに抵抗していた自分が信じられないくらいです。
母に連れられて、ようやく佼成会の門をくぐりました。佼成会の門を通るとき、数名の若い男性が庭の石畳に水をまき、ズボンをまくりあげ素足で掃除している姿がまず目に留まりました。その日は、寒い冬の一日でした。ある種の感動が私を襲いました。こんな寒い日に、それも自分の家でもないのに、あんなに熱心に掃除するなんて。「こういう人たちも日本にいるんだなあ」。大陸から引き揚げてきて以来、エゴイズムの塊のような日本人ばかりを見てきた私にとって、佼成会の青年を初めて見た時の印象は、実に新鮮であり、感動的でした。
佼成会の本部で、一人の若者の話を聞きました。彼はこの宗教に入って、肺病が治ったと話していました。私は半信半疑で聞いていましたが、思ったより素直な気持ちで聞いている自分を発見していました。世の中には、こうして病気で苦しんでいる人もたくさんいる。それに比べて、自分は五体満足の身だ。自分もこのままじゃダメだ。何かしなければ……。
佼成会との出会いは、私の人生に新たな力を与えてくれました。闇の底から、私を救い出してくれたのです。私は佼成会の教えに殉じようと決意するようになっていきました。誰よりも熱心に佼成会の勉強をし、そして実践するようになっていました。
立正佼成会では、初心者に対して、最初「姓名学」から教えることにしています。ある日、一人の老婆から「あなたは、世界で一番の悪党だ」という教えを受けたことがあります。私は、では良くなる方法は何かと質問しました。するとその老婆は、「他人と反対のことをすればいい」と諭したのです。
それで、私は他人が寝ている時には起き、他人が食べている時には、我慢するというような生活を繰り返すことにしました。ところが、そんなことを一週間も続ければ、心身がへとへとになってしまいます。思い切って、老婆に尋ねました。老婆は笑いながら、「それは、人の悪い心の反対のことをするということだ」と教えてくれました。このように、私は言葉そのままをまっすぐに受け止め、それを実践しようとしていたのです。
その時の老婆が、立正佼成会の創始者の一人である長沼妙佼先生でした。妙佼先生は、教理の理論的なことが分かる人ではありませんでしたが、いわゆる霊能者で、人の心を見抜き、その問題点を的確に指摘し、解決方法をズバリと指示する方で、信者から大変な尊敬を集めていました。
立正佼成会の最盛期
そのころの立正佼成会は、「おばさん宗教」でした。学生部もあるにはありましたが、細々としたものでした。知的な若者がほとんど集まらないのです。大学生がほとんどいません。ですから、私は、そのころ高校生でしたし、大学に入ってからもさらに熱心に実践していましたから、佼成会からも珍しがられ、重宝がられたようです。
佼成会が飛躍的に発展したのは、昭和二十七年ころから三十五年ころまでです。私が入ったのは、昭和二十五年ころでしたので、私が入信してそれから急激に発展していきました。私は、一時期佼成会の調査統計局の責任者でしたので、そのころの様子が良く分かります。毎朝、私が勤めに出てみると全国から約一千名は新たに入会していました。そういう日が毎日続くのです。
おばさんたちが、買い物かごを提げて、脇目もふらずに歩いていると、それは佼成会の信者だと言われていました。信仰心に燃えたこうしたおばさんたちのパワーがこの期間、フル回転していました。彼女たちはまさに、脇目もふらずに、布教に励んでいました。
発展期以前の本部は、まだ小さいものでした。よしず張りの小屋などを庭に建てて、そこで講話などをしていました。ところがどんどん人が集まるので、よしず張りの小屋ではおさまりません。それで、どんどん建物を増やす。いくら建物を作っても、人が来てどうしようもないという状況でした。
佼成会の布教方法は、独特でした。支部などに必ず責任者が朝から晩までいます。そこに入会したい人が集まってきて、一対一で対話をする。難しい話はあまりしません。彼らは皆日常生活の悩みを抱えています。誰に相談したらいいかと迷っています。佼成会に来ると、はじめは姓名判断をしたりしながら、だんだんと核心に迫った話をする。そういうことで、おばさんたちがどんどん救われていきました。彼らがまた、口伝えで人を連れてくる。このような形で、この時期に大変発展しました。
熱心な信仰実践
立正佼成会には、「人の一番嫌がることをすると救われる」という教えがあります。いまで言う三K(汚い、きつい、危険)を率先して行えと説くのです。そういう教えですから、例えばトイレ掃除となるとみんなが殺到し、我先にと争いが起きるほどでした。そういう本部の当番などは、十人や二十人の新しい信者を導かないと資格は与えられませんでした。
私は悪の道に至る寸前のところで、立正佼成会によって救われたという実感に満ちていましたから、親戚をずいぶんたくさん導き、信者にしました。その甲斐あってか、私は若僧の分際で、本部の門番の役を仰せつかることになったのです。これは大変に名誉なことでした。
「ここは貴いお方がいらっしゃるから、よくお守りしなさい」と言われ、私は感激のあまり、身の震える思いで、その任についたことを覚えています。私はあたりに気を配りながら、門の前に立ちつくしました。そのころは、まだ道路も舗装されていません。車が通るたびに砂煙がパッと立ちこめるのです。私はそのたびに、バケツに水をくんできては、本部の門や庭をきれいにします。
ある日、私のこうした様子をじっと見ていた老婦人がいました。例の妙佼先生でした。先生は、私の仕事ぶりに大変感心して、私に食事をご馳走して下さり、そのうえ、私は小遣いまで頂きました。この噂は立正佼成会の中に、直ちに広がりました。佼成会の信者にとって、妙佼先生というお方は、直接お話をすることすらほとんどできないようなとても貴い方です。その方から、新米の若僧が、食事をご馳走になり、小遣いを頂いたのですから、みんなの注目を集めたのは当然です。「久保木という少年は誰だ?」全国にその噂が鳴り響いてしまっていたのには、私も驚きました。
そのころの私は、本当に熱心に信心していました。私の日課は、毎朝本部に立ち寄り、両手を合わせてお参りをすることでした。毎朝、本部にお参りをして、学校に行くのは、相当な遠回りをしなければなりません。しかし、そんなことは何でもありませんでした。佼成会によって救われたのです。佼成会と出会っていなければ、死の道を徘徊していただろうと思うと、感謝の気持ちで本部にお参りを続けていました。
ある朝、いつもの通り、本部にお参りに行くと、一人の紳士が近づいてきて、「君、お参りを終わってから、あそこの家に、これを持っていってくれ」と言って、ふろしき包みを渡されました。お参りを終えてから、急いで紳士が示した家に行きましたら、なんと今しがたの紳士が玄関から出て来るではありませんか。何がどうなっているのか分からずに、きょとんとしていると、その紳士は「君はいつも本部でお参りをして、感心だ。私はこの立正佼成会の会長だよ」と言われたのです。そして、親しく言葉をかけてくださったのです。この方が、庭野日敬会長でした。
庭野会長は、妙佼先生と同じく立正佼成会の創始者です。教祖と言ってもいいでしょう。一代で、北海道から沖縄に至るまで、約五百万人の信徒を抱える教団を作り上げた方です。一般に教祖と言いますと、厳めしく近づきがたいイメージがあるようです。しかし、庭野会長は従来の教祖的なイメージには当てはまらない方でした。非常に純朴で、人情味にあふれ、人の心をやさしく包んでくれる方です。それ故、大変人望も厚く、徳の高い人で、顔に笑みを絶やさない温和な紳士でありました。
私は、そのころまだ高校生でしたし、信者としては本当に駆け出しでしたが、立正佼成会の「生き仏」と言われていたお二人に親しくお近づきを受けることになったのです。このことは、私自身にとって、まったく予期せぬ幸運でした。そして周りの人々にとっては、信じがたい羨望の対象でありました。
日がたつにつれ、私の信仰心はますます強くなっていきました。佼成会の雰囲気にも慣れ、いろいろな行事にも積極的に参加しました。私は、自暴自棄になっていた過去が嘘であったかのように、宗教者としての道に精進していました。
たすきを掛けて布教
私は、高校も大学も慶応でした。慶応は東横線の日吉にあります。私は通学するときも、布教する時も、「南無妙法蓮華経」と書いた大きなたすきを掛けていました。渋谷駅から日吉駅までの間の沿線は、代官山のようなお屋敷町がたくさんあります。私はその人たちをどんどん立正佼成会に導きました。昼休みや学校の帰りなどに、そのたすきを掛けて、その辺を一軒一軒訪問しました。私は少し凝り性みたいなところがありましたから、東横線に乗っている間も、ずっとたすきを掛けていました。手には数珠を持って。乗客はみんな奇異な目で見ていました。私がその姿で電車に乗り込むと、みんな一斉に視線を向けます、その後すぐに下を向いてしまいます。見るに堪えないという感じだったのでしょう。
私は学生服の上にたすきを掛けていましたから、慶応の学生だとすぐ分かります。周りはこれが慶応の学生なのかという感じで見ていたのだと思います。しかし、私は颯爽としたものです。視線が全然気になりません。周囲の冷ややかな視線を感じれば感じるほど、ますます強い布教の信念に燃えました。
高校の時も、大学の時も、学生総会というものがありました。そこで総代を選ぶ選挙があります。私も何度か友人の推薦を受けて、立候補しました。その時の友人の応援演説がふるっていました。「この久保木という男は、学校に来るときに、いつも大きなたすきを掛け、手に数珠をしています。こういう立派な男を総代にすべきです」とやるのです。それが効いてかどうか、私はいつも総代をやることになりました。
そういうことで、私は学校でも東横線でも、大変有名になってしまいました。その結果、東横線沿線から、多くの人が立正佼成会に入会しました。私は当時、布教の王者だったのです。
大学生活
私の大学生活は、大変忙しい毎日でした。中学、高校と続けていた野球をそのまま続けていましたし、立正佼成会の一員としてたすきを掛けて布教活動に励んでいました。それに学生総代の仕事、もちろん学業も決しておろそかにしませんでした。
また、私は放送研究会にも入っていました。ジャーナリスティックなことがすこぶる好きな学生だったのです。中学時代には、野球部のほかに新聞部にも入部していました。大学時代、放送研究会に入ったのは、将来アナウンサーになりたいという気持ちも多少あったからです。人の声には、マイクに乗りやすい声と、乗りにくい声があります。私の声はマイクに非常に乗りやすい声だとよく言われました。そんなことからも、アナウンサーになってみようかという気持ちになっていたのです。
放送研究会の紹介で、そのころよくイベントの司会を頼まれたり、ニュース映画のナレーターをやったこともありました。そんなことをいろいろやっていますと、人伝えで、アナウンサーのアルバイトが入るようになってきました。金銭的には、それほどいいアルバイトではありませんでしたが、私としては、たとえただでもアナウンサーの経験を積もうと考えていましたから、喜んで引き受けていたのです。
学業、布教、野球、学生総代、アナウンサーとこれだけ挙げても、目の回る忙しさであることを理解していただけると思います。ですから、遊んだという記憶が学生時代にはほとんどありませんでした。その上、私はプロのジャズ歌手のようなこともやっていました。スカウトをされたこともあるくらいです。
昔、ダンスパーティーが大変流行った時期がありました。そのころ、帝国劇場の五階にダンスホールがあり、そこが私の仕事場です。
そのころ日本には、ジャズなどというものはまだほとんどありませんでした。ジャズを聞く唯一の手段は、アメリカのラジオ放送です。音声が非常に聞きづらくて、ザーザーという雑音の中で、私はジャズ放送を毎日聞いていました。その中に『ヒットパレード』という番組があります。全米の一週間ごとのナンバーが、十曲出てきます。その中で、めぼしいものを私は一晩で覚えてしまいました。けっこう物覚えが良かったのです。
翌朝になると、それを学校で歌うのです。学校中の生徒が集まってきます。そうなると、気分を味わうために、窓の外のベランダに私を立たせて、カーテンを閉めて歌だけを私に歌わせたりしました。外国人が歌っている気分をみんなで味わうには、私の姿が見えないほうがいいという友人の配慮です。そういうことが毎日のように続くと、学校中に評判になりました。そのうちに、先輩たちの口利きで、帝国劇場のダンスホールで歌うことになってしまったのです。
そのころ、よく歌ったのは、「モナリザ」とか「アゲイン」あるいは「ビギンザビギン」などです。終戦後でしたから、みんなジャズに飢えていました。それまでは軍歌しか歌えなかったのですから。
私が歌い始めたころから、ジャズが徐々に盛んになり始めました。笈田敏夫などが出てきていました。私もあちこちのプロダクションにスカウトされました。しかし、本気でプロ歌手になるつもりはありませんから、私にとって煩わしい問題でした。それで、音楽はやめてしまったのです。もし立正佼成会を知らなかったら、芸能界に入っていたかもしれません。
そんなことで、とにかく忙しい大学生活でした。いわゆる遊びというものには、まったく縁がありませんでした。若いからできたのだと思います。
佼成会の仕事に専従
大学を四年で中退し、私は佼成会の仕事に専従することにしました。「宗教の道でしか生きられない」と覚悟を決めてしまったのです。大学時代にいろいろなことをやりましたが、宗教以外のことを何かやろうとしても無味乾燥で、砂漠の中を歩くような感じでした。忙しい大学生活を過ごしながら、私は宗教の道を自分の一生の仕事にするという自覚が固まってきていました。自殺していたかもしれない自分が、佼成会によって救われた。そのことを考えると、私の選択に躊躇はありませんでした。
高校の時から、毎朝本部のお参りを欠かさなかったことで、庭野会長に覚えられたことは先ほど述べたとおりです。その時以来、私は庭野会長から大変可愛がられました。そのせいかどうか分かりませんが、ある日、庭野会長から呼ばれて、会長秘書の役を仰せつかりました。庭野会長とともに地方巡回に行ったり、大きな行事の時の司会、結婚式の式典係などの仕事をこなしていました。忙しい日々でしたが、生き生きとした生活を送っていたように思います。
そのころ、立正佼成会は一時の勢いが失われ、行き詰まっていました。それに対して創価学会が伸びてきて、立正佼成会に向けて一気に伝道(折伏)を始めていました。創価学会は、理論的教学に重点を置いていますから、若者がどんどん入会していきます。それに対して、佼成会は不言実行、実践主義の教義ですから、難しい理論理屈よりも、身をもって善い行いをするというやり方でした。
こういう情勢を見た庭野会長は、「いつまでも不言実行では駄目だ。『行い』と『学』の両方が必要である。宗教は科学の発達とともに次元を高くしなければならない」と感じられて、法華経を学ぶように指示を出すようになりました。
創価学会からは、連日数人の青年が佼成会を訪ねてきます。佼成会で若手青年といえば、私を筆頭に幾人もいません。庭野会長は、私を中心にして、学会の青年たちに対応させましたが、それまで不言実行の教えで教学を学んでこなかった我々でしたので、教学理念では彼らにかないませんでした。
こうした悔しい思いを梃子にして、それ以来私は徹底的に法華経を中心に法論を研究しました。「これでは、佼成会は駄目だ。何とかしなければ……」という焦る思いが私を突き動かしていたのです。その結果、創価学会の青年との討論会に臨んでも、彼らを論破することができるほどに、教学を修得しました。
しかし、同時に教学を学べば学ぶほどに、私の中にいろいろな疑問がわき起こってきました。特に罪の問題が大きな疑問となりました。「人間は確かに善悪両方の性稟を持っている。この罪は人間が作られたときからあったものなのだろうか?」。
いったん、こうした疑問が生ずれば、私はいい加減にそれを無視することのできない性分です。「罪とは何か? 罪からの解放はあるのか? 罪からの救いとは何か?」。この解答を法華経に求めました。しかし、法華経を学べば学ぶほど、私の疑念は深まるばかりです。私が、後に統一教会に伝道されるようになったのは、こうした教学上の罪に関する問題意識があったからなのです。
結婚
私の家内は、熱心な佼成会の信者の娘でした。私が庭野会長の秘書をしていた時、彼女は会長の第一応接接待係でした。連日何十人と庭野会長のもとに来られるお客さんを接待する役目で、その接待ぶりは大変評判だったのです。例えば、富士銀行の重役が長沼理事長のところに出入りしていました。その方は家内の立ち居振る舞いに驚いて、「富士銀行広しといえども、これほどの女性はいない。息子の嫁にほしい」と理事長に申し込んだことがあるのです。
実は、彼女は母が熱心な佼成会の信者で、彼女が学校を卒業したら、佼成会で奉仕活動をすることを願っていました。しかし、彼女は佼成会で仕事をする気はなかったようです。佼成会にはせいぜい一週間に一回お参りに来るくらいで十分と考えていたので、母の期待を無視して就職試験を受けてしまいました。
ところが、そのころ右の肺に黒い影ができていて、肺の入り口まで冒されていることが分かりました。血沈も三〇まで下がっていました。とても勤められる体ではないということで、身体検査で落ちてしまったのです。かつて、「宮崎家の長男長女は必ず結核に冒される」と佼成会で言われたことがあるそうです。それで、彼女は母の言うとおり、佼成会の仕事に従事しようと決意したのです。
彼女が会長の第一応接接待係になってからおよそ一年後の昭和三十(一九五五)年に、私たちは結婚しました。私の両親は当時佼成会の支部長、彼女の両親は副支部長という立場でしたので、この結婚式は大変盛大に祝われました。
私は小さいころから、結婚相手について一徹の考えがありました。それは、将来の嫁さんをもらう時には、親、兄弟、親戚そういう人たちを大切にしてくれる人だったら誰でもいいという考えです。見目麗しくという考えはまったくありませんでした。私は秘書仲間として、彼女の働きぶり、立ち居振る舞いなどを見ながら、この女性だったら、私の親、兄弟を大切にしてくれると睨んだのです。
統一教会に導かれて
ある友人の失踪
私たちの結婚は、周囲からも大変な祝福を受け、本当に幸せでした。子供が二人生まれ、三人目が家内のお腹にいる時、それは結婚して七年目のこと(一九六二年)でしたが、私たちの家庭に嵐が舞い込んできました。私は、思いもかけず、統一教会の教理である「統一原理」を聴くことになったのです。
当時、立正佼成会には主に二つの問題がありました。一つは前述のように、創価学会問題です。もう一つは、労働争議の問題です。争議の内容は、職員の待遇改善と、人事異動をめぐるトラブルでした。後にこれらの争議は背後で共産党が糸を引いていることが判明しました。
私は、そのころ会長秘書として、佼成会を代表して、問題解決に当たりましたが、その時、共産党の恐ろしい体質を嫌というほど体験しました。
私が創価学会対策と共産党対策に苦しんでいる時、私を助けてくれた一人の友人がいます。彼は私が会長秘書になる前、青年部の部長であったころ、同じ青年部の仲間で、私は彼とよく人生観や世界観、あるいは哲学等を議論しました。法華経の教学にもかなり造詣が深く、私自身も彼からずいぶん学ぶことが多かったのです。
その彼が、佼成会から忽然と姿を消してしまいました。それまで、何でも相談してきた仲です。なのに一言の連絡もありません。いくら考えても、私にはまったく思い当たるふしがありませんでした。私は、友人から裏切られたような、寂しいやりきれない日々を過ごしていました。
彼が失踪して数カ月が過ぎたある暑い夏の日、私はある用件で新宿に行きました。すると小田急線の駅のあたりで、一人の男がメガホンを通して大声で道行く人々に何やら訴えていました。はじめは、猛暑で気でも狂ったかと思って、素通りしようとしましたが、どうも声に聞き覚えがあります。もしやと思って、近づいてみたら、なんと数カ月前に佼成会を突然失踪した私の友人だったのです。彼は、そばで私が聴いているのも気づかず、無関心に通り過ぎる通行人に向かって、熱心に訴え続けていました。
「統一原理による理想世界の実現」と書いた旗を竹竿にくくりつけ、それを背中にさして、汗だくになって叫んでいました。私は友人に声をかけるチャンスを失い、佼成会に戻ってきました。数カ月ぶりに会った友人に声もかけられないほどに、私はショックを受けていたのです。炎天下の中、我を忘れて訴える友人の声が私の耳に鳴り響いて離れません。
「皆さん! 地上天国をつくろうではないか」
「統一原理」との出会い
友人との異様な出会いに、何かしら割り切れない思いを抱きながら、悶々とした日々をひと月ほど過ごしたある日、その友人が何の前触れもなく、佼成会本部の私の部屋に訪ねてきました。
彼は挨拶もそこそこに、「今まで悩み続けてきた問題が、すべて解決した。東西のありとあらゆる哲学を乗り越えてあまりある素晴らしい真理をようやく発見したんだよ」と私に話し始めました。思い返せば、私たち二人は法華経の教学を学びながら、人生について、また真理について、いつも熱っぽく語り合っていました。徹夜になることも、しばしばでした。
彼が忽然と私の前から姿を消し、そして再び現れ、「真理を発見したんだ」と熱く訴えるのを聞いて、私は彼と議論した日々を懐かしく思い出しました。そしてほっとしたのです。彼が決して別の人間になっていたのではなかったことに気づいたからです。私たちは、共に共産党や創価学会と戦った同志であるというだけでなく、真理を探究しようとする強い紐帯で結ばれていました。
私は、彼がいなくなっていた間の動向を尋ねようとすると、それを遮るかのように、おもむろに肩に背負っていた小さな黒板を下ろして、講義を始めました。統一原理です。私は新宿の路上で、彼が背中にさしていた「統一原理による理想世界の実現」という旗を思い出しました。
友人は、黒板に白墨で板書しながら、よどみなく朗々と語り続けます。私はただ圧倒されるばかりでした。彼が語る統一原理の内容は私が初めて聞くようなことばかりでした。神の存在とその実相を考察しながら、宇宙の森羅万象あるいは歴史現象までも説明しようとする壮大な統一原理に、率直に言って戸惑いを覚えました。
仏教は、現実の様々な問題を克明に哲学的に説くのですが、問題発生の原因に対する追求が弱いために、問題解決の方法の段になると、何となくぼけてしまうようなところがあるのです。私は佼成会で、庭野会長の命を受けて、教学を研究しながらそうしたもどかしさを感じていたのでした。友人の話は明快です。罪の発生の原因を解くことにより、罪からの解放が自ずと明らかになるということです。
聖書の言葉を駆使しながらまくし立てる友人の話は、ほとんど理解できませんでした。無理もありません。キリスト教にしても聖書にしても、それまでの私の人生において、触れる機会は絶無と言ってもいいのです。
友人の話のほとんどが、理解不可能でありましたが、ところどころ共感する箇所がありました。先ほどの罪の発生の原因が分かれば、罪からの解放も可能であるというところ。それと統一原理が説く神の存在に関してでした。実は、立正佼成会の教えの特徴の一つは、神の存在を唱えることなのです。仏教は普通、神の存在を説きません。ところが、法華経には「久遠の本仏」という存在が厳然としてあるのです。立正佼成会はこの「久遠の本仏」を神として唱えています。私は、友人の講義を聞きながら、統一原理の教える神という存在と、佼成会の「久遠の本仏」は同じだなあと漠然と感じていました。
友人は講義を一通り終えた後、「今は難しく感ずるかもしれないが、君ならばきっと分かる。ともかく、一度ぼくのところに来てくれ」と言い残して、さっさと帰ってしまいました。講義が終わった後、彼に一体何が起こったのか詳しく知りたくて、いろいろ聞いてみたかったのですが、すっかり肩すかしを食らった気分でした。
彼を見送った後、私は秘書室のソファーに座り込んで、すっかり考え込んでしまいました。いろいろなことが脳裏に去来します。彼と議論した日々のこと。新宿の路上での彼の演説。佼成会の教学、そして統一原理。私はそのころ、佼成会のあり方、教団内部の労働争議、創価学会対策等で悩んでいました。そういう時に、失踪していた彼が出現したのです。私の心は大きく揺れました。彼に何が起こったのか。統一原理とは一体何なのか。
私は統一原理の内容はほとんど分かりませんでしたが、彼をしてこうあらしめた何物かに大変興味を覚えました。そして、もしかしたら彼との出会い、あるいは統一原理との出会いが、そのころ教団で生じていた諸々の問題を解決しうる何か一助になるかもしれないという期待を、漠然と持つようになりました。
私は彼を訪ねてみようと決心しました。
統一教会の礼拝に初めて参加
訪ねてみようと決心してからは、その日が来るのが待ち遠しくて仕方がありません。友人が「真理に出会った」と叫び、「理想世界は実現できる」と断言する背景にあるものに無性に出会いたくなりました。友人をあれほど熱くさせるものは一体何か。佼成会を捨てさせるほどの魅力。私は統一教会に対する期待を勝手に膨らませながら、あれこれ想像をたくましくしていたのです。
当時、佼成会の本堂は世界の一流品で作られていました。床はイタリア製の大理石。カーペットはペルシャからの注文品。シャンデリアはフランス製といった具合でした。私はこうした佼成会の殿堂と比較して、統一教会の殿堂を想像していました。「理想世界の実現」を唱える教会殿堂の偉容を思いめぐらし、期待に胸を震わせていたのです。
私は、庭野会長に黙ってこそこそ勝手に行動するのは嫌でしたので、友人の件を率直に会長に相談しました。友人の言う統一原理というものを聞いてみたいと。庭野会長は、ほかの宗教に対して大変寛容な方でしたし、宗教統一を常日ごろ力説していましたので、「そんなに彼が素晴らしいと言うのならば、一度行って聞いてきなさい」と言って、快く許可してくださいました。
会長の許可が下りた最初の日曜日、私は友人と連れ立って、統一教会を訪れることになりました。
友人の後に従って、杉並の方南町の奥の細い道をくぐり抜けるように進み、今にも崩れ落ちそうなくたびれた二階建てのあばら屋の前で私たちは立ち止まりました。その家は一階がガレージになっていて、家全体が何となく傾いていました。友人は「さあ、二階に上がれ」と言います。立正佼成会に勝るとも劣らない大殿堂を想像していた私は、一瞬めまいがしました。「こんな所であるはずがない。ちょっと立ち寄っただけなのだろう」と自分に言い聞かせながら、おそるおそる友人の後についてあばら屋の二階に上がりました。
二階に上がってみると、友人はここが我々の教会の本部だと自慢げに説明しました。そこは六畳一間の狭い空間です。会員と称する五、六人がたむろしていました。
その日は日曜日で、聖日礼拝の日でした。私たち二人が六畳の部屋に入るのを待っていたかのように一人の青年が、テーブルの前に立って説教を始めました。六畳一間の狭い空間にわずか五、六名しかいないのに、その説教者はまるで数千人の聴衆を相手に大演説をぶっているような感じでした。声の大きさと確信に満ちた堂々たる語り口調に私はただただ圧倒されるばかりでした。
初めのうちは、予想に反して変な所に連れてこられたなという失望感と巨大宗教団体の会長秘書としてのプライドから、私の態度は尊大だったように思います。あぐらをかき、腕を組み、口をへの字に曲げながら話を聞いていました。説教者の話は、詳細は覚えていませんが、社会や国家あるいは世界の諸問題に言及する壮大なスケールの話でした。六畳一間のみすぼらしい環境とのギャップに初めは違和感を感じていましたが、だんだん話に引き込まれていって、心の中で「そうだ! そうだ!」と頷いている自分を発見して驚きました。青年説教者の話にはそれほど説得力がありました。
腕を組み、あぐらをかいて聞いていた私も、徐々に態度を改めました。腕組みを解いて、膝を揃えて、身を正しながら、聞き始めたことを覚えています。説教者の背後に、何か得体の知れない大きく崇高な何者かがいらっしゃるように直感したのです。
礼拝が終わり、昼食の場になりました。そこで出されたご飯に私は再び驚いてしまいました。麦が半分以上入ったご飯。米粒がパラパラして箸にもかからない有り様です。おかずはキャベツとトマトを刻んで混ぜたサラダだけ。私は驚いて、食事が喉を通りませんでした。
しかし、後になって分かったことですが、これが彼らの最大のもてなしだったのです。そのころ、彼らは貧しくて普段パンの耳をかじって食事にしていました。リヤカーを引き、廃品回収をしながら、伝道活動に励んでいたのです。食事にご飯が出るということは、彼らの最大のご馳走だったようです。
時は一九六〇年代の初め、日本は高度成長の軌道に乗り始めたころです。国民の生活は安定を取り戻し、明るい未来をみんなが描き始めたころでした。人々の生活水準は改善され、食生活も豊かになってきていました。そういう時代の雰囲気に逆行するようなこうした集団があることが、不思議でなりませんでした。彼らは、私が喉を通すことができなかった麦飯を喜々として食べている。その上、彼らは世界の救いだとか、地上天国だとか、大きなことを話し合っている。傾きかけた六畳一間のみすぼらしい環境との間に何のギャップも感ずることなく、大言壮語できる彼らの姿は奇妙でありながら、何かしら心が引かれるのです。
かつて満州から引き揚げてきた当初、日本人の心の腐敗に絶望した私でした。それが立正佼成会の青年の姿に感動し、日本の将来に明るい希望を発見したことがありました。今、その時の感動以上の熱い何かを私はこの日一日の出会いで感じていました。当時立正佼成会は、ある程度確立された宗教団体でした。しかし、この小さな教会はまだ五、六名しか日本にいないと言います。貧しく、惨めな生活を送りながらも、大きな夢を抱きつつ、真摯に生きているのが、初めて会った私にも確かに伝わってきました。
私は昼食時の彼らの話を聞きながら、胸が熱くなるのを禁じえませんでした。「この青年たちは、こんなどん底の生活をしながら、汗水流して宣教活動に携わっているのか」。その時、私はこの青年たちを決して見捨ててはならないとひそかに誓っていました。そして、漠然とした予感めいたものが私の心に生じてきたのです。自分も友人と同じように、いつかこの教会に来なければならない運命なのではなかろうかと。
庭野会長の決断
会長に逐一報告
その後、私は何度か統一原理を聞くことになりました。その内容を私は逐一庭野会長に報告しました。統一原理を聞いて私が感動したところを、一つ一つ丁寧にご報告すると、庭野会長はその素晴らしさを認めて頷いてくださいました。会長が認めていくさまを見て、私が学んでいる統一原理の偉大さを、私は改めて確信することができました。
立正佼成会は、法華経をベースにした教えを説きます。そして因縁を強調します。善因は善果を生み、悪因は悪果を生む。だから悪い結果を生じないように、常に善因を積むように教えます。病気になるのも、悪因の故であるということです。その上、現世における利益を決して否定しません。現世における喜びを求めて当然と考えるのです。
そのことは、決して間違いだとは思いません。しかし、その結果、立正佼成会に集まる人々に病人が多かったことも事実です。特に若者はほとんどと言っていいくらい、病人でした。病気の苦しみから解放されたいがために、信仰の道に入るのです。宗教の目的の一つが、人間の苦しみからの救いであるとすれば、これも仕方のないことなのかもしれません。
ところが、私が統一教会の青年たちに接してみて、驚いたのは、彼らは目先のことに関心がありませんでした。食べること、着ること、住むことに無関心です。かといって、従来の宗教のように現世利益を否定して、ひたすら来世での幸福を求めて、修道の生活に甘んじているわけでもありません。彼らは数こそ少ないのですが、若くて、健康で、かつ情熱的でした。彼らの目は輝き、口から出る言葉は、日本とか世界のことばかりです。目先の利益と日本や世界あるいは将来の利益を求める違いをまざまざと感じました。佼成会に集っていた病気で苦しむ青年の多くと比べて、私は佼成会の御利益宗教的な現実を認めないわけにはいかなくなりました。
庭野会長の偉大さ
会長への報告を通して、私は庭野会長の偉大さを改めて知らされました。会長は、私の率直な報告をすべて熱心に聞いてくださり、素直に感動してくださるのです。巨大宗教団体の教祖が、ほかの宗教の教理やそこに集う信者をほめる言葉を聞くのは、あまり気持ちがいいものではありません。それも自分の教団の会長秘書の口から聞くのですから、内心穏やかならざるのが普通でしょう。
しかし、庭野会長の心には、こだわりがありませんでした。いいものはいい。純真で思いが一途なのです。心に曇りがありません。佼成会のほかにいいものがあれば、それから学ぼうという姿勢が自然に取れるような方だったのです。私はそんな会長をかねがね大変尊敬していました。
会長は相撲や野球の観戦が大好きでした。相撲の時間になると、テレビの前に釘付けになります。私も秘書時代に、よく会長と一緒に相撲観戦をしました。力士が激しくぶつかり合うと、その世界の中に完全に没入してしまいます。ソファーの前のテーブルをつかんで、テレビの中の力士と一緒に相撲を取っているような様子でした。テーブルや椅子をガタガタ揺らすものですから大変です。本人はまったく気がついていないのです。
野球の観戦も大好きで、暇を見つけては後楽園に行きました。座席は決まってネット裏です。それもピッチャーが投げるボールの一直線上に位置する座席で野球を観戦するのが常でした。ピッチャーが投げる。バッターがカーンと打つ。その瞬間、会長の体もびくりと動くのです。まるで、自分がバッターになりきって一緒に球に向かっているかのようです。
庭野会長は、何事にも没頭できる方でした。無心で純粋な心があるからでしょう。仏教で教える没入無我の境地とはこういう世界かと、私はしばしば庭野会長を通して悟らされました。
佼成会の青年が修練会に参加
私が、統一原理を聞き始めていたころ、日本の統一教会を指導していたのは、一人の韓国人でした。日本名を西川勝と言います。彼は昭和三十三(一九五八)年に統一教会の教祖文鮮明師の命を受けて、韓国から日本に密航してきました。日韓基本条約が結ばれたのが昭和四十(一九六五)年のことでしたので、当時はまだ日本と韓国との間には正式な外交関係がありませんでした。この密入国はばれてしまい、彼は大村収容所にしばらく収監されていました。彼はそこを決死の覚悟で抜け出して、ひそかに伝道活動を展開していたのです。
統一教会に通い始めて少したったころ、西川先生は私を呼び出して、庭野会長に会わせてくれと頼んできました。とっさに、私は「とんでもない」と思いました。当時、立正佼成会は破竹の勢いで会員数を拡大していました。公称三百万とも五百万ともいわれた巨大教団のトップに立っていたのが、庭野会長です。一方、当時の統一教会は、十人に満たない弱小教会です。いくらなんでも、格が違いすぎますし、忙しいスケジュールに追われている会長が応じるはずがないと思ったのです。
西川先生の熱心な申し出を断るわけにもいかず、私はおそるおそる庭野会長にその旨を申し上げました。会長はしばらく間をおいて、じっと考えたすえ、「会ってもいいよ」と答えられました。
佼成会本部の会長室に招かれた西川先生が、庭野会長に何を話すのか私は興味津々でした。日本仏教界の大物を前にして、新興キリスト教の青年宣教師が教学論争でも仕掛けるのだろうか。それとも単に親睦を深めようという外交辞令的な交流で終わるのか。西川先生を庭野会長に紹介した後、西川先生の口から発せられた言葉に、私は腰が抜けるほど驚いてしまいました。
西川先生は、簡単な挨拶をした後、おもむろにこう切り出しました。
「統一教会は、理想社会、理想世界を目指した宗教です。統一原理という教えを根幹にして、宗教と科学の統一、諸宗教の統一を唱えています。さらにこの原理によって若者を教育し、改造することができます。薮から棒で恐縮ですが、会長先生の率いられる佼成会の青年の中で将来性のある若者を四十日間、私に預けてください。私のところで修行を積ませ、四十日後に立派な青年にして、会長先生の所にお返しいたします」
西川先生の要請は、私もその時初めて聞いたものでした。よく考えてみれば、ずいぶん失礼な話です。初めて会う教団の最高指導者に対して、あなたのところの青年をあなたに代わって私が教育してあげましょうと言うのです。それも仏教の教団の青年に対してキリスト教の理念で教育するのです。庭野会長の逆鱗に触れてもおかしくないような話です。西川先生の申し出にも仰天しましたが、庭野会長の答えはそれ以上に私を驚かせました。
会長は、しばらく考えていました。西川先生も私も固唾をのんで、会長の返事を待っています。
「それは面白い話だ。では、早速人選をして、あなたの希望通り、あなたに預けますから、よろしく」
この一瞬は今から考えてみて、歴史的な瞬間でした。日本における統一教会の基礎が、この時点で形成されることになったと言っても決して言い過ぎではありません。
会長の言葉に私も驚きましたが、同時にほっと安堵の溜め息をもらしました。私がそれまで、統一教会について逐一会長に報告してきたことが、こうして報われたと思えたからです。それに私はこのころ、いずれ統一教会に行かなければならなくなるだろうと考えていた時期でした。ですから、将来私が行くことになる教会を、会長が正式に認めてくれたという意味で私は嬉しかったのです。
それにしても、庭野会長の度量の広さには、その時改めて感服しました。初めて会った名もない一介の青年宣教師の言葉を疑おうともせず、そのとんでもない要請をそのまま素直に受け入れる雅量は並のものではありません。単刀直入な西川先生の言葉に、何かしら心を動かされていたのかもしれません。
西川先生が帰った後、私と会長は早速人選に取りかかりました。会長の命令で、全国の優秀な青年を集めて、四十日間の修練が始まりました。当時統一教会はまだ七、八名を数える弱小教会でしたので、お金も会場もありません。これらのすべてを佼成会が提供してくれました。第一回の修練会には、約四十名から五十名参加しました。彼らが、四十日の修練会を終えると、燃えに燃えて全国の佼成会の支部に戻って行ったのです。
庭野会長ご子息の修練会参加
庭野会長と一緒に、四十日修練会の人選をしている時、会長から深刻な悩みを打ち明けられました。立正佼成会という巨大教団の頂点に立つ会長の大学生になるご子息が、親に反発し、宗教が嫌いだと言うのです。会長は長い間、妻子を郷里新潟に残して、ひたすら仏道の修行に挺身してきました。幼い子供たちは父親のいない生活を淋しく過ごしていたに違いありません。会長はそういう子供の現状に胸を痛めていました。何とか親の気持ちを理解できる素直な心に立ち直ってほしいと祈ってきたのでした。
会長は、私に統一教会の修練会に自分の息子を参加させたいと言い出しました。私に意見を求めてこられましたので、もちろん私は賛成しました。しかし、宗教嫌いで、親に反発している息子を修練会に参加するよう説得することはそう簡単なことではありません。会長は私に説得の応援を頼みながら、息子の後見役として一緒に参加してくれるようにお願いしてきたのでした。
このことは私にとっては、願ってもないことでした。会長の許可のもと、統一教会の修練会に堂々と参加できるのです。あまりにも、ことがうまく進み過ぎるので、薄気味悪く感ずるほどでした。私と私を取り巻く環境を導こうとする見えない無形の神の意志をはっきりと感じ始めるようになりました。
佼成会という巨大教団の発展。庭野日敬会長という信じられないほどの純真で謙虚な人格。そこに現れた統一教会の存在。体系だった統一原理。そしてその中における私の位置と使命。これらのことが、すべて一つの糸で結ばれているように思えてきたのです。私自身の人生も、私自身が知らなかっただけで、神の大きな意志の中で、予定された道を歩いて来たのかもしれません。そう思うと身震いするような緊張感を覚えました。
父親の説得も一応成功して、ご子息は何とか修練会に参加することになりました。四十日間の間、彼が日に日に変わっていくのが、私の目にもはっきり分かりました。統一原理を通して、神の存在を明確に知り、神の意志と摂理を理解するようになりました。そして、何よりも自分自身に宗教が必要であることをはっきり自覚したようでした。自己の宗教性に目覚めることによって、父への反発心が父の偉大さに対する尊敬心に変わっていったのです。
「親父の後は継がない、宗教は嫌いだ」と言い続けていた彼が、涙で過去を懺悔し、「父にすまなかった」と私に訴えてきました。修練会の終わりに近づいたころ、参加者全員が実践訓練として、街頭に出て路傍伝道する日がありました。メガホンを片手に、道行く人々に統一原理の教えを説くという訓練です。会長のご子息も大声を張り上げて、「統一原理によって、日本は立ち上がらなければならない」と訴えていました。声に張りがあり、目が輝き、生き生きと訴えるその姿は、以前父を恨んでいた同じ青年とは思えないほどでした。彼は生まれ変わったのです。
修練会も終わり、私は庭野会長に一部始終をそのまま全部報告しました。会長は夕食をとりながら、黙って私の報告を聞いていました。話が、彼の路傍演説の段になると、会長は箸をパタリと置き、「あれほど、親に反発し、宗教を毛嫌いしていた息子が、そんなどえらいことを本当に言ったのか。嘘だろ」と言い返しました。会長は自分の息子の変化を信じられなかったのです。
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