久保木修身回顧録「愛天 愛国 愛人」目次へ

立正佼成会から統一教会へ

佼成会信徒たちからの苦情

 庭野会長の命令により、全国から佼成会の将来を担う立派な青年が次々に統一教会の修練会に参加しました。一回の修練会にだいたい四十名から五十名の参加がありました。三回目の修練会を開いているころ、全国の佼成会から苦情がわき起こってきました。

 青年たちが四十日の修練会を終えて、それぞれの支部に帰っていきます。すると彼らは統一原理の教えの影響で、現場の支部長とぶつかってしまうという現象があちこちで起こってしまったのです。それまで、佼成会では自分の病気が治ったとか、家庭が幸せになったといった身近なことで、一喜一憂していました。ところが、修練会を終えた青年たちは、日本のこと世界のことを語り出します。彼らの中には、「自分たちが日本を救うのだ。佼成会のような偶像崇拝は必要ない」と言い出す者も出てきたりしたのです。彼らは佼成会の理念では駄目だと、何かにつけ支部長に盾突くようになりました。

 彼らの情熱に支部長たちはたじたじとなり、だんだんと異様な感じを抱き始めました。このままいったら、佼成会は潰れてしまう。青年たちは統一教会に行ってしまうのではないか。こんな不安が全国の支部長たちの胸によぎるようになったのです。

 その上、ご子息のことで統一教会にすっかり惚れ込んだのが庭野会長でした。会長は心の純真な方でしたから、事あるごとに教団幹部や外部のお客さんに、誰彼となく統一教会を褒めちぎるのです。そうなると複雑な問題が、信徒の間に生じるようになりました。信徒は皆庭野会長の教えを受けて、佼成会に入ってきたわけです。ところが、会長は自分の子供を統一教会に行かせ、そこで修行させて立ち直ったと自慢する。それなら、自分たちは何を信じていったらいいのか?こうした疑問が、統一教会に対する嫉妬と複雑に絡み合って、信徒たちの間に起こってきていたのです。


庭野会長のためらい

 全国の支部長をはじめとする信徒たちからの苦情の声が、とうとう庭野会長にも届くようになりました。初めのうちは、会長も超然とした態度で、支部長たちに対して、「お前たちのほうがこのことで自覚しなければならないことがたくさんあるのではないか」と逆にたしなめていました。しかし、統一原理を聞いた青年たちは、支部長の意見を無視して、逆に指導しようとするような傲慢な態度をとっているという報告が、全国から数多くあげられるに及んでは、さすがの会長も弱り果ててしまいました。よかれと思ってやったことが裏目に出てしまったと思い始めたのでした。

 私は会長から呼び出されて、「これはどうなっているんだ。話が違うじゃないか」と責められました。そうなると、全国の支部長たちの攻撃の矛先は当然私に向けられます。私に対する誹謗、中傷、陰口がいろいろなところでささやかれるようになりました。しかしそのころ、私の心にはすでに統一原理に対する確信が固まっていました。「佼成会には一生の御恩がある。しかし、自分はより高い次元の真理を学んでしまった。これからはこの宗教しかない」。

 統一原理を学ぶことによって、あまりにも多くの発見をしました。これからの私の人生に決して欠かしてはならないものであることを確信していました。うやむやだった罪の問題が明確になりました。また世界の方向や、日本の使命、そして私の役割等がリアルに迫ってくるようにもなりました。佼成会で修行したことは、決して無駄だったわけではありません。法華経を学んでいたおかげで、統一原理と比較対照することができたことは確かです。そのため統一原理の偉大さを悟ることができたのです。しかし、佼成会自体がもっと高次元に飛躍しなければならないと私は考えていました。私は、周りからいろいろ中傷、罵倒されても、また会長から責められても、たった一つの事だけを決意していました。それは庭野会長に統一原理を理解して頂くことでした。

 当時、庭野会長は新宗教連合会の理事長を兼ねていました。佼成会内部の統一教会をめぐる騒動はほかの教団にも知れるところとなり、庭野会長に忠告や警告が相次ぎました。文部省の宗教法人課からも、忠告の指令が出されたのです。日本の宗教界が大混乱するから、この辺で青年を統一教会に送るのをやめるようにというものでした。

 ここに至って、庭野会長自身が四面楚歌の状態になりました。佼成会の幹部から突き上げられ、ほかの教団からも警告され、文部省からも指令が出る始末です。会長は私を呼び出して、「この辺で、修練生を送るのはやめよう」と言ってきました。

 会長のその言葉を聞いたとき、会長秘書としての自分の立場を忘れ、激しい口調で会長に抗議しました。それは私が語ったというより、神によって語らされたようであったと思います。

 私はとっさに、以前庭野会長から教えられた釈尊の修行の話を思い出しました。釈尊が断食をしながら、真理を求めた話でした。「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」の精神で死を決意して、鬼の姿をして現れた帝釈天から真理を学ぶという内容です。この話を会長にお話しして、とにかく結論を出す前に、統一原理を最後まで聞いてくださるようにと訴えたのです。

 また、庭野会長がこの理念を受け入れれば、佼成会は世界の佼成会になれる。この偉大な真理の前に謙虚になってほしいと私は必死に訴えました。普段は温厚で、笑顔を絶やしたことのない会長でしたが、その時は深刻な表情で私の言葉に黙って耳を澄ませていました。

 「久保木君、そんなことを言って俺を責めてくれるな。お前の気持ちはよく分かる。君は辞めようと思えば、いつでも佼成会を辞められる。しかし、俺は三百万の佼成会の会員の長として全国につながりを持っている身だ。君の言うとおりにしたら、全国の会員はどうなる。それを考えると、身動きがとれないじゃないか」

 私はなおもしつこく会長に迫りました。「先生、真理を求める人が、そんな態度でいいんですか?」。神が準備した庭野会長と立正佼成会。それをそう簡単にあきらめることはできないという心情でした。会長は迫る私を制して、「そんなことを言ってくれるな。君だけが佼成会を辞めていくのはいい……」と言って私たちの会話を中断しました。

 庭野会長には、佼成会の会長という越えられない壁がありました。自分が統一原理を学び、それを受け入れるということは、自分が作った教団を潰し、全国の会員を見捨てることになると思っていたのです。それに、法華経で宗教統一を行うために、これまで苦労してきたのに、急にキリスト教に変わることができるはずがないという気持ちだったのです。

 少年のように、純真な心を持っておられた会長でしたが、最後の大きな壁を越えることができませんでした。統一原理を受け入れることが、教団の現状の問題点を打開し、さらなる跳躍への大きなステップになるのだということがどうしても理解できなかったのです。

 私は、住み慣れた佼成会を辞めざるをえなくなりました。「会長先生、長い間お世話になりました。これまでの御恩は決して忘れません」。こう会長に言い残して、十三年間私を育ててくれた佼成会を去ることになったのです。


家族の信頼

 こうして佼成会を飛び出して、統一教会に行くまで、私自身もずいぶん辛い思いをしましたが、私の家族は私以上に苦しんでいました。

 当時、私の両親は共に熱心な佼成会の信者でした。父は以前勤めていた建築会社を辞め、立正佼成会本部の経理の仕事を手伝っていましたし、母は佼成会の支部長として活躍していました。また親戚の多くも佼成会に入信していました。私が熱心に布教したからです。まさに、一家をあげて信心していたのでした。

 ですから、私が佼成会の会長秘書という立場で、最も尊敬すべき方のおそばでお役に立っているということは、親族一同の誇りだったのです。また、私の家内も母が支部長でしたので、我々夫婦と親族は佼成会の中では、模範的な一族として注目され、称賛されていました。

 ところが、この統一教会問題で佼成会幹部のすべての非難が私に向けられました。私自身は、統一原理を知り、統一原理によって佼成会を再建しようと燃えていましたから、いくら非難を受けても、それを宗教的迫害として受け止めることができました。ところが家族はそうはいきません。私が何を学び、何を考え、何をしようとしているのかまったく見当がつかないのです。私に向けられた白い目は、当然家族にも及びます。私を信じたい気持ちを持ちながらも、何がなんだか分からない戸惑いがあったのです。ことに家内がそうでした。

 家内は、私の母が支部長であるために、息子の件でとりわけ辛い立場にあることを知っていました。ある時、彼女は私に向かって、「あなたは親不孝だ」と詰め寄ってきました。私は、「今は一見、親不孝に見えるかもしれないが、いつかきっと分かってくれる時がある。私はむしろ、親のためを思って、統一原理を学んでいるのだ。霊界はある。永遠なる霊界に行けば、必ず分かってもらえる。永遠の次元で考えれば、むしろ私の選択は喜んで感謝してもらえるはずだ」と答えました。これは私の偽らざる気持ちでした。私は今この瞬間に両親を喜ばせるよりは、永遠の次元で両親とともに喜べる世界で暮らしたいと心底思っていたのです。

 妻や両親が苦しむ姿を見るのは、自分が非難される以上に辛いものです。心が引き裂かれるような日々でした。しかし、この時点では、私の心に迷いはありませんでした。妻や両親に対する私の愛情に何の変化もありません。私は自分の心で確信する義の道に従う決意ができていました。一時の安逸のために、永遠の義を失うことは、私自身の死であるだけでなく、家族の死すらも意味するように思えたのです。私の家族に対する愛に偽りがなければ、私の行こうとする義の道を必ず理解してもらえると確信していました。

 この統一原理を知ってしまった以上、もう誰が何と言おうと後に引くことはできません。ここに至るためのこれまでの私の苦労を無駄にすることは、決してできなかったのです。それに私は、あの純粋な統一教会の青年たちを見捨てることができませんでした。神が本当におられるならば、この日本を必ず救おうとされるはずです。その時、数こそ少ないとはいえ、この献身的な青年たちに神は期待されているに違いありません。この一握りの青年たちこそ、日本救済のために神が蒔いた種なのだと私は確信するようになっていました。

 庭野会長に辞表を出したのは、私が三十一歳の時です。私たち夫婦にはもうじき三人目の子供が誕生しようとしている矢先でした。佼成会では、将来を嘱望され、何不自由なく、誰からも羨まれる立場にいました。佼成会選出の国会議員の候補にもあげられました。なのに何故統一教会なんかに行くのか。これが家族の者たちの気持ちでした。

 私は詰め寄る妻にほとんど説明らしい説明をしませんでした。「私を信頼してくれ。これまで一緒になって七年間、お前に対して不審を抱かせることを一度でもしたか。とにかく私を信じて、黙って三年間は見守っていてほしい」。私はただこう話しました。

 家内はいろいろな不安や心配がありながらも、私を信頼してくれました。私の決意と確信が強いゆえに、私を信じるしか選択の余地がなかったのです。両親も修己がそれだけ言うには、何かあるのだろうと思ったようです。特に、母は私のことを神仏のお役に立たなければならない子供に違いないと思っていたので、私を責めることは決してありませんでした。私の決断を何か意味あるものととらえていたのです。母は息子の件で責任を取って、支部長を辞めましたが、私を心から信頼していました。

 父も佼成会の信仰を持つようになって以来、今日わが身があるのは神仏のおかげだと実感していました。そして統一教会のことを私から聞いてみて、驚いたことがあります。韓国の統一教会本部(旧本部)は、父が朝鮮で下宿していた家のすぐ隣だったのです。父は、自らの朝鮮での人生の出発点と息子の新しい人生を方向づけた統一教会が期せずして同じ所にあったことを知って、何かそこにただならぬ因縁を感じていました。


長男の喘息

 立正佼成会の会長秘書の立場を蹴って、私が統一教会に飛び込んで以来、家内にはずいぶん苦労をかけました。年老いた私の両親と二人の子供、それにお腹にいる子供の面倒をすべて家内が見てくれたのです。家内は「三年間は黙って見守ってほしい」という私の言葉をとにかく信じてくれました。

 そのころ、佼成会を辞めた私にあらぬ噂も立ち始めました。「秘書を首になったようだ」というものから、ひどいものは「女狂いが原因で辞めさせられたんだ」という噂まで立ちました。「子供の姿は親の姿」と説く佼成会の信者の中には、私の問題を両親のせいにして、非難し罵倒するものもいました。

 家内の親は心配のあまり、「まだ、あなたも若いんだから離婚して、新しい人生を探したらどうか」と言い出す始末です。家内はそういう言葉を振り切って、両親や親戚に心配かけまいとして、強気で「大丈夫。大丈夫」と言っていたようです。しかし心では泣いていたのです。

 そうした地獄のような環境の中で、さらに深刻な問題が家庭に起こっていました。悪いときには悪いことが重なるものです。長男は小児喘息で苦しんでいました。私たちの家庭が統一教会騒動で騒然としているころ、長男の喘息は日増しに重くなっていったのです。喘息の発作が続き、子供も家内も眠れない日が多くなっていました。

 家内が、私の言葉を信じてみようと思い始めたのは、子供の病気の問題もかなり影響していました。「そんなに素晴らしい神様ならば、それを信じてみよう。もしかしたら子供の喘息が治るかもしれない」という期待が多分にあったのです。家内は藁をもすがる思いでいたようです。

 ところが、私が佼成会を辞めて、統一教会の活動に専従するようになって、長男の病気は治るどころか、ますます悪くなっていきました。そのころ、私は家にもほとんど帰らず、朝から晩まで教会活動に専念していました。一カ月に一度帰ればいいほうでした。ところが、どういうわけか、私が家に帰ったその日に限って、長男は発作で苦しむのです。

 家内はそういう長男の姿を見ながら、統一教会の神様はよくないと言って詰め寄ってきます。「早く佼成会に帰ってきてください。このままでは先祖も肩身の狭い思いをしているはずです。それに、このままではこの子の病気も、ひどくなる一方です」と責めます。私は張り裂けるような胸の痛みを感じながらも、「いつか分かってくれる時がきっと来る。がんばってくれ」と言うしかありませんでした。子供と家内の手の上に私の手を重ねて、私は神にお祈りをして、また教会に戻るのです。こういうことが何回も続きました。

 家内は両親や子供たちの面倒を見ながら、なおかつ生活費まで自分で稼いでくれました。私は統一教会で、新しい人生の出発のため、伝道活動や廃品回収の修行生活をしていましたので、まともな収入はありません。家内は、子供を養育しながら、家計を維持するために、無我夢中で働いたのです。後で、聞いたことですが、「今まであまりにも幸せだった。このままの人生で終わるはずがない。今がその苦労の時だ。がんばらなければ」と自分自身に言い聞かせながら、張りつめた気持ちで生活していました。そう思わなければ、辛さのゆえに自分自身が押し潰されてしまいそうな気がしたそうです。



魂の声に導かれて

廃品回収の日々

 私が統一教会に出会ったころは、十人にも満たない人数でした。しかし、佼成会の優秀な青年たちが四十日の修練会に続けざまに参加したので、一挙に数十人に膨れ上がりました。佼成会から私とともに統一教会に飛び込んできた青年たちによって、統一教会は新しい段階に入ったのです。

 そのころの教会活動と言えば、廃品回収、いわゆる「くず屋」です。それと路傍伝道でした。伝道活動にはお金が必要です。かと言って、みんなが就職したりアルバイトをすれば、伝道する時間がありません。それで、自由な時間に働いて、自由な時間に伝道するには、「くず屋」が一番でした。

 それに、統一教会の教えの中に、「神の摂理は、再創造である」という教理があります。人々が捨てたものを通して、世界と人間を再創造するということです。神のもとを離れて堕落した人間は神から捨てられた存在です。その人間が、再び神のもとに帰る過程を「再創造」と呼び、「摂理」と言います。つまり、捨てられたゴミで、捨てられた人間を再創造するという意味づけをしながら、廃品回収に励んでいました。

 朝は六時に起きて、七時まで礼拝をします。その後簡単な朝食を済ませて、廃品回収に向かうのです。リヤカーを引きながら、町の隅々を回りました。一時か二時ごろには、みんな汗だくになって仕切り屋に集まります。一人千円かせいぜい二千円の稼ぎでした。その後、みんなで昼食を食べ、夕方から路傍伝道を行います。夜は、訪問伝道に向かったり、統一原理の講義をしたり、あるいは来教者と話をしたりという生活です。

 夜遅く一日のスケジュールが終わると、すっかり疲れ果ててしまいます。しかし、不思議と気分は爽快でした。教会での睡眠時間は、三、四時間でしたが、朝目が覚めると、新しい生気が蘇ってきます。一日の仕事が終わると、死んだ者のように眠りこけます。翌朝、再び蘇るといった感じでした。「あすのことはあす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である」とキリストの言葉にある通り、まさに一日一日が死んでまた生きるという生活なのです。

 神の道を選択したという確信が私の力の源泉でした。良心に逆らって生きることは疲れます。良心の命令を妨げるものがなければ、肉体は疲れても精神は健康でいられるものです。リヤカーを引きながらも、私たちは未来を見つめ、理想を語り合ってきました。客観的には、将来の何の保障もありませんでしたが、天の確かな「約束」を一人一人が心の深いところで確信していました。

 未来の天の「約束」を私たちの間で、疑う者はいませんでした。ですから、ぼろ屋に住んでも、耳パンをかじっても、みすぼらしい服を着ても、そして「くず屋」をやっても、まったく気にかけてはいませんでした。むしろそれらを天の誇りとして、喜々として日々の生活を送っていました。私たちの心の中には天国は実現していたのです。


神の啓示を受ける

 私が、佼成会時代には経験したことのないこうした生活に甘んずることができたのは、統一原理の理念の素晴らしさに感動し、そこにいる青年たちの真摯な姿に打たれたからだけではありません。それだけで、私を立ち直らせてくれた佼成会を捨て、国会議員になる道を放棄し、家族をもほとんど見捨てるような人生の選択ができるわけがありません。

 統一原理そのものは、あくまで体系化された神学理論です。これまでのキリスト教が解き明かし得なかった数多くの神学論争に決着をつけています。しかし、その理論をいくら学んでも、所詮は理論なのです。統一原理が教える中心眼目は、「神の実在」であり、「神と人間との関係は親子の関係である」ということです。これは理屈で説明しきれるものではありません。

 統一原理が神を親と説いているならば、私と親である神との生きた生々しい出会いの体験がなければ、意味がないのです。神の実在性を高邁な理論で説明されても、キリストに働く神の愛について説明を受けても、あるいはまた歴史を導いた神を知っても、私自身に働く神と出会わなければ、私と神との関係は真に親子の関係とはならないのです。統一原理は、精密な論理体系を持っていますが、それはあくまで論理を超えたものに出会うための方便に過ぎません。統一原理を学ぶ目的は、神との全人格的な出会いの体験にあります。

 真理を体得する方法は、知的アプローチに偏っては困難です。意的、情的アプローチが必要です。伝道活動、祈祷などあらゆる実践を通して、「これが真理だ」と実感するものなのです。知は情に至る道筋を示す働きに過ぎないからです。

 私自身、統一原理の正しさを確信していたとしても、それはあくまで知的なものでした。神の存在を頭では知っています。しかし、どこか物足りない。中国残留孤児が実の親の写真を見せられて、これがお前の親だと説明を受けているようなものでした。「へぇ、それが神か」という感じです。頭ではなく、心で感じたい。そんな欲求が学べば学ぶほど出てくるのは当然のことでした。

 こうした気持ちが、強い欲求として私の中にわき起こってきていたころ、私は四十日の修練を終えた青年たちと山に登って、祈祷をすることにしたのです。時は一月の半ば、一年のうちで寒気が最も厳しい季節でした。私は、山に登って祈るに際して、ひそかに期するものがありました。統一原理の教えが本物であるかどうかを神に問うてみたい。さらにまた、生きた神との出会いを実感し、私自身に対して願われる神の意志を知りたいというものでした。

 私は神からその解答を与えられるまでは、幾日でも祈り続けようと決意していました。さらに断食を始めました。「断食して、真剣に祈れば分からないことがない」と言われた文鮮明先生の言葉を、先輩から聞いたことがあったからです。悲壮なる決意をして、私は山に登って行きました。

 場所は、厚木の大山という所です。一日目、真剣に祈りましたが、何の変化も反応もありませんでした。二日目、さらに高い場所で祈りましたが、やはり変化なし。疲労と睡魔と寒気が襲う中で、全身の力を振り絞りながら祈りました。

 断食五日目。私と五日間付き合った五、六人の青年も、寒さと疲れで山を下りてしまいました。私はたった一人で、文字どおり神と一対一で対面することになったのです。何かをつかみ取るまでは、たとえ死んでも山を下りるまいと自分に言い聞かせながら、祈っていました。空腹と不眠で疲労が極限に達していました。数人で祈っていたときには感じなかった極度の不安と恐怖心が襲ってきます。その不安を断ち切るかのように、祈りの声は大きくなります。ほとんど絶叫と言っていいほどです。一月の山の頂上付近の寒気にもかかわらず、全身が汗だくになってきました。

 その時、突然不思議な体験をしました。何か強い力が私を引っ張ろうとするのです。「こっちへ来い、こっちへ来い」と声がします。その声は、私の心の奥底から聞こえてくるような声でもあり、宇宙の果てから響きわたるような声でもありました。その不思議な声に誘われて、私はさらに高い山の頂上へと登っていきました。山頂に着くと、腰掛けて祈るのに格好の場所がありました。そこに座ろうとすると、急に「ここでは靴を脱げ」という声がします。私自身の思いなのか、別の何ものか、あるいは神なのか。私は命じられたまま、靴を脱ぎその場で祈りを続けました。

 二時間ほども祈ったでしょうか。先ほどの不思議な体験の後、何の現象もなく、変化もありません。断食して真剣に祈れば、分からないことがないという文先生の言葉を思い出しました。しかし、ほとんど解答のないままに五日間が過ぎようとしています。私の心には徐々に失望の念が生じ始めました。もう限界だ。自分には宗教家の素地はないのかもしれない。宗教家になるのは辞めて、商売でもやろうか。こんな思いが次々に襲ってきました。

 山を下りようかと思い始めたその瞬間、目の前の空が急に赤く焼けただれたかと思うと、それはやがて紅蓮の色に変わり、ぐるぐる輪を描いて私に迫ってくるのです。恐怖のあまり、私は叫び声をあげようとしましたが、どうしたわけか口が開きません。目の錯覚か、あるいは幻覚か、それとも霊現象なのか。

 紅蓮色の輪は、やがて白金色に変わり、その輪が煙のように広がり、それが吸い込まれるかのように私の口の中に入ってきました。思わず私は「わぁー!!」と叫んでいました。するとその声は前の岩にはねかえって、ピィーという甲高い金属音になって返ってきます。いったい何が起こっているのか、見当もつきませんでした。私は恐怖に震え、自分を維持するのに精いっぱいでした。精神に異常が生じたのではないかと一瞬思ったほどです。この世のものとは思えない、すさまじい光景が次々に展開していきました。

 次の瞬間大地が鳴動し、私は座ったまま大地にたたきつけられ、そのまま横倒しになってしまいました。すると、どこからともなく、先ほどの声が威厳のある太い声で響いてきました。

 「お前は、この信仰の道を最後まで全うする気持ちはあるのか?」

 「はい、あります」

 「それが本気なら、こんな所でぐずぐずするな。すぐ山を下りて、早く真理の道を人々に宣べ伝えよ」

 この声を聞いて、つい「一人では無理です」という言葉が口から出てしまいました。本音が出てしまったのです。威厳ある声の持ち主は、「一人で何でもやろうとするから迷いが生ずる。私がいつも一緒にいることを忘れてはいけない」と言われるのです。このような会話が何時間も、何日も続いたように思われました。実際には、おそらく五、六分だったのでしょう。時間の意識を完全に失った不思議な体験でした。

 神の存在を疑う人は、私のこの体験を一種の幻覚とあざ笑うかもしれません。しかし、体験した私にとっては、神を求めた末での真実の魂の声であり、それはまさしく神の声でありました。宇宙の果てから、世界と歴史を鳥瞰しておられる遠い神ではなく、私の一挙手一投足を見守ってくれていた真実の神が存在していることを出会いの中で確信することができました。私は私に働く神を捕まえることができたのです。

 断食や不眠の疲れは嘘のようです。身も心も軽く、私は一目散に山を駆け下りました。神と出会った聖なる気持ちをずっと維持するため、下山する時まっすぐ前方だけを睨んでいました。横目をすれば、心が汚れるように思ったのです。「心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう」と言われたキリストの言葉を思い出していました。

 山を下りたその日は二月三日、奇しくも私の誕生日でした。私はその日を私自身が神の懐で生まれた日として、決して忘れまいぞと決意しました。その日以来、私の中でもやもやしていた問題がすっきりしたのです。佼成会の問題、家族・親族の問題。行かなければならない道は分かっていても、あまりにも障害が大きすぎて、迷いがなかったと言えば嘘になります。しかし、神の示す道にまっすぐに進むことが、天命とはっきりと理解できました。頭ではなく、心で理解できたのです。


妻の入信

 厚木の大山での霊的体験で私の行くべき道に、迷いはなくなりました。しかし、家内は私の体験を知りません。ただ、私という人間を信じて、私に代わって子供たちと両親の面倒を見てくれていました。長男の喘息はますます悪化していきました。小学校四年生の時には、二学期の終わりに入院して、三学期は一日も学校に行けないほどの長期入院でした。

 家内が統一教会に入信することになるきっかけは、昭和四十(一九六五)年に訪れました。その年の七月に文先生が、統一教会を設立して以来、初めて日本を訪問されたのです。かねがね、家内を統一教会に導く機会をうかがっていた私にとって、文先生のご来日は願ってもないチャンスでした。

 教会婦人部の集会で、文先生のお話があるということでしたので、さっそく家内に電話して、参加するように説得しました。家内は仕事があると言って初め断りましたが、私の並々ならぬ気配を感じ、しぶしぶ参加したそうです。家内はそのころ、まだ統一原理をまともに聞いてはいませんでした。私の口から断片的に聞いていた程度で、ほとんど理解していない状態です。まして、文先生の価値などまるで分からないままに、翌日の婦人部の集会に参加することになりました。

 文先生の話が終わって、帰ろうとすると、一人の女性が家内を文先生の所に連れていき、紹介してくれました。その時の文先生の様子は、終始にこやかな雰囲気で、家内をずーっと昔から知っていた人のような親しみを込めて、接してくれたようでした。家内はその時のことを、こう話しています。「自分というものがどこかへ飛んで行ってしまったような気持ちでした。言葉や文字でどう表現してよいか分からないというのが正直な感想です」と。

 文先生は家内に、「この道は奥さんも共に来なければならない道なのですよ」と言われたそうです。家内は「はい、分かりました」と、思わず答えてしまいました。私が統一教会に飛び込んでしまって以来、苦労ばかりしてきた数年の歳月を思うと、恨みの一つや二つ出ても不思議ではありません。しかしその時、家内は文先生のその温かい雰囲気に触れて、すべてを包み込んでくださる何かを感じたようです。このお方は、自分のこれまでの苦労をすべて知っていてくれているということを直感したのです。自分でも驚くほど、素直な心で「はい」と返事をしてしまったと家内は言っていました。

 温かい感動的な雰囲気に、いつまでも酔いしれているわけにはいきません。家路に向かう道すがら、だんだん現実が見えてきました。「これは大変なことになってしまった。教会に行くことは不可能だ。喘息で苦しむ長男と二人の子供、それに年老いた両親がいる。なぜ、はいと言ってしまったのだろう」。夫とともに行くということは、当時の教会初期にあっては、夫と同じような献身(専従)生活をすることを意味していました。

 一人で家に帰った後、家内はその日一日あったことを包み隠さず私の両親に話しました。両親はびっくりしてしまいました。父は目をつぶって腕を組み、しばらく考え込んでしまったそうです。やがて父は静かに口を開き、耳を疑うようなことを言い出しました。「そうか、でもそれは文先生の言われる通りだ。たとえどんなに苦労しても、夫がしていることを妻も一緒にやってみようと思うなら行きなさい。子供たちは私たちが面倒見てあげる」。家内は、父や母が反対したなら、あきらめようと思っていました。ところが予想外の父の言葉に、何か不思議な神の意志を感じたのです。

 私が佼成会から統一教会に来た時、いろいろな障害がありながらも、神が定めたレールに身を置くことがまず必要だと感じたように、家内もまったく同じように感じていたのです。喘息の子供や両親のことなど、ある面では私以上に大きな障害が家内にはありました。表面的には私たち夫婦の行為は、子供や親を見捨てるような行動です。しかし、私たちが子供や両親を誰よりも愛していることは、天がご存じであるという気持ちだったのです。ならば、子供のことも両親のことも神にゆだねて、神の意志に従うことが最終的に子供や両親のためになると確信していました。愛情が薄かったからではなく、深いからこそ取った行動だったのです。

 そのことを私の両親が理解してくれたことは、何よりも大きな支えになりました。七月六日に家内が文先生にお会いして、八日には早くも千葉で行われた一週間の修練会に参加することになりました。一週間の期間、家内はずっと泣き通しだったそうです。講義を聞いては涙を流し、聖歌を歌っては涙を流す。お祈りをしても涙がこぼれてしまいます。

 私が統一教会に行くことになった本当の意味を、初めて理解することができたのです。講義を聞きながら、また祈りながら、私が「いつか必ず分かる時が来る。今は黙ってついてきてくれ」と言った言葉や、「親孝行のゆえにこの道を選んだのだ」と言った私の言葉が、鮮烈によみがえってきたそうです。「ああ、そうだったのか」。私の言葉や気持ちを理解できたことが嬉しくて、涙が止まらなかったと言っていました。

 統一原理の中に、「人間は皆一人一人が神の前に個性真理体である」という教えがあります。人間は神のそれぞれの個性を受け継いだ存在であるということです。それを「神の子」と言います。ですから、どんな存在も親なる神から見れば、子供であって、価値ある存在です。この地上に生を受けた限り、意味のない存在はない。一人一人が貴重で「唯一無二の存在」です。五十二億の人類がいても、誰も私に代わることはできないということです。

 家内はこの教えに大変感動して、私という存在は、ただ一人であって、ほかに代わりえないとすれば、私ができる精いっぱいのことをして、神のために人生を生きなければならないと自覚を新たにしたということです。


長男の喘息が奇跡的に回復

 そのころ、統一教会はまだ全国に数カ所、大都市にしかありませんでした。それで、開拓伝道を通して全国に教会を増やそうとしていました。開拓伝道というのは、一人かもしくは二人で教会のない都市に出かけて伝道します。そうして、そこに教会を立てていきます。特に夏季の四十日開拓伝道は統一教会の伝統行事でした。

 昭和四十(一九六五)年の夏も恒例の開拓伝道が始まりました。私の家内は一週間の修練会に参加したばかりでしたが、開拓伝道の命を受けました。任地は宮崎です。修練会から帰ってきて、三日後には東京を発たねばなりません。

 家内は神の示す道に従う決意はできていましたが、それでも長男のことが心配です。そのころ、長男はあまりにもひどい喘息のために肺機能がすっかり痛めつけられて、そこに結核菌がついて小児結核を併発していました。ろうそくのように痩せ細り、医者からは「もう駄目かもしれない。好きなようにさせてあげなさい」と言われ、入院先から帰されてきたばかりでした。肩を大きく上げ下げして苦しい呼吸をしていました。いわば死の宣告を受けたようなものだったのです。この子を置いて、四十日もの長期間家を空けられるのだろうか。家内はたまらない気持ちに襲われたそうです。

 私の両親は、家内に「仕方がない。行ってきなさい」と言ってくれました。しかし、長男はさすがに、目に大きな涙をポロポロといっぱい浮かべて、家内に「行かないで」とすがりついてきました。家内は泣きすがる長男にこう言って聞かせたそうです。「ママは神様のために開拓伝道というところに行かなくてはいけないのよ。だからわがまま言わないでね。おじいちゃん、おばあちゃんの言うことをよく聞いて、ママのためにお祈りしてちょうだい。これからママは一銭もお金を持たずに寝る場所もない所に行くんだから」。こう長男を諭しながらも、家内は心で泣いていたそうです。

 家内は後ろ髪を引かれる思いで、宮崎に発っていきました。その時、こう祈って出かけたそうです。

 「私は今日までこの子の病気を何とか早く治してやりたい一心で、ありとあらゆることをやってきたつもりです。でも治りませんでした。親でも子供の命をどうすることもできません。今日、私はこの子をあなたの御手に委ねて、あなたの命令に従って宮崎に参ります。四十日の間にたとえこの子が天に召されたとしても悔いはありません」

 宮崎での開拓伝道は、炎天下の中、まず住む場所を探すことから始め、三日間は公園のベンチなどで泊まっていたようです。四日目にようやく家が決まり、次には廃品回収屋を探します。当時、廃品回収も統一教会の伝統的活動となっていました。すべての統一教会員は当時、どこへ行っても一日のうちの半分は廃品回収をして伝道資金を稼いでいました。そして、夕方は路傍伝道に精を出します。

 こうした生活を続けながら、約三週間が過ぎたころ、宮崎の家内のもとに一通の葉書が届きました。長男が出したものでした。内容は、「ママが開拓伝道に行ってから、僕の発作は一度も起きなくなりました」と書いてありました。家内は、それを読んで、神の存在を確信したそうです。「神は生きて働いてくださっていた」。本当にそのことが嬉しくて、一緒に開拓に行っていた先輩と抱き合って泣き明かしたということを後で聞きました。

 その後、私の父も家内に手紙を書いたそうです。「あなたが出て行ってから、克昌(長男)は元気で、一度も発作が出ず、この間は河口湖に連れていきましたが、大丈夫でした」と書いてありました。

 聖書にイスラエル民族の先祖アブラハムのイサク献祭の話があります。イサクはアブラハムが老齢になってからようやく生まれた一人子です。その子供を、神はアブラハムにささげよと命じます。アブラハムは愛するわが子すら神の命とあらば、ささげる決心をします。ささげるということは、イスラエルの伝統として二つに裂くことを意味します。アブラハムはイサクの手を引き、山に登り祈りをささげ、台の上に子供を横たえ、斧を振り上げ、子供を裂こうとする瞬間、神の使いが天から降りてきて、アブラハムを制止して言います。「わらべに手をかけてはならない。あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った」。

 アブラハムは愛するわが子すらも、神のために惜しまないほどの信仰のゆえにイスラエル民族の信仰の祖として尊敬されています。一番大切なものを神にささげることで、神からもっと大きな恵みを受けることができるのです。家内も私も、長男の姿を通して、イサク献祭は昔の話ではなく、今私たちに起こったことであることを悟りました。アブラハムを制止した同じ神は、時の流れを超えて、今私たちの息子を守ってくれたのです。「死なんとする者は生き、生きんとする者は死なん」とはキリストの言葉ですが、この言葉が真実であることを私たちはリアルに体験することができました。


父の死

 私の父は、昭和四十五(一九七〇)年五月に脳卒中で倒れました。この時、私は教会の修練会に参加していて、電話で会場に連絡がありました。私はその修練会で責任ある立場で全体を指導していましたから、途中で抜け出すことはできません。公的な仕事を優先しながらも、心配でなりませんでした。はやる気持ちを抑えて、やっと修練会が終わるや、病院へ直行しました。

 一瞬遅く、父は私が着く直前に息を引き取りました。呆然として、父の顔をじっと見ていましたら、驚くべきことに父の呼吸がかすかに動き始めたのです。医者も駆けつけました。意識もはっきりと戻りました。私は父の手を握り、「お父さん、修己です。遅れて申し訳ありません」とだけ告げました。自然と涙がこぼれてきます。父は、「よく来たね」とだけ言って、スーッと息を引き取り、とうとう帰らぬ人になってしまいました。六十七歳でした。

 この父が、実は死ぬ一週間ほど前に文先生に手紙を出していたのです。このことは誰も知りませんでした。死んだ後、父の遺品を片づけていた時、その手紙の写しが父の机の引き出しに置いてあったのです。それを発見した時は本当に驚きました。

 思えば、父は非常に律義で几帳面な性格でした。私の誕生日の日には、必ず私を床の間を背に座らせ、「よくこの一年間生きてくれました」と言って、深々と頭を下げるのです。そして「早く航空少年隊に入って、お国のために命をささげなさい」というようなことを幼い私に向かって話していました。こんなことが中学一年生の時まで続いていました。私はそんな時、どうしていいか分からないで、床の間で落ちつきなくもじもじしながら、座っていたのを記憶しています。

 こんな律義な父ですから、息子が世話になっている文先生に手紙の一つでも書かなければならないと考えたのでしょう。手紙の内容はこうです。

 「私、久保木修己の父仙蔵であります。親子二代にわたってご当地韓国という地から、人生の新しい教示を賜るということは、何と奇しき因縁でありましょう。愚息ではありますが、どうぞよろしくお願い申しあげます」

 父は韓国人に大変お世話になりました。そして息子もまた韓国人にお世話になっている。そしてまた父の住んでいた場所と韓国の統一教会本部が隣り合わせの所にあったことを知り、不思議な運命の巡り合わせを感じていました。

 父は統一原理も聞いていませんでしたし、文先生にもお会いしたことがありませんでした。しかし生来の律義な性格ゆえに、毛筆で何度も下書きをしながら、最初にして最後の手紙を文先生に差し上げていたのでした。

 後で聞いた話ですが、父からの手紙を読まれた文先生は、追いかけるように、私からの「父が亡くなりました」との電話に接して、もう一度父からの手紙をしみじみ読んでくださったとのことでした。父に何もしてあげられなかったことが悔やまれますが、こうして人生の最後の時に私が最も尊敬する文先生と因縁を結んで、あの世に旅立つことができたことがせめてもの慰めでした。



国際勝共連合の会長として

勝共運動始まる

 昭和四十三(一九六八)年四月に「国際勝共連合」が設立され、私が初代会長に就任しました。六〇年代の日本は、GNP(国民総生産)成長率が一〇パーセントを超える高度成長の時期でした。しかし、一方では六〇年の安保闘争を皮切りに、日本中が左翼運動に翻弄された時期でもありました。特にベトナム戦争が本格化することにより、アメリカで反戦運動の嵐が吹き荒れ、それに呼応する形で日本でも左翼運動が盛り上がっていきました。

 六七年当時は大学の学内ばかりか、街頭までも共産主義の学生たちに占拠されていました。同年秋には三派系全学連が佐藤首相の外遊を阻止しようと羽田に集結し、空港に突入しようとして機動隊と衝突、学生と警官の双方に多数の負傷者がでました。いわゆる羽田事件です。また成田闘争が激しくなり、角材をふりかざす学生が警官隊に襲いかかったりする事件が相次ぎました。学生運動は路線をめぐって分裂を繰り返し、そのたびごとに過激化していきました。

 こういう状況でしたので、心の中では学生運動を批判しながら、面と向かって間違っていると言う人はほとんどいませんでした。六七年には東京に美濃部革新都知事が誕生しており、共産党は「七〇年代に民主連合政権を樹立する」と豪語していましたので、公然と共産主義に反対することははばかられる状況だったのです。

 このままではいけないという私の思いは、やがて「このままでは日本は滅びる」という思いに高まってきました。ちょうどそのころ、こうした情勢を憂慮した国内外の有志が山梨県の本栖湖に集まり、「第一回アジア反共連盟結成準備会」が開かれました。日本一国にとどまらず、広くアジアの有志とともに反共・愛国の民族統一戦線を結成しようというわけでしたが、残念ながら「アジア反共連盟」は最終的な合意が得られず実現しませんでした。

 しかし、座しているわけにはいきません。このままでは日本は滅びるとの魂の叫びは高まるばかりです。こうして私たちは本栖湖会議の精神に基づき、翌六八年四月に故笹川良一先生に名誉会長になっていただき、国際勝共連合の結成を見たのです。

 当初は五百人ばかりの会員にすぎませんでしたが、七〇年革命を標榜する左翼・共産主義勢力に対して毅然として立ち上がることにし、まず会員全員が肩から「共産主義は間違っている」とのたすきをかけて街に出ました。そして黒板を立て、勝共理論の街頭講義を始めたのです。

 これにはさすがの共産主義者たちも驚きました。それまで公然と「共産主義は間違っている」などという人はおらず、しかも労働価値説や剰余価値論、あるいは弁証法的唯物論や唯物史観といった共産主義理論を説明したうえでその誤りを指摘するのですから、黒板の前は文字どおり黒山の人だかりとなりました。見物人どうしで論戦が始まったりして、ちょっとした街の名物になりました。

 私たちのこの街頭講義に論戦をふっかけてきた学生の中から、逆に勝共連合に加わる学生も出てきました。むろん、ただで済んだわけでなく、大学構内では過激派のゲバ棒で襲われ、負傷する会員も多数出て、まさに命がけの運動となりました。しかし、私たちの姿に勇気が出たとおっしゃって多くの有識者の方々が賛同してくださり、力づけられました。

 ちなみにその後、有識者の方々が「勝共運動を応援する会」をつくってくださいました。昭和六十二(一九八七)年には木内信胤先生が音頭をとって『私のみた勝共運動』を出版しようと呼びかけてくださったところ、実に七十人の各界有識者から一文が寄せられました。その中で鈴木一先生(元侍従次長)は「左翼学生たちと戦っていた勝共の人たちの徹底した活動に心打たれた」と述べておられます。多くの心ある人々が孤軍奮闘の私たちを温かく見守ってくださっていたわけです。


勝共運動の本質的意義

 勝共運動は、共産主義の脅威から、日本とアジア及び世界の平和と安全を守ろうという趣旨で始まりました。しかしながら、従来の反共運動と異なっている点がいくつかありました。

 一つは、共産主義に打ちかつことによって、共産主義世界をも救済し、人類一家族のような世界を実現しようという観点に立っていることです。つまり反共自体が目的ではないということです。反共はあくまで、人類が真の平和を実現するための、一手段に過ぎません。ゆえに共産主義世界が崩壊したとしても、理想世界が実現するまで、勝共運動は続きます。

 二つ目は、ゴッディズム(神主義)を基本理念としているという点です。つまり、このことは勝共運動自体が単なる政治運動ではないということを意味します。宗教的理念をベースにした社会啓蒙運動であり、国民教育運動でもあるのです。

 私たちは、共産主義の本質というものを、神への反逆の思想であると見ています。今から四、五百年前にイタリアを中心に起こったルネサンス運動に共産主義思想の誕生の根っこがあります。ルネサンスは、キリスト教会の抑圧を脱して人間の自由な創造性や躍動に身を任せようとする芸術家たちによって引き起こされました。教会の抑圧から逃れようとする人々の自己主張の爆発と言ってもいいと思います。これがフランスの啓蒙思想家たちによって受け継がれ、彼らは専制君主とキリスト教会を打倒するために立ち上がりました。これがフランス革命です。こうした流れの中で打ち立てられた思想がマルクスの共産主義でした。

 マルクスは憎悪をエネルギー源としながら、世の中を転覆させる理念を打ち立てたのです。唯物弁証法、唯物史観などがそれです。これらは無神論によって貫かれています。ルネサンス時代、芸術家たちは神に背を向け始めました。後期の啓蒙思想家たちは、積極的無神論者になり、マルクス以降はそれを理論として体系化して、レーニンは国家までも造り上げてしまいました。共産主義に至る近世の経緯を概観すると、このようになります。

 共産主義は、神と人間を断絶させ、神を葬り去ろうとした思想です。つまり神の敵であり、ゆえに人類の敵です。またすべての宗教者の敵です。神に背き、神に反逆することが罪であるならば、共産主義こそ罪が理論的装いを帯びて、人類の前に現れたものと言えるのです。

 ですから、共産主義と戦うということは、単に共産主義の誤謬やソ連・中国の脅威を訴えるだけでは終わりません。罪と闘う姿勢を持たなければならないということを意味します。罪の根源は自己の内面にありますから、自己の罪と闘うように共産主義と戦うのです。別な言い方をすると、自己の罪と闘う姿勢を持たない人間は、共産主義と戦えないということです。

 だからと言って、勝共運動を狭い宗教的運動に閉じこめようということではありません。少なくとも、この運動を根元で支えている人たちには、そういうとらえ方が必要だということです。

 人類の内なる罪が未解決のまま、ただ共産主義の打倒に成功しても、形を変えた悪がまた再び頭をもたげてくることは、明らかであるからです。共産主義の崩壊が世界平和の実現に近づくかどうかは、これからの我々一人一人の内なる罪との闘いいかんによるはずです。これが私たちが主張するゴッディズム(神主義)の精神です。私が統一教会という宗教団体の会長としての立場でありながら、勝共連合の会長となった理由は以上の観点から理解していただけるのではないかと思います。

 文鮮明先生が、こんなふうに言っておられます。「問題の中で一番大きな問題は、私自身が絶え間のない戦場になっているという事実です。いかなる世界大戦よりももっと大きな問題は、私自身が戦場になっているという事実です」。

 これまで、多くの政治家や思想家たちが、世界平和の道筋を提示してきました。しかし、どれも実現が困難です。困難な理由は、知識が足りないからでも、根回しが難しいからでも、お金が足りないからでもありません。自分の内面の問題解決を図ろうとする姿勢に欠けていたせいではないでしょうか。

 共産主義世界が崩壊して、新しい世界秩序を誰もが期待しました。実際には、なかなか見えてきません。なぜでしょうか。問題の本質が見えていないからです。冷戦時代、人々は核戦争の脅威を感じ、終末を意識しました。しかし、冷戦崩壊により、さらに危機が深まったような気がします。秩序の崩壊と、価値観の混乱が進んでいるからです。

 人類は救いを求めています。そして、それは神を求める無言の叫びとなっているのです。時代の混乱は、人々がみな潜在意識の中で神を求めているのに、いまだ神が分からないことです。神の喪失こそ、人類の直面している根本的問題です。神を失うことで、本当の愛を失ってしまいました。神の喪失と愛の喪失。この二つが人類にとって、最も重要な二大要素であるのに、これらを見失っているところに人類の最大の不幸があるのです。

 ゆえに勝共運動の本質的意義は、これら二つを再発見することによって、世界の本当の平和を実現することに帰着するのです。


国際勝共連合の設立に携わった人々

笹川良一先生の思い出

 昭和四十三(一九六八)年の四月一日に国際勝共連合が設立され、私が勝共連合の会長となりました。発起人には、笹川良一先生や児玉誉士夫先生、岸信介元首相らに加わっていただきました。とりわけ、笹川先生には大変なご尽力をいただきました。私が名誉会長の就任をお願いしたときも快く引き受けていただいたのです。

 思い起こせば、笹川先生との出会いも劇的でした。六〇年代の初めごろ、私が佼成会を辞め、統一教会に専従し始めた直後だったと思います。廃品回収と路傍伝道に明け暮れる日々。そのころ徐々に教会員が増え始め、開拓伝道を開始することになりました。第一期の夏季四十日間開拓伝道です。単身かもしくは二人で、行きの電車賃だけを持って、任地におもむき伝道を行うのです。

 その時、徳島に配置されたのが阿部公子(旧姓一色)という女性でした。彼女は徳島の駅前で毎日路傍伝道をしていました。旗を立てて群衆に向かって演説をして、その後一人一人に話しかけていきます。彼女のそういう姿を物陰から毎日見ていた老人がいました。珍しい人がいるものだと感心しながら眺めていたそうです。

 ある大雨の日、今日はやらないだろうと思っていたら、何とずぶぬれになりながら、いつものように演説をしています。それを見て老人はびっくりしてしまいました。敗戦後の日本にもこんな若者がいる。これはすごい。老人は本当に感動したのです。

 戦時中、笹川先生は国粋大衆党の総裁でした。そして徳島のこの老人がその顧問をしていましたので、東京に出てきたときに笹川先生に偉い奴がいるということで話したのです。それを聞いた笹川先生は絶句して、「わしがいっぺん行ってみよう」ということになりました。これが笹川先生と我々との最初の出会いです。

 そのことが縁で、笹川先生とのお付き合いが始まりました。笹川先生は、私たちの統一原理の深い神学的内容を理解していたわけではありません。しかし、戦後日本の青年たちに見られなくなった、国を守ろうという気概を統一教会の青年たちに見いだしたのは確かです。

 先生は並外れた憂国の士でした。容共的に傾く世情に大変な危機感を持っていました。私が会いに行く時や何かの会合に参加する時、必ずといっていいほど、山口二矢の話をします。六〇年に社会党の浅沼委員長を刺した男です。当時彼は十七歳の少年でしたので、鑑別所に入れられて、そこで首吊り自殺をしてしまいました。笹川先生はこの山口二矢のお骨を持ち出し、この男のようになれと言い出すのです。「日本にはこういう男がいなくなったと思っていたが、君たちがいたなあ」と言って我々を激励してくれたりもしました。

 山口二矢の骨をどうして持っているかというと、彼のお父さんが自衛官で笹川先生に私淑していたそうです。そういうことで笹川先生にお骨を預けるようになったのです。

 こういうことからも分かるように笹川先生という方は、不思議な人物でした。その不思議な人格が一部の人々には魅力と映り、またほかの人には変人と映るのです。いずれにしても彼の内面には、深い憂国の情があったことは間違いありません。日本の将来を憂うるという点で、私たちと強い接点がありました。

 ただ、私どもが勝共連合を設立するにあたり、また運動を推進するにあたり、巷間言われているような金銭的な援助は笹川先生から一切受けませんでした。先生から受けた援助は埼玉県の戸田町(当時)にある戸田研修所を私たちの修練会に時々提供していただいたことです。この話を人にすると驚かれるのですが、本当です。勝共連合はものすごい援助を受けて、潤沢な資金源を持っているように見られていたからです。

 しかし、戸田研修所を提供していただいたことは、金銭を提供していただく以上の大きな貢献であったことは間違いないのです。ここで、私たちは長年青年教育を行うことができました。数多くの青年たちがこの研修所の修練会に参加して、日本を背負う気概を持って、巣立っていきました。このことはいくら感謝してもしきれるものではありません。

 笹川先生が勝共連合の名誉会長を退くことになったのは、全日本空手道連盟の仕事を熱心にされるようになってからです。世界で空手の大会をやる時、共産圏の国からもたくさん選手が参加する。その時に自分がある一つの思想体系に偏ってはいけないということを電話で言ってこられました。

 率直に言って、このことは大変残念でした。笹川先生には勝共の旗を降ろしてほしくありませんでした。空手を通して世界の青年に勝共の啓蒙は可能なはずです。しかし、先生の固い決意の前には私の訴えも空しいものでした。もちろん、これで笹川先生との関係が切れてしまったわけではありません。名誉会長を退かれただけで、私たちとの友好的関係はその後もずっと続いていました。先日その笹川先生が突然他界されたことは、先生が日本と世界のために多大の貢献をしてこられただけに残念でなりません。


信念の政治家、岸信介元首相

 岸先生との出会いも、笹川先生と同じで開拓伝道がきっかけでした。六〇年代の中ごろ、太田郁恵(旧姓福井)さんが山口県に開拓伝道に行った時、「踊る宗教」の教祖に会ったのです。この教祖は、二十年以上も前から岸先生のことを「岸は必ず総理大臣になる」と予言していました。そうしたら本当になってしまいました。

 そのころ、統一教会の本部は渋谷区南平台にあって、実は岸先生のお宅の隣でした。それで太田郁恵さんがその教祖の紹介もあって、岸先生宅に通うようになりました。また当時、町内会での統一教会の評判はすこぶる良かったのです。岸先生宅で開かれた町内役員会で、統一教会の青年たちに対して絶賛の声が上がることもしばしばでした。活発明朗なこと、礼儀正しいことなど。それで町内会としてもこれらの立派な青年たちを助けたいということで、廃品回収に積極的に協力してくださることなどが町内会で話し合われていたのでした。

 南平台に移る前の統一教会は、どちらかと言うと近所の人からうさん臭く思われがちでしたが、そこに移ってからは様相が逆転しました。町内から愛される統一教会に変わっていたのです。そういうことも岸先生との関係を強くする要因であったと思います。

 昭和十一(一九三六)年に岸先生は商工省(現在の通産省)を辞めて、満州に渡りました。ちょうど私が満州の安東で幼年時代を過ごしていた時期です。岸先生は満州に夢を持っていました。満州の設計図は自分が書いたぐらいの自負心を持っていたと思います。

 高等文官試験(現在の上級公務員試験)をトップクラスで合格した先生は、誰もが内務省か、大蔵省に入るものと思っていました。それが政治家になる一番の近道だったからです。しかし、先生は、周囲の予想を裏切って、迷いなく農商務省商務局を選びました。今日の通産官僚です。岸先生は若い時から、日本の行くべき道を模索していました。これからの政治の実体は経済にあると見抜いていたのです。そういう考えから満州に夢を託すようになったのだと思います。

 岸先生はきわめて現実的な政治家ですが、常に夢を抱き続けていたように思います。私たちのような若い青年たちに接するのをとても喜んでいました。満州における夢は挫折したけれども、晩年に至るまで、日本に対する夢を持ち続けておられました。

 あるとき、何かの席で、私はこれからは中国大陸だと言ったら、岸先生はそれはまずいとすかさず言われました。あつものに懲りているのかもしれません。先生は「これからはニューギニアだよ」とおっしゃる。私が「中国大陸が無理なら、カナダの原野があるじゃないですか」と言うと、「いや、そこにはちゃんと国民が住んでいる。ニューギニアは『土人』だけだ。それ以外の所に行ったら、差し障りがある」ということでした。このように岸先生は、絶えず日本の進路を求めていたようです。老いてなお若しというのが、私が岸先生に会うときの印象でした。

 また岸先生は、信念の政治家でした。国家と国民にとって必要であるという確信を持てば、それに向かってあらゆる勢力を結集し、果敢に推し進めていく。六〇年の日米安保改定作業がその顕著な例です。

 当然敵も多い。しかし、一方では熱烈な信奉者も出てきます。先生は、常日ごろこう述べていました。「どんなに良い人物でも、何もしないのでは仕方がない。ワルでも使い道によっては役に立つ」と。

 岸先生にとって、大切なことは、政治家として何をなすかという明確な目標でした。政治家であることは、目標達成の手段に過ぎないのです。今日政治家の多くが政治家になること自体が目標となり、何をなすかという明確なビジョンを持ち合わせていないことは、寒心にたえないところです。

 あるとき、岸先生との雑談の中で、ある議員の話になりました。先生は彼を一度は総理にしてあげたい。しかし、させられないとおっしゃるのです。私がなぜですかと聞くと、「彼はあまりにも敵がなさ過ぎる。この難しい日本の舵取りをしていく総理としては、五〇、五〇の賛成・反対のある中で、行かなければならない。しかし、彼はあまりにも人が良すぎる」と言われました。

 私はこの話にいたく感動して、あるとき自民党の要職にある別の議員にその話をしたら、彼はびっくりしたような顔をして、「いや、岸先生はそういうことを言っていましたか」と言って、三度も私に聞き返してきました。彼の心に何か影響を与えたのでしょうか。私がその人に会って、岸先生のそういう話を伝えた直後に、彼は急速度に反骨精神をむき出しにするようになってきました。私の話が影響したかどうか分かりませんが、政局の推移を見守りながら、私もずいぶん心配していました。彼がわざと敵を五〇パーセント作っているとしたら、本末転倒だからです。私の言いたかったことは、何をなすかが大切だということだったのです。敵を作ることが目的ではありません。敵を作ることを恐れてはならないということを言いたかったのです。

 岸先生は、しばしば統一教会の本部や勝共連合の本部に足を運んでくださいました。隣同士のよしみということもあったのかもしれません。しかし、それはあくまできっかけに過ぎません。日本の現状を憂うる気持ちと日本の将来に対する夢において、先生と私たちには共有できる精神的連帯感がありました。

 今思えば、先生は大変懐の広い政治家でした。私たちは当時、まだ信者が数千人の弱小集団でありましたし、教祖が韓国人ということも一般の日本人にとってマイナスのイメージとなっていました。その上、世間からは「親泣かせ原理運動」というレッテルを貼られて、罵詈雑言を浴びせかけられていました。

 しかし、岸先生はそういうことには一切関心がありませんでした。世間の評価とかマスコミの情報というものがいかに薄っぺらなものであるかを自分自身がよくよく体験してこられていたのです。先生は自分の心に感じた真実を評価の基準に置いてくれました。世間が見る統一教会ではなく、先生の心に直接映る統一教会を見てくれたことが、私たち青年にとって大変ありがたいことでした。

 岸先生に懇意にしていただいたことが、勝共運動を飛躍させる大きなきっかけになったことは間違いありません。国内においても国外においてもそれは言えることです。

 統一教会の本部が南平台から現在の渋谷区松涛町に移ってからのことです。岸先生がこの松涛本部に来られたことがありました。韓国から国会議員数名と大学教授数名をお迎えした時でした。その時、韓国の国会議員も大学教授も驚いてしまいました。当時の統一教会本部は[しもた屋]みたいなところで、こんな所に天下の岸元首相が来る、ということに大変驚いたのです。

 韓国では岸首相は大変有名でした。六〇年に李承晩政権が倒れて、その翌年朴正煕氏が大統領に就任する時、真っ先に岸先生に礼儀を尽くしてこられました。「自分は軍人である。政治には不向きです。何もできません。従って、ベテランの岸先生にいろいろと教えを請いたい」と言ってきたそうです。これはとても有名な話で、韓国人は大概知っていることです。

 その岸先生が統一教会の本部に来て、一時間も二時間もニコニコしながら座って話を聞いているのを見て、韓国のお客さんたちは本当に驚いてしまったのです。これはたいした団体だという印象を与えたのです。またその時、私が司会をやって、親しげな口調で軽妙に岸先生のことを紹介したものですから、韓国側がまたびっくりしました。弱小な一教団の教会長に過ぎない者が、天下の岸先生にこういう親しげな口をきいている。こういうことで、ずいぶんわが教会も評価を高めることができたのです。

 とにかく岸先生は懐の深い人物でした。このような政治家が今日の日本にほとんど見られないことは、日本にとって不幸なことだろうと思います。





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