久保木修身回顧録「愛天 愛国 愛人」目次へ

ワクル(WACL)世界大会の開催

日本開催の経緯

 昭和四十五(一九七〇)年九月二十日、日本武道館で二万数千名を集めてワクル(WACL、世界反共連盟)世界大会が開催されました。海外からの参加者は五十三カ国二百五十名に及びました。この大会を勝共連合が積極的にまた全面的に支援することによって、勝共連合の活動は一躍世界的になりました。

 先に述べたように、六〇年代の後半から七〇年ころにかけて、日本は全国的に大学紛争に巻き込まれていました。東大の安田講堂事件をはじめ、全国各地で大学が一部左翼学生に占拠されたり、バリケード封鎖などが横行して騒然としていた時期です。そして沖縄返還闘争がそれに油を注いだ形になっていました。大学の構内はさながら革命前夜の様相を呈しておりました。

 そういう中で勝共連合の青年たちは、街頭や学内で「共産主義は間違いだ」という旗を掲げて、命がけの啓蒙運動を続けていました。しかし、そのころ私は国内でのそうした勝共啓蒙運動に限界を感じていました。「左翼の連中は、国際的連帯を組んで日本国内で革命運動を積極的に展開している。しかし、共産主義の間違いを訴える保守勢力あるいは良識派の人々はなかなか団結しない。団結したとしても、せいぜい日本国内が限度である。これでは共産主義者に負けてしまう」。こんな危機感が私を襲っていました。「国際勝共連合」という大きな名前が付いているのに、活動は国内的にとどまっています。そんなことで、日本の中に国際的な反共運動を展開している組織はないものか、いろいろ調べてみました。

 すると「自由擁護連盟」という組織が丸の内のビルにあることが分かりました。そこを訪ねて、いろいろと聞いてみると、タイのバンコクでワクルの世界大会(第三回)があるということでした。それに行ってみないかと誘われて、オブザーバーとして参加することになったのです。一九六九年のことです。

 もともと韓国動乱直後の一九五四年、韓国の李承晩大統領と台湾の蒋介石総統が呼びかけて発足したアパクル(アジア人民反共連盟)という反共組織がありました。それが韓国の朴大統領の時、蒋介石総統と協力してワクル(世界反共連盟)として世界的規模に発展することになりました。日本は李承晩大統領のかたくなな反日政策のゆえに加盟することができませんでしたが、六〇年岸先生が首相の時、蒋介石の積極的後押しもあって、アパクルに参加することになりました。

 当時「自由擁護連盟」は、渡辺銕蔵先生が岸先生から引き継いで会長を務めていました。これも不思議な縁ですが、たまたま調べて行き着いた組織が岸先生が先鞭を付けたものだったのです。渡辺先生は、東大法学部の名誉教授で、東宝争議という映画界の労働争議を解決された大変有名な方でした。この騒動は鎮圧のため米軍の戦車が出てくるほどの騒ぎになり、日本中に戦慄が走りました。東大教授であった渡辺先生がこれに乗り込んできて、この問題を解決したのです。それで一躍有名になりました。

 六九年、私がバンコクのワクル大会に参加して、その大会の席上で来年はぜひ日本でやりたいと提案しました。そのことが参加者の同意を得るところとなり、同時に私がワクル日本支部長に就任することになったのです。


カストロ女史とサーモンド米上院議員の参加

 日本武道館におけるワクル世界大会に、海外から二百五十名の参加者があったことは先ほど述べた通りです。その中でも、キューバのカストロ首相の実妹であるカストロ女史とサーモンド米上院議員の参加が多くの注目を集めました。

 カストロ女史は兄カストロのキューバ革命を助けましたが、現実の革命進展とともに共産革命の悲惨な事実を知るに至りました。兄の間違いを知った彼女は、多くの人々とともにアメリカに亡命し、全世界の前にキューバ革命の脅威を訴えていくことを自らの聖使命と考えるようになったのです。

 女史の訴えは大変説得力に富んだものでした。自ら革命運動に挺身し、その欺瞞的実態に直面した体験は、私たちが常日ごろ訴えてきた共産主義の脅威と間違いを示す格好の実証例となりました。

 女史はこう力強く演説されました。「共産主義に対しては、私は何も戦争主義者ではないが、戦争をも辞さない決意が我々に必要である。皆さんは何もしていない。世界の幸福を考える時、やらなければならないことが山積している。すべての自由主義者が結集する強靭な反共組織が必要である。ワクルはその前線であり、人類の平和のために闘っている人たちの集まりだ。共産主義を打倒することのみが世界平和への唯一の道であると思う」。

 目の前に迫る共産主義の脅威に対してほとんど盲目的な日本人の平和主義に対して一撃を食らわすような迫力に満ちていました。二万数千人の聴衆の高揚と熱気の渦の中で、演説が終わりました。

 アメリカから参加したサーモンド上院議員は、大統領選挙にも立候補したことがある著名な政治家です。彼は生粋の反共主義者で、「共産主義の最後の目標は世界制覇である」と断言していることからも分かるように、その本質をよく理解している人物でありました。

 彼は韓国動乱に関しても、アメリカの政策の失敗を公言してはばからないところがありました。彼の意見は、米政府はマッカーサー元帥の意見を入れて、もっと短期間で戦争に勝利すべきだったというものです。韓半島で勝利しなかったから、ベトナム戦争が起き、ここでも短期で決着をつけるべきだったのがもたついてしまったと言うのです。

 彼はタカ派の反共で鳴らした政治家で、何よりも自由を愛する闘士でした。「自由な人間は自由であろうとする意思を持たなければならない」と語る言葉に何よりもそれが表れています。

 私は東京大会の議長として、「平和宣言」を読み上げました。この宣言の中で、共産主義と戦う最も強力な武器は「愛と勇気と許し」であり、「神の神による神のための平和」こそ万民が願う平和の実像であることを訴えました。大会は私が作詞作曲した「ワクル讃歌・愛の統一」でフィナーレとなりました。


   聞け 怒涛の雄叫びを 闇の歴史に悩みたる
   嘆きの民が求めきし 解放 自由の旗高く
   ああ 願いは愛の統一世界

   見よ 勇壮な旗波を 輝く希望に胸おどり
   集える吾等火と燃えて 団結 勝利限りなく
   ああ 願いは愛の統一世界

   起て 万国の同胞よ 熱と力と涙もて
   道ははるかに遠くとも 救国 救世たゆみなく
   ああ 願いは愛の統一世界

 この曲は、ある朝静かに瞑想していると急に楽想が心にわいてきて、その情感をとらえて約十五分くらいで作曲したものです。そのころはワクル大会のためにアジアや世界を走り回っていた時だったので、まともに作曲するような余裕などほとんどありませんでした。そういうときにまさに天からの贈り物のように私の心に響いたメロディーです。

 そしてさらにこの詩は、勝共運動に携わる私の信念を表現したものでした。真の平和や幸福は対立によってもたらされるのではなく、愛による統一だけが約束するものなのです。個人も家庭も国家も世界も、あらゆるものが分裂の淵にある現代にあって、この対立の止揚なくして真の平和はありえません。共産主義は対立と憎悪を助長こそすれ、統一をもたらしはしません。共産主義世界が崩壊した今日においては、ワクル讃歌が示したこの「愛の統一」という精神こそ、現代人が真に求めているものであるに違いありません。

 さて、このワクル世界大会は、大成功のうちに幕を閉じました。日本における勝共運動がアジア及び世界の反共運動と連帯できるようになりましたし、日本国内の反共運動がこの大会を契機に結束力を持ち始めました。そして何よりもこの大会を実質的に取り仕切った勝共連合の存在を日本国内に強くアピールすることになったのです。そのことが容共的諸団体及びマスコミ界に大変な脅威を与えることになったことも事実です。当然、風当たりも強くなりました。この大会以降、勝共連合と統一教会に対する攻撃が加速度的に強くなっていきました。

 さて、この大会の成果は、思わぬところにも表れてきました。昭和四十六(一九七一)年の十二月、ワクル大会が終わってから一年と少したっていたころです。文鮮明先生が韓国を後にしてアメリカに渡られることになりました。自由とキリスト教の旗手たるアメリカを共産主義の浸透と退廃の危機から救うためでした。アジアにどんなに基盤を作り上げても、アメリカが崩壊すればアジアは共産化されるという危機感を文先生は持っておられました。アメリカを立て直すには、キリスト教の復興しかないというのが、文先生の信念でもありました。

 韓国からアメリカに渡られる途中、日本に数日立ち寄られて、アメリカに向かって出発いたしました。先生が発たれた翌日、先生から私に電話が入りました。アメリカに入国できないということでした。入管審査で引っかかってしまったのです。文先生は、宗教的弾圧のため、北朝鮮で二年八カ月にわたる牢獄生活を経験していました。しかしその内実を知らないアメリカでは、驚くべきことに北朝鮮のスパイとして、ブラックリストに名前が載っていたようなのです。

 それで、私はとりあえず、文先生が立ち往生しているカナダのトロントに向かうことにしました。何の当てがあるわけでもなかったのですが、カナダに向かう途中、ふとひらめいたのが、ワクルで来日したサーモンド上院議員のことでした。彼だったらかなりの力があるのではないか。それに文先生が北朝鮮の出身ではあるけれども、熱烈な反共の闘士であることを十分知っている。それで、カナダからアメリカに電話連絡しました。彼は二つ返事で、「OK、五分待ったら入れるようになる」と答えてくれました。後で聞いたことなのですが、サーモンド議員は当時入管問題を扱う委員会の委員長だったそうです。

 ここでも不思議な出会いを感じざるをえません。もし、サーモンド議員がいなければ、また彼がワクルに参加していなければ、文先生はアメリカに入国できなかったのです。そうなれば、その後大々的に展開される一連のアメリカ作戦は、ありえなかったのです。まさに出会いの妙と言えましょう。私自身その時その時の課題を必死にこなしていただけなのですが、実は私自身の意識を超えて、もっと大きな神の見えざる意図と配慮の中で動いていたのだとつくづく思い知らされるのです。



勝共運動の国際的広がり

朴正煕韓国大統領との会談

 ワクル大会を通して、勝共運動が国内的にも国際的にも新しい段階に入りました。当初の狙い通り、国際的連帯の一歩を踏み出しました。文字どおり「国際勝共連合」の始まりです。

 ワクル大会を前後して、私自身数多くのアジアの国家元首と面会することになりました。昭和四十五(一九七〇)年の九月二日、大会当日の約二週間前に、韓国ソウルの青瓦台大統領官邸において朴正煕大統領と面会しました。そのために岸先生はわざわざ自筆で私の推薦文を書いてくださったのです。それを持って大統領に会いに行ったものですから、大統領としても会わざるをえなかったのだと思います。

 大統領との面会の約束は十五分程度でしたが、話していくうちに大変気に入ってくださったようで、予定時間を大幅にオーバーして一時間以上になってしまいました。大統領には日本の共産主義活動の現状を話して、そういう状況下にあって、私たちが勝共運動をしている実情を報告しました。

 すると大統領は、「私は日本民族を非常に高く評価している。日本民族の心を考えたら、日本は共産化などされるはずがない」と言われました。そこで私は、「いえ、閣下、それはありがたいお言葉ですが、日本国内に朝鮮総連(在日本朝鮮人総連合会)がある限り信用できません」と申し上げました。それを聞いた大統領は何か大変に驚いた様子でした。普通の日本人は、朝鮮総連の存在をあまり重要視していません。しかし、私は朝鮮総連があるからこそ、日本は韓国と協力しながら、共産主義と戦わなければならないという趣旨のことを述べたものですから、大統領の印象に深く残ったようでした。

 大統領との会談は一人の書記官を交えての三人だけで行われました。私が会談を終えて、玄関を出ようとすると、その書記官が「久保木先生! 久保木先生!」と言って、走りながら私を追いかけてきました。彼は私に向かって、「大統領は観相を見る天才なのです。大臣を見るときも観相を見て決めています。その大統領があなたと別れてから、私にあの久保木という男には注意しておけ、あれは将来とんでもないやつになると言っていましたよ」と言うのです。彼はそのことをわざわざ私に告げるために走ってきたのでした。彼は「今後ともよろしくお願いします」と言って、私に握手を求めて別れました。

 会談の目的は、ワクル大会に韓国から代表団を招待することでした。大統領は、閣僚を派遣することを約束してくださり、李応俊氏、李根氏、崔徳新氏など閣僚クラスの代表団が韓国から当日大会に参加してくださいました。

 こんなエピソードもありました。朴大統領とはその後も折につけお会いする機会がありました。大統領官邸に各国の大使館員などを呼んで開くティーパーティーの折、私も招待されていました。大統領は私の顔を覚えていてくださり、私の顔を見るや、私の手を引いて、日本人の大使館員のたむろしているあたりに連れて行き、彼らに聞こえるように、「この久保木さんという人を私は大変高く評価しているのですよ」と私を大声で紹介し始めるのです。日本の大使館の人たちはそれを聞いてみんな驚いていました。一国の大統領が一介の名もない人間、それも当時わずか三十九歳の青年の手を引いて連れ歩くなど考えられないことだからです。

 朴大統領とは、ワクルを縁に親しくお付き合いをさせていただいたので、昭和五十四(一九七九)年十月に暗殺されたことは、勝共連合の良き理解者であり、親日的態度で接してくださっていただけに、大変残念でした。


中共承認反対と日本人の信義

 昭和四十六(一九七一)年は台湾政府にとっては、試練の年でした。十月二十五日に国連総会で、大陸の共産党政府が国連に承認され、台湾追放が決定されたからです。私たち勝共連合は、これに先立ち中共承認反対のキャンペーンを張りました。五月には、「中共承認反対一週間断食国民集会」を行い、勝共会員三千人が一週間の断食に参加しました。また十月には、アメリカの会員三十人とともに、国連本部前で三日断食を行って、中共承認反対を訴えました。

 このことが、台湾の各界に衝撃を与えることになりました。台湾の国会議員二百四十四人が署名した感謝の電報が私たちのところに届いたり、台湾のカトリック教会の指導者ユー・ピン枢機卿が国連本部前で断食している我々の前に訪ねてこられ、私たちを祝福してくださいました。枢機卿は私たちの断食抗議をア総統に報告してくれることを約束したのです。結果は、中共承認・台湾追放ということになりましたが、私たちの活動が、孤立化に戸惑う台湾の人々に激励と勇気を与えたことだけは確かでした。

 この間、私が国内外で主張していたのは、日本人の信義の問題でした。蒋介石総統は、日本の敗戦時に大陸にいた二百万人の日本人を「怨みに報いるに徳をもってせよ」と言って、無事日本に帰してくれました。またソ連が日本の分割統治を主張した時も、真っ向から反対したのが蒋介石総統でした。ソ連は北海道を、本州・四国はアメリカやイギリス、九州は中国というのが、ソ連案だったのです。ところが彼は、自分は九州に進駐しない、従ってソ連が北海道に入ることは絶対反対だと言って、日本全体を一括して連合軍の占領下に置くべきことを主張したのです。また、カイロ会談で終戦後の日本処理問題が話し合われた時も、天皇制に関して、ソ連は廃止を強く主張し、イギリスもそれに賛成したようです。しかし、蒋介石総統はそれに対しても、天皇制の問題は日本国民が決めるべき問題だと言って、譲りませんでした。ルーズベルト大統領もそれに賛成したということです。

 もし蒋介石総統が断固たる姿勢で、ソ連の主張に反対していなければ、日本は分割占領という民族の悲劇を体験することになっていたはずです。それに天皇制も廃止されていれば、民族統合のシンボルを失い、日本の戦後の奇跡的発展はありえなかったでしょう。このように日本民族は、ア総統に大変な借りがあるのです。そういった恩に対して報いる道は、台湾が一番困っている時にお助けすることだというのが、私の率直な気持ちでした。

 それに私自身、かつて個人的にア総統に命を救われた恩義を感じていました。終戦時の危険な状況下にあって、天津の父のもとから、母のいる北京に帰る時、総統から通行許可書を書いていただいて、無事母のもとに帰ることができたことです。こういう記憶も手伝って、私たちにできる最大限のことをなそうと決意したのです。

 以前、岸先生から蒋介石総統に関して、こんなお話を伺ったことがあります。岸先生が大臣の時、正式に台北を訪ねてア総統にお目にかかった時のことです。そのとき岸先生は、「日本国民は、あなたの寛大な日本人に対するお取り計らいに対して、感銘を深くしています。決してこれを忘れるものではありません」というようなことを言ったそうです。

 総統の答えは、「私に感謝するのは筋違いだ」というものでした。「私は若い時に日本に留学して、頭山満先生や犬養毅先生等の先輩に非常にお世話になりました。当時、日本の社会には武士道的な精神が至る所に残っていて、私のお世話になったこれらの先生は本当に武士道の権化のような方でした。それらの方が私に日本武士道の一つとして、人間は人から受けた恩にはあくまでも恩を返さなければならない。同時に怨みを受けても怨みをもって報いてはならない。徳をもってせよと私はこれらの人に聞きました。だから、もし私に感謝される気持ちがあるのでしたら、日本に帰ってこれらの先輩の墓へ参って、お礼を言ってください」と、総統は岸首相に言われたそうです。

 蒋介石総統は、熱心なクリスチャンでもあります。キリストの「汝の敵を愛せよ」という思想が、総統が学んだ日本武士道の精神と融合して、敵である日本に対してあのような寛大な態度を取らせたのでしょう。総統が日本から学んだという「怨みに報いるに徳をもってせよ」の精神を日本人は忘れてはいけないはずです。私はそれをずっと訴え続けてきました。

 しかし、その後昭和四十七(一九七二)年に日本は田中首相の時、日中共同声明を発表し、中共と国交を正常化しました。そしてそれは台湾を見捨てることによって成り立った国交でした。もちろん、長い目で見れば、大陸中国との国交は不可欠です。しかし、台湾を犠牲にするという選択肢しか日本になかったのでしょうか。田中首相は、大陸との正常化を急ぎすぎて、信義にもとる決定を下してしまいました。日本の選択は、台湾から見れば、裏切り行為であったのです。


蒋介石総統との会談

 蒋介石総統にお会いしたのは、昭和四十六(一九七一)年の五月十四日のことです。この会談は、台湾政府の要人であり、ワクルの名誉議長である谷正綱氏の努力によって実現しました。台湾側では蒋介石総統に対するガードは非常に固いものがありました。普通一民間人がなかなか会えるものではありません。それでも会えたのは、私がワクルの日本支部長ということで、谷正綱氏が相当後押ししてくれたのと、私のこのポストには以前岸先生がなっておられたということで、それで会わざるをえなかったのです。

 私が部屋に入っていくと、総統は机に向かって何か書きものをされていたようです。総統は私たちに気づくと、すぐ立ち上がって、握手をするために近寄ってきました。そして私の手を握ったまま、しばらくじっと私の目を見つめ、その後座るように促されました。

 当初二十分の予定が、一時間を超えるほど、会談は熱のこもったものとなりました。私も総統も時間のたつのを忘れて、語り合ったのを記憶しています。私も気づいてみたら、椅子から身を乗り出して、右手を振り上げてまくしたてるという有り様です。八十三歳の総統も静かな透き通るような目で、私を凝視しながら、とくとくと話をされる。特に中共問題になると興奮する様子が伝わってきます。

 私は前年秋に日本で行われたワクル大会について報告するとともに、日本の勝共活動を説明しました。また、そのころ既に中共承認反対の署名活動を日本で展開していましたから、その写真などを私が見せると、総統はことのほか喜ばれ、「シェーシェー」を連発していたのが印象的でした。

 この会談で私は総統に、一つのお願いをしました。もし日本が台湾を無視するような選択をしたら、日本に戦争をしかけるぐらいの気迫で、日本に迫ってほしいということです。高度成長に溺れて、かつての恩を忘れる日本に何の将来があるでしょうか。そんな日本に脅しでもかけて、覚醒してほしかったのです。私のそうした要望を総統はきわめて真面目に深刻に聞いておられました。

 それから約一年後、蒋介石総統に再びお会いしました。私はその時、衝撃的なある一つのことを総統に申し上げました。それは「台湾は今独立すべきだ」ということです。このことは、ア総統にとっても、中国共産党にとってもタブー以外の何物でもありません。大陸を共産党から追われた総統は、大陸は自分のものだと思っています。独立せよということは、それをあきらめよと言うことです。私としては、今独立しておかなければ、後になればなるほど、複雑な問題が絡んでくるからできなくなる。今以外にないという気持ちでした。

 今でこそ、台湾の中に独立推進派が多くなってきていますが、その時代にあっては、許しえない言動です。総統にしても絶対に聞きたくない言葉だったでしょう。このことを言う前に、私は「今から私が話すことは、大変言いづらいし、聞きづらいことです。もし、話の途中で気にくわなければ、殴っても蹴っていただいてもかまいません」と言ってから話し始めました。蒋介石総統は、私の発言を顔色を変えずに聞いていました。さすがにコメントはありませんでした。やはり重大なことです。周りに人もたくさんいましたし、どこかにそんなことが漏れたら、台湾中大変なことになります。

 しかし、死後彼の日記が見つかりました。それに私との会談のことが書いてあったそうです。日本から来た久保木という男がこういうことを言った。非常に大切なことだと。私の話が何か心に残ったのだと思います。そのとき写した蒋介石総統と私の一緒の写真が、日本人として私だけ、孫文記念館に掛けられています。身にあまる光栄と思っています。


ローマ法王と会見

 ローマ法王パウロ六世にお会いしたのは、昭和四十六(一九七一)年六月十六日です。そのころ私は、ちょうど二十一カ国を歴訪していました。五月の上旬から約七十日かけて、全世界を回りました。前年のワクル大会に参加してくださった各国の要人たちを訪問し、お礼の言葉を述べるとともに、これからの協力関係を探る旅でした。

 韓国、台湾を皮切りに、東南アジア諸国、インド、イラン、トルコ、イスラエルなどを回った後、ローマに入りました。この旅で、先ほど述べたように台湾の蒋介石総統に初めて会うことになったのです。

 法王にお会いできたのは、台湾のカトリック界の重鎮であるユー・ピン枢機卿と私が大変仲良くしていたものですから、その方の仲介によるものです。この枢機卿はローマ法王に紹介状を書いてくださいました。また駐バチカン大使館に彼の甥がいましたので、彼に直接連絡して、取り計らってもらいました。パウロ六世はそのころ、病気がちで、あまり会うことができないと言われていましたので、会うことができたのは、まさに奇跡的なことでした。

 バチカンに着いた時、私は真っ先にバチカンの聖地に向かい、そこで祈りました。その時、突然激しいにわか雨が降り出しました。ローマはここ二、三カ月雨が降っていないと聞いていましたので、何かを天が私に告げているに違いないという厳粛な気持ちにさせられたことを覚えています。

 私は法王に会う前日の夜まで、法王の前に出るのに、紺か黒系統の衣服が必要だとは知りませんでした。それが前日の夜に分かり、大慌てです。私は背広を用意していましたが、家内は黒の洋服などありません。かといって店はもう閉まっています。翌朝、店が開くと一番に入って、家内の黒の洋服を買って、十時半に法王に会うことになりました。

 私は法王の前に出て、こう言いました。「法王、世界が今難しい状態にある時、あなたがこの位置にあるのは、神がある願いを持って、この位置に置いているのだと思います。あなたはいつも欧米には関心を持っていらっしゃいますが、もっと極東に関心を持ってください。そしてその意味を祈ってほしいのです」というようなことを言いました。

 法王はうなずきながら、「よく分かっています。私はアジアをこのほど回ってきましたが、深刻な問題があることをよく知っています。また、日本の復興を知る時に、私は深い尊敬の念を持つのです。アジア旅行以来、私はアジアのために祈っています」と答えられました。

 私はまた、「日本では今、若者たちが中心になって、国と世界を立て直すために頑張っています。私たちがいる限り、神は日本を守るだろうと思います」と申し上げました。

 私が話し終えると、法王は身を乗り出して、私の手をしっかりと握りしめました。そのころ、喉頭ガンを患っていた法王は、私の手をいつまでも離さず、まるで私にすがっているかのような感じを受けたほどでした。

 その後、私はヨーロッパ各国を回り、続いてアメリカに渡りました。各国のリーダーたちと深い連帯の絆を結ぶとともに、彼らの関心を極東に向けさせることに成功したと自負しています。


勝共運動と救国の叫び

日本共産党との理論戦に勝利

 国内の勝共運動で忘れられないのは、日本共産党との理論戦です。ワクル大会の翌年十二月に私たちは共産党に対して理論戦を宣言しました。七〇年安保は乗り越えたものの、共産主義浸透の温床になっている唯物論的な思潮はいっこうに変わっておらず、これをなんとか克服しなければならないと痛感したからです。それには、日本におけるいわば共産主義の本家である共産党に理論戦を申し入れ、これを論破すれば早いと考えたのです。

 こうして理論戦を宣言したとたんに発生したのが、七二年二月の連合赤軍事件です。これには国民が驚きました。しかし、当時のマスコミは連合赤軍の思想的根源にはメスを入れず、思想が生んだ結果だけをただ単に「狂気の沙汰」というだけでした。

 そこで早速、連合赤軍と共産党は同じ共産主義思想であることを広く国民に啓蒙しました。これには共産党もこたえたようで勝共連合批判のビラを全国にまきました。そこですかさず共産党本部に公開質問状を提示し、公開討論会を行うことを求めましたが、共産党は逃げるばかりで公開討論に応じません。

 このことが話題になり、毎日テレビ放送(現東京12チャンネル)が『ドキュメント・トーク』という番組で「共産党との公開討論をぜひやってほしい」と要望してきましたので、快くこれを受けました。しかし共産党は「勝共連合などという団体の存在は認められない」といって逃げてしまい、結局、勝共連合の青年五人と評論家の石堂淑朗氏の間で形を変えての討論番組として放送されました。いずれにしても共産党が理論戦から逃げていることが白日のもとにさらされることになりました。

 公開理論戦の呼びかけは六十数回にわたって全国各地、大学構内でも行いましたが、共産党はことごとく逃げました。そのたびごとに私たちは勝共理論を紹介し、共産主義の間違いとその克服策を提示しましたので、共産党の民青(民主青年同盟)が音を上げ党本部に泣きつきました。それ以降、大学内で民青の勢力が急落し、大学の正常化が進むようになりました。

 ちなみに当時の共産党の聖典であったのが『共産主義読本』でしたが、私たちが批判するたびに書き直したり削除し、ついに絶版になってしまいました。共産党の第十二回党大会では、無視していたはずの勝共連合を取り上げざるをえなくなり、「国際勝共連合の反共策動を打破する闘争を、一層重視する必要がある」との大会決議を採択したほどです。といっても理論戦で打破する闘争ができないわけですから、共産党の敗北は明らかなところでしょう。


「救国の予言」の全国キャンペーン

 理論戦で敗北しても共産党は簡単に引き下がるものではありません。昭和四十七(一九七二)年秋に日中国交回復が行われたので、国民の共産主義への警戒心がゆるんだのでしょう、暮れの総選挙では自民党が敗北し、共産党が初の四十議席獲得という異常進出を果たしました。やはり共産主義問題は国内的要因だけでなく、国際的要因が大きく働いています。私は国民一人ひとりに思想武装を働きかけていく必要性を強く感じました。今は文字どおり救国、救世の予言者が出なければならない時代であると痛感しました。

 「誰かが叫ばねばならぬ、誰かがやらねばならぬ」というのが勝共運動の原点です。私は自分自身が訴えねばならぬという天啓のような衝動に駆られ、「救国の予言」講演会を開くことを思い立ちました。七三年から七四年にかけて全国百二十四カ所で行った「救国の予言」講演会はこうしてスタートを切ったのです。

 この講演会で私が最も訴えたかったことは、「甘いヒューマニズムは国を滅ぼす」ということでした。ヒューマニズムというのは「人間中心」「人間尊重」ということで、実に聞こえがよい言葉ですが、実はここに重大な落とし穴があります。もともと近世のヒューマニズムは、あまりにも神中心主義に陥った中世のカトリックへの反省から出発したものです。西欧の精神的主流には例えばリンカーン演説に「神のもとでの、人民の人民による人民のための民主主義」とあるように、「神のもとでの」といった価値観が底流に流れています。

 ところが、このヒューマニズムが日本に入ってきて思想的に[脱色]された結果、ヒューマニズムから中心性と価値観が消え去り、「あれも、これもよこせ」といった貪欲なエゴイズムの思想に陥りました。これが日本的ヒューマニズムの思想で、共産主義の温床になっているものです。私はこのヒューマニズムの極致が唯物論、共産主義であることを説いたうえで「救国の予言」を次のように結びました。

 「しかし、皆さん、共産主義が怖いのではありません。魂を毒されていることが怖いのであります。肉体だけの人間性を乗り越え、高い精神的理念にもとづいた愛と奉仕の実践者を育成していくことが、共産主義を克服する道であります。『怨みに報いるに徳をもってせよ』という道理を日本人の教官から学んだと蒋介石総統は言っておられましたが、実にそのような魂の実践者を輩出することこそ、日本を救う道であります」

 この「救国の予言」講演会に参加してくださった人は延べ十七万人にのぼりました。全国津々浦々で多くの憂国の士と出会えたことは私にとって無上の喜びでした。


京都府知事選挙で革新を打倒

 「救国の予言」講演会に参加された有識者、とりわけ地方議員の間から革新自治体をなんとしてもなくしていこうという声が出されるようになり、各地で勝共理論研修会が開かれるようになりました。当時は革新自治体ブームで東京を筆頭に神奈川や横浜、京都、大阪といった具合に、革新の太平洋ベルト地帯が築かれていました。

 とくにその牙城だったのが、京都府の蜷川府政でした。蜷川府政は昭和二十五(一九五〇)年からの社共統一戦線の革新府政で、共産党はモデル地域として「日本革新の灯台の火」(不破書記局長)と位置づけ、「この灯台の火を消してはならない」と全党員に呼びかけていました。それで全国動員までして蜷川府政の防衛に当たっていたほどです。共産党議員の数も党員の数も全国一で、まさに共産党の牙城にふさわしい状況でした。

 この京都でこそ、勝共運動を勝利しなくてはならないと私は決意しました。これに応えてくれたのは若い女性会員たちです。彼女たちは「共産主義は間違っている」との訴えを京都府下一円で展開し、罵倒されても殴られても訴え続け、ときには暴力を受けて負傷し包帯を巻いたままで遊説カーから府民に呼びかけました。

 京都市内の四条河原町で共産党の遊説カーと真っ正面からぶつかり合った時がありました。共産党の遊説カーが勝共の若い女性たちに論破されて逃げていくという場面も見られるようになりました。最初は冷淡だった市民が次第に私たちの味方になり、拍手すら沸くようになったのです。私も本当に感動しました。これを市民の方々は「四条河原町の決戦」などと呼んでいました。

 こうして昭和五十三(一九七八)年四月の京都府知事選挙で、ついに蜷川革新府政を倒すことができたのです。長年、警察庁や公安調査庁で共産主義と戦ってこられた弘津恭輔先生(元総理府副長官)は前述の『私のみた勝共運動』の中で、「勝共連合の運動の中で私が一番感動を覚えたのは、七八年の京都蜷川革新府政を打倒した時の、知事選における勝共連合の壮烈な闘い振りであった」と述べ、「革新の灯台の火を消した勝共連合」と高く評価してくださっています。多くの京都府民の方々からも過分な称賛の言葉を頂いたことは、勝共運動の冥利に尽きると感謝しています。

 この京都革新府政の崩壊以降、雪崩を打つように次々と革新自治体が消えていきました。まさに「灯台の火」を消した意義は大きかったのです。


「勝共国民運動」を始める

 七〇年代後半の国際情勢は風雲急を告げていました。七五年にインドシナ三国が共産化され、世界中で共産主義が拡大され、これに乗じてソ連が軍拡に拍車をかけてきました。七八年に締結された日中条約をソ連は対ソ包囲網ととらえ、この巻き返しを狙ってベトナム支援を強化し、これをきっかけにベトナムのカンボジア侵攻、そして七九年のソ連のアフガニスタン軍事侵略へと続いていきます。極東ソ連軍も著しく増強されてきました。

 こうした中で始めたのがスパイ防止法制定運動です。共産主義の侵略はなにも軍事面の直接侵略だけではありません。ソ連はあくまでも共産主義思想にもとづく軍事戦略を立てており、その特質は総合戦です。ですから、思想、経済、あらゆる面で浸透工作を試みる「間接侵略」こそ自由主義国が最も警戒しなくてはならない問題です。しかし、わが国には「間接侵略」に対抗する体制が整っていません。防衛、外交などの国家機密を外国のスパイから守る「情報の防衛」は皆無に等しい状態でした。

 ソ連が極東に矛先を向けようとしているときに、こんな無防備でいいはずがありません。自衛隊OBをはじめ各界の有識者の方々もこの無防備状態を憂いておられましたが、いかんせん運動体がつくられないままでした。「君らでなんとかならんのか」という方々が多く、スパイ防止法の制定運動の団体をつくろうという機運が高まってきました。こうして七九年二月に宇野精一先生(東大名誉教授)を議長に「スパイ防止法制定促進国民会議」の発足を見たわけです。これに意を強くされた地方の各界有識者の方々も立ち上がり、その後、陸続と都道府県民会議がつくられたことは感激でした。

 この運動は、全国の過半数の地方議会で「スパイ防止法制定促進決議」を成立させ、当時の与党であった自民党によって、「国家機密法」が国会に上程されるまでになりました。残念ながら、社会党、共産党、左翼マスコミなどの猛反対と、自民党内の左翼に連動する人々によって、継続審議となってしまいました。

 スパイ防止法運動を行っていきますと、反対勢力が立ちはだかってきます。いわずもがな、共産党を軸にした一大共産主義勢力です。ソ連の間接侵略のなんたるかを改めて認識したわけです。スパイ防止法を制定するにはこの共産勢力と真っ正面から戦わざるをえません。それにはスパイ防止法という法律の制定運動だけでは思うように戦えませんので、新たな取り組みの必要性が生じてきました。そんな折、地方に行くと地元の有力者の方々から「いっそのこと勝共連合の組織を草の根のように全国につくったらどうか。我々が先頭を切って戦いますよ」というご意見がたくさん寄せられました。この声に意を強くした私は勝共連合の支部づくりに着手しました。その結果、勝共運動は青年だけの運動から文字どおり勝共国民運動へと発展していったのです。

 こうして全国各地で勝共連合の支部が結成され、会員は七百五十万人を数えるまでになりました。昭和五十九(一九八四)年九月から十一月にかけて、全国縦断の七大都市勝共国民大会が開催されました。このうち東京大会は十月三十日、日本武道館に三万人の会員が結集し、会場に入りきれず溢れ出るほどの熱気に包まれる大盛況でした。実は、この大会に私の母も参加しました。武道館で講演するというので、息子の晴れ舞台を一目見ようと出かけてきたのです。しかし、あまりの多くの人で会場に入れませんでした。それで係員に誘導されて地下に入れられました。ところが地下もいっぱいになっていたのです。そうしたらまた係の人がやってきて、今度はエレベーターの機械室に押し込められて、そこで私の話を聞いたというのです。大会は大盛況で、勝共運動は大変な盛り上がりを見せていました。

 八〇年代は冷戦が頂点に達したときです。共産主義との最終戦だったわけですが、今から考えれば、この間、憂国の士がこぞって立ち上がった勝共国民運動によってわが国へのソ連の間接侵略を防ぎえたと思います。また、極東の平和と安全を守るには日本一国では不可能です。日韓両国の関係強化が不可欠と考え、韓国の三八度線への視察セミナーを行ったところ、全国から延べ三万人近い人々が訪韓し、厳しい国際情勢の現実を身をもって学びました。これを契機に韓国の勝共連合の支部と姉妹結縁が結ばれ、日韓の勝共共同戦線の強い絆がつくられました。

 こうして北東アジアの安全を守り抜いたからこそ、アメリカのレーガン大統領をしてソ連解体へと導きえたものと私は確信しています。



共産圏の崩壊

レーガン大統領の登場

 一九八九年秋に起こった東欧共産圏の崩壊は、劇的でした。これが引き金となって、東西両ドイツの統合、さらにはソビエト連邦の崩壊と歴史の流れががらりと変わってしまいました。長年、私たちは社会のムードに逆らって、「共産主義の間違い」を訴え続けてきました。それが正しかったことが証明されたのですから、実に感慨深いものがありました。

 この歴史的転換に大きく貢献した人物が、アメリカ第四十代大統領のレーガン氏です。文鮮明先生は、レーガン大統領を「神が選んだ大統領」であると言いました。宗教家である文先生がアメリカに渡った目的は、アメリカに神の意志を伝えることでした。

 一つは、自由主義の砦であるアメリカをして、共産主義の膨張を阻止させること。

 二つ目は、アメリカの関心をアジアに向けさせること。

 三つ目は、キリスト教に基づく建国精神を復興させ、家庭を再建すること。

 この三つが主な目的です。

 レーガン大統領は、そういう面から見れば、最適の大統領でした。彼は、大統領就任式後初の記者会見で、「現在の指導部をも含め、革命後のソ連指導部で、世界を一つの共産主義国家にするのが目標だとの決意を繰り返し表明しなかった者は一人もいない」と述べています。彼はソ連の本質、共産主義の戦略を正しく見抜いていました。

 それに比べカーター元大統領は、失格でした。彼は、ソ連を共産主義国家として見る見方を退ける傾向がありました。むしろロシア人としてとらえるべきだと言うのです。それゆえ、ソ連は防御的だと見ていたのです。レーガン大統領の対ソ認識は、それと全く異なるものです。ソ連の本質が共産主義であり、目標が世界共産化であると規定していました。彼はソ連の侵略性を見抜いていました。

 私たちは、大統領選挙ではアメリカの全勢力を挙げて、レーガン氏を応援しました。そのため、文先生は大統領就任式に来賓として招待を受け、就任演説をする大統領の後ろの席で座っていました。その姿を見て、私は聖書の中の一節を思い出しました。預言者サムエルがダビデの頭に油を注ぎ、神が認める王として認定する箇所です。

 レーガン大統領はソ連を「悪の帝国」と呼び、毎年千三百億ドル以上の赤字を出しながら、軍備拡張を行いました。決定的だったのが、スターウォーズといわれたSDI(戦略防衛構想)でした。レーザーを用いて、ソ連の大陸間弾道ミサイルが米本土に到達する前に大気圏外ですべて破壊してしまおうという戦略です。そのことにより、ソ連は完全に追い詰められ崩壊したのです。

 また、彼は歴代のどの大統領よりも、アジアに目を向けていました。西海岸のカリフォルニア州知事であったことも影響していたのかもしれません。就任後、ホワイトハウスを訪問した最初の国家元首が韓国の大統領だったことも象徴的なことでした。さらに彼の任期中に、アメリカの対アジア貿易量が対ヨーロッパ貿易量を上回りました。大西洋の時代から太平洋の時代が到来したのです。また、彼は学校教育に宗教的伝統を持ち込むことに積極的でした。こうした観点は、文先生がアメリカに伝えたいメッセージそのものでした。

 このレーガン政権を後押しするために、一九八二年、文先生はワシントン・タイムズという新聞を発刊しました。以前、ワシントンには、ワシントン・ポストとワシントン・スターの二紙しかありませんでした。前者が親ソ的だったのに対して、後者は反共的でした。ところが、スター紙は八一年に経営難で、廃刊に追い込まれてしまいました。そういう中で、文先生は、赤字を覚悟の上でレーガン政権を支える、いやアメリカを支える新聞を発行することにしたのです。この新聞はレーガン大統領が朝起きてから最初に目を通す新聞として、ワシントンでは高く評価されるようになりました。

 レーガン大統領は、二期八年間徹底的な対ソ強硬路線を貫きました。まさに軍拡路線です。核戦争の脅威もずいぶん叫ばれました。しかし、結果はソ連の崩壊です。レーガン大統領が対ソ強硬路線を続けなければ、核優位に立ったソ連が、核の力で西側を恐喝し、脆弱な経済力を補おうとしたはずですし、最悪の場合は、核攻撃すらしかける可能性がありました。

 双子の赤字は、今日アメリカを大変苦しめていますが、これはレーガン政権時代の負の遺産であることは、間違いありません。しかし、それは彼の偉大なる功績の影の部分です。影を作ることを恐れたら、彼は光をもたらすこともできなかったでしょう。


ゴルバチョフの登場とソ連崩壊

 一九九〇年四月十一日、文鮮明先生はソ連のゴルバチョフ大統領とクレムリンで会談しました。アメリカの新聞にある著名な評論家は、「最高の反共・勝共のチャンピオンと、共産主義世界の最高執権者が出会うということは、これはまるで太陽が西から昇る奇跡のようなものである」と書きました。さらにその評論家は、「文鮮明総裁は何を目標にソ連に入ったのだろうか。それは無神論の牙城であるクレムリンの箱の中で、神を証しするためである」と付け加えたのでした。

 文先生がソ連に入るようになったのは、世界言論人会議の開催にあたって、創設者として基調演説をするためです。この会議はモスクワでの大会で十一回目を数えました。「言論のないところには言論の自由を、言論の自由のあるところには責任ある正しい言論を」をスローガンにして一九七七年に設立されました。共産主義世界のグラスノスチ(情報公開)を進めることと西側の無責任な言論を正すことが目的です。

 実は、この会議が開かれる十四年前、文先生は一九七六年にアメリカでこのモスクワでの大会を宣言しています。七六年と言えば、アメリカの建国二百年祭の年で、ワシントンで五十万人を集めた大会が文先生によって開催されました。その直後先生は、次はモスクワであると宣言したのです。本当に驚きました。そのころのソ連はまだ巨大な帝国を堅持しており、先生の宣言をまともに信じる人はほとんどいませんでした。ベトナムのサイゴン政府が陥落したのが、前年の七五年ですから、共産革命の脅威が身近に迫っていた時期でした。ですから、「勝共の巨人」と言われ、KGB(ソ連国家保安委員会)からも命を狙われた経験のある文先生がモスクワで大会を開催するということは、悪い冗談のようなものだったのです。荒唐無稽なホラだと思った人も多かったと思います。

 私はこれまで文先生に身近に接してきて、先生が語られたことは必ず実現してきたという事実をたくさん見てきました。個人の人生に関する事柄から、歴史を左右する大事件に至るまで、数え上げたらきりがありません。共産主義の崩壊などその最たるものです。レーガン政権の登場も文先生の確信でありました。

 面白い話があります。アメリカのシカゴ大学の名誉教授で、国際政治学者として著名なモートン・カプラン博士がいます。彼の著書は日本の大学で教科書として使われるほど影響力の大きい学者です。彼は文先生の依頼を受けて、世界の学者組織である世界平和教授アカデミーの会長を務めていました。

 一九八五年、そのアカデミーがジュネーブで国際会議を開催する時、カプラン教授が責任者でした。その会議の企画を練っている時は、ゴルバチョフ大統領はまだソ連に登場していません。文先生は、会議のテーマを「ソビエト帝国の崩壊」とするように提案しました。しかし、カプラン教授は国際政治学者として、そんなことはとてもできないと抵抗したそうです。そして、もめた末、「ソビエト帝国の崩壊――ソビエト後の世界への移行の展望」とすることで妥協しました。その後、ゴルバチョフ大統領が登場し、ソ連の消滅が九一年に起こりました。カプラン教授は後にこう言いました。「あの時私が考えていたのは『ソビエト帝国は崩壊するかもしれない』というようなテーマで、もしそうしていたら、今ごろは笑い者になっていただろう」と。

 文先生には、未来を見る特別なアンテナがあるように思えてなりません。ソ連が消滅する現象を生々しく、見ていたのでしょう。私たちの目には、荒唐無稽に見えることでも、先生の目には確かな事実となっているのです。私は何度もそういうことを見聞きしてきましたから、ワシントン大会直後の宣言も天の声として厳粛に受け止めました。

 しかし、それがいつ実現するのか、どんな形でなされるのか、皆目見当がつきませんでした。そして、年月がたち、私たちがモスクワ大会のことを忘れかけ始めたころ、共産主義世界は東欧諸国から崩壊し始めました。八九年のことです。この時、先生はすかさず言論人会議のモスクワ開催を宣言しました。先生がモスクワ大会を諦めもせず、忘れてもいなかった証拠です。十四年間にわたって、チャンスをうかがっていたのでしょう。そして、チャンスと見るや間髪を入れずに一気に攻勢を開始したのです。

 東欧諸国の解放は、文先生にとって、おそらく紅海でモーセが直面した神の奇跡のように見えたのではないでしょうか。紅海の水が割れ、対岸への道がモーセに示されたように、モスクワへの道を天が示したのだと。

 言論人会議における文先生の演説は、純粋に宗教的で格調の高いものでした。それは、ロシア人が本来持っている宗教的感性に訴えかける内容でした。共産主義のメッカであるクレムリンはもともとロシア正教の本山です。ここで、神に帰るしかロシアの再興はありえないことを宣言したのです。

 私は先生の話をモスクワで直接聞きながら、勝共の意義を改めて確認しました。勝共は単なる反共ではありません。いわゆる「救共」なのです。共産主義というイデオロギーに対しては「滅共」です。しかし、そのイデオロギーに毒された人々に対しては、「救共」の精神で臨むのです。先生の演説には、共産主義者に対する愛情、あるいはロシア人に対する愛情がにじみ出ていました。

 「私はソ連の人々が私の家族の一員であると、心の底から感じていると申し上げたいのです」

 「私は、真の恒久的な平和の世界を築く神の計画において、ソ連が重要な役割を果たすと信じております。この膨大な連邦は、極東は私の祖国と国境を接し、西洋文明の発祥の地である欧州中心部に至るまで広がっており、欧州とアジアの橋の役割を果たす運命を担っております」

 ゴルバチョフ大統領との会談において、先生はソ連国民の信仰心の復興がこれからのソ連あるいはロシアの発展の原動力になることを述べられました。これに対して大統領も宗教に対する認識は、文先生と同じだと語りました。

 共産主義世界の崩壊は、ゴルバチョフ氏が登場しなかったならば、この時期に起こらなかったでしょう。そして、ゴルバチョフ氏のような人物はおそらく、ソ連が経済的に破綻状態になっていなければ台頭してこなかったでしょう。とすれば、ゴルバチョフ氏登場の背景には、アメリカの対ソ強硬政策があったことは間違いありません。それを積極果敢に推し進めた人物がレーガン大統領です。私はモスクワで語る文先生の話を聞きながら、レーガン大統領誕生の背景に文先生の応援があり、その後レーガン大統領が対ソ強硬路線を堅持できたのは、ワシントン・タイムズによる後押しがあったことなどに思いをはせていました。

 歴史の要所要所で、文先生は要としての役割を果たしてこられました。勝共連合を設立したのも、アメリカに渡られたのも、神の使者としての役割を果たすためです。ソ連と対抗できる唯一の大国がアメリカでした。そのアメリカを神の願いに向かわせるため、常にレーガン大統領にワシントン・タイムズを通して神のメッセージを伝えてきたのです。すべてはモスクワに向けられていました。私はクレムリンに立ちながら、ゴルバチョフ大統領、レーガン大統領、そして文先生の背後にある神の意志をまざまざと感じ、戦慄を覚えたのを忘れることができません。

 文先生の残された課題は、韓半島に絞られてきました。



韓半島情勢の新展開

金日成主席と文鮮明先生との対面

 ゴルバチョフ大統領と文先生との会談も奇跡的な事件でしたが、九一年十二月に実現した金日成主席と文先生との会談には世界中が度肝を抜かれました。この準備を極秘裏に進めていたのは、朴普煕氏などごく少数の側近だけでした。

 ゴルバチョフ大統領との面会は、彼がペレストロイカ(改革)、グラスノスチ(情報公開)政策を軌道に乗せつつあった時でしたし、宗教政策にも寛容になっていた時期でした。しかし、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)は共産主義を標榜する強固な独裁国家であり、宗教はアヘンとして、徹底的に弾圧、否定してきました。にもかかわらず、「統一教会の教祖」である文先生を北朝鮮は招請したのです。その上、文先生は国際勝共連合の総裁として、共産主義を批判し克服する運動を世界的に展開していた反共運動の代表的人物として北朝鮮でも有名人でした。

 一体何が起こったんだろうというのが、周囲の率直な印象であったろうと思います。これまで、勝共連合を応援してくださった多くの有識者の方々からも、疑問の声が数多く上がりました。それも当然です。昨日まで、わが勝共連合では、北朝鮮を世界で最も危険なテロ国家として、警戒を呼びかけていましたし、金日成主席を最も悪辣な共産主義の覇権主義者として非難してきたのです。

 その文先生が、突然何の前触れもなく北朝鮮に入り、金主席と親しく会談したのですから、売名行為であるとか、何か裏取引があったのではないかとか、ひどい場合は裏切り者だとまで言う人がいたのです。

 しかし、この時の訪朝は単なる思いつきでも、売名行為でもありません。一貫した理念と計画に基づいて行われたものでした。文先生は、ソ連問題、東欧問題などはいずれ解決する、しかし、最後に残る最も厄介な問題は韓半島の問題であると常日ごろ語っていました。核査察問題に見られるように、世界中が束になってかかっても、きりきり舞いさせられる状況です。巧妙で狡猾な北朝鮮の策謀により、南北会談や米朝会談はいつも期待を裏切られてきました。この問題を解決できる人物こそ、世界を救うに足る方であると言っても過言ではありません。それほど難しいのが、この韓半島の問題なのです。

 文先生は、韓半島問題を解決することが、世界平和の出発点であると考えています。すべての活動がそこに収斂し、すべての解決がそこから始まるのです。勝共運動を展開したのも、レーガン大統領を応援したのも、ゴルバチョフ大統領と会見したのも、韓半島問題を解決するための一里塚に過ぎませんでした。

 韓半島問題を解決するということは、具体的に言うと南北統一を実現することです。しかし、それは北が主導する形では意味がありません。それを警戒するためにこそ、勝共運動があったのです。そして、文先生は、金日成に妥協するために北朝鮮に向かったのではなく、北朝鮮を救うために訪れたのです。


主体思想を批判

 文先生は、一九九一年十一月三十日に北京空港から平壌に向かいました。金日成主席と会談したのは、十二月六日です。その間、北朝鮮の幹部といろいろな会合を持ちました。一日には、万寿台議事堂(国会議事堂)特別室で、演説をしました。この演説は礼拝で語る説教そのものでした。神の愛を説き、南北統一は神の愛、神主義によって行われるべきであると宣言したのです。

 驚くべきことに、そればかりではありません。その演説で、文先生は金日成の「主体思想」を完膚なきまでに批判しました。主体思想は所詮人間の頭から出てきたものに過ぎない。人間の頭から出てきた思想や哲学は、せいぜい百年も持たないことは、ソ連や東欧を見れば明らかだ。神主義と神の愛に基づいて、全人類を怨念から解放して、絶対的な愛で全人類が一つになる。これしかない。このような趣旨の批判をとうとうと二時間まくし立てたのです。

 同行した朴普煕氏は、先生の演説を聞いて、「これで金日成主席との会見は完全になくなった。それよりもいかに殺されずに無事に帰るかだ」と本気で心配したそうです。事実、接待係として同行していた尹基福委員長(朝鮮海外同胞援護委員会委員長、祖国平和統一委員会副委員長)と金達玄副首相の二人は、この日の文先生の演説を聞いて、真っ赤になって怒ったそうです。

 「この無礼な男は何だ。人の国に招待されながら、金日成主席の主体思想をけなし続け、自分の神主義をとうとうと説く。こんなお客はどこにいるか」と言って、文先生を金主席に会わせるべきではないと結論を出したということです。

 北京から平壌に発つ時、文先生は記者団に「今回の訪問は宗教、思想教育である」と語っていました。先生は、きっぱりと決意していたのです。たとえどんな状況下にあろうとも、言うべきことは言う。この国では、公の場で神のこと宗教のことを語ることは禁じられていました。その場で処刑されても仕方がないことなのです。まして主体思想を批判するなど、言語道断です。そういう状況を考えれば、文先生は命がけの決意で演説をしたことがよく分かります。

 二人の高官は、文先生を金主席に会わせることは自らの進退問題にも発展しかねないという危惧を抱いていました。もし、会見の場で文先生が金主席を目の前にして「主体思想は間違っている」と直言したら、接待役の二人が問責されることは明白でした。

 ところが、二人の高官の話を聞いた金正日書記は、父親金日成主席と文先生との会談をセットするように指示したそうです。彼は信念を曲げない文先生の態度に何か感じるところがあったようです。また金主席も、「自分の思想にそんなに自信を持っている男がいるのか。そんな男なら会ってみたい」と言ったそうです。金主席もまた、ただ者ではありませんでした。方向性はどうあれ、傑出した人物であったことは間違いありません。

 二人の高官の危惧をよそに、会談は驚くほど友好的でした。公館に文先生が到着すると、金日成主席は玄関まで出迎えており、文先生に歩み寄り固い握手を交わし、抱き合いました。この二人の出会いを見て、後で朴普煕氏は「まるで兄弟のようだった」と述懐していました。


怨讐を愛する思想

 さて、こうした文先生の訪朝の一番の目的は何だったのでしょうか。北朝鮮に対する経済支援や離散家族捜しの作業等、いろいろ合意しました。しかし、大切なことは、北朝鮮を追い込まないことなのです。北朝鮮は、今日あらゆる意味で迷路に押し込められていく一方です。経済的には最悪と言ってもいいでしょう。さらに、金主席が交友関係を深めていたルーマニアのチャウシェスク大統領夫妻の悲惨な末路が脳裏をかすめています。「明日はわが身」と考えたに違いありません。金日成親子がいくら強がりを言っても、心の奥底は恐怖心で満ちています。それは独裁的権力者の共通点です。

 文先生は、金主席と同郷です。金主席の性格がよく分かると言います。金主席はベトナム戦争でアメリカが敗れたとき、「ベトナムのようなあんなものにやられてしまった。本当は、俺があんな風に追い出したかった」と言って本当に悔しがったそうです。金主席の負けず嫌いの性格を、文先生は誰よりもよく知っています。その金主席が恐怖の状態にある。だから核に執着する。息子金正日書記はもっと激しい性格だといわれています。

 このような危険な爆弾を抱えて、アジアは、また世界はどうなるのか。文先生は現状を深く憂慮しておられました。文先生のとった行動は、金日成主席親子の心をやわらげることでした。それは妥協ではありません。自分の主張を明確にしながら、なお隣国に友がいることを示すというものでした。

 人間同士、思想・信条がかけ離れていても、自分を捨て、腹を割って自己の真実をさらけ出し、ぶつかって行けば、その誠意が両者を深く結びつけることがよくあるものです。文先生の真実が金日成主席親子の心を動かしたことは、確かです。

 文先生の考えは、北と南の勝敗がはっきりしている以上、北を必要以上に追い詰めてはならないということです。北朝鮮を混乱なく平和的に開放することが、必要です。そのためには、真実の愛の心がなければならないというのが、先生の最も重要な主張です。

 北朝鮮あるいは金主席は、文先生にとって怨讐でした。二度にわたって、共産党政権に捕らえられ、拷問と強制労働により、死の境をさまよったのです。普通の人間であれば半年で死ぬといわれた興南の収容所に二年八カ月間も収容され、強制労働を強いられました。文先生は、常に「神が私を守った」と言っています。そういう地獄を体験したのが、北朝鮮だったのです。

 その北朝鮮と金主席を文先生は、心から許し愛する心情を抱きながら、北朝鮮に向かったことは間違いありません。金日成主席に会う五年前の八六年十月十一日、文先生はソウルで有識者を集めて講演をしました。テーマは「南と北が共に生きる道」です。その中に文先生の北に向かう心情のすべてがあります。

 「北韓(北朝鮮)に行くその日に、真に歴史時代の中で誰も持つことができなかった民族のための愛の心情をもって、この国(北韓)と永遠に共に住みたいという心を、歴史を代表して、誇ることができるかということをいつも自分自身に問いながら歩んできたのです」

 「皆さんは今、南韓(韓国)に住んでいますけれども、北韓に住んでいる彼らと共に住みたいという心を、一つにならなければならないという心を持ってこそ統一の道が開けるのです」

 「共産主義は敵ですが、彼らは敵ではありません。北韓を眺めながら胸がつまって、惨めに暮らしている我が同胞のために涙ながらに『あなた方の苦しみと共に生きて、解放の一日を準備してあなた方の前に現れます』と誓い合える、統一のための実践運動がここにおいて展開されるならば、北韓に行ける日も遠くないことでしょう」

 このように語ったまさに五年後に文先生は、北朝鮮を訪れることになりました。彼らと「共に住みたい心」を抱きながら、怨讐を超えて、愛の心を確認するために。

 こうした先生の心情が、歴史に奇跡を引き起こしたのだと思います。文先生の哲学の基本は「真実の愛」に尽きます。そしてその愛は、「怨讐を愛する愛」です。自分を殺そうとする敵を前にして、本当にその敵を愛することができるかと、常に自問しながら生きてきたのが文先生です。その心が金日成親子のかたくなな心を溶かしたのです。

 世界平和の根本は、怨讐を超える愛を一人一人が自分のものとすることができるかという問題に帰着します。そのことを文先生は我々に身をもって教えてくれているような気がします。勝共運動の本質も統一教会が教えてきた宗教思想の根本も、真実の愛にほかなりません。

 世界平和を唱える資格を持つ者は、自らの心に平和をおさめる者です。それは愛です。敵を愛する愛です。結局それは二千年前に、キリストが十字架の上から叫んだ愛と許しの主張なのです。彼は天国は心の中にあると言いました。汝の敵を愛せと言いました。これらはキリスト教の伝統です。文先生は、この精神を実践し、世界平和の基礎を築こうとしているのです。







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