久保木修身回顧録「愛天 愛国 愛人」目次へ

世界平和のとらえ方

一つの世界と普遍的価値

 経済の動きは、確実に国境を越えています。通信の発達により、一瞬にして地球の裏側の出来事が我々に届きます。東京・ニューヨークの日帰りも夢ではなくなるでしょう。地球は確実に一つの世界を目指しています。

 米ソ対立による冷戦の終結が、一つの世界への期待を漠然と抱かせました。しかし、ことはそう簡単ではありません。見えて来るはずであった、新しい世界秩序はいまだ闇の中です。核戦争の恐怖が後退したとはいえ、世界の将来は混沌としています。人類はどこに向かおうとしているのでしょうか。

 問題は明らかです。経済や通信・交通などの分野は、グローバルに展開しているのに、現実の政治や我々の意識はグローバルになっていないのです。そのギャップが未来を見えなくしています。現実の政治は、国益を前提として、国家の秩序と意思を創造しているのですから、グローバルな現状についていけないのかもしれません。

 しかし、歴史の大きな潮流は、確実に一つの世界を目指しています。しかし、現実の政治と私たちの意識はいまだ狭い国境の枠の中にあります。国家意識すらなく、地元に利益を還元することばかりに意識をとらわれている政治家も多く見られるのが現状です。

 さて、一つの世界に向かう時代状況の中にあって、いかなる自覚が必要でしょうか。結論から言いますと、それは人類共通の普遍的価値の探求ということになります。こういう言い方をすると、またぞろイデオロギーかと眉をしかめる人もいます。共産主義の崩壊により、イデオロギーの時代は終わったのだと言います。「歴史の終焉」を説く学者も現れました。本当にイデオロギーの時代は終わったのでしょうか。

 イデオロギーの終焉を説く学者は、次の時代を多元的価値の時代と見ているようです。理想と理念のもとに人間を縛りつける時代は、共産主義とともに終わったと言うのです。共産主義の実験と失敗が教える教訓があります。それは、イデオロギーを立てると、結局国民の自由を束縛し、国家システムは硬直するということです。確かに、共産主義国家においては、その通りです。しかし、だからと言って、イデオロギーそのものまでもすべて抹殺しようとするのは、どうでしょうか。どんなイデオロギーかが問題なのです。

 多元的価値とは、要するに共同体のルールを犯さない限り、誰が何を考え、何を行い、どんな生活をしようともかまわない。人それぞれ勝手であるということです。本当にそれでいいのでしょうか。法律にさえ抵触しなければ、不倫も淫乱も許容すべきなのでしょうか。現実の世の中は、このままでよいと肯定すべきほど、住みよいのでしょうか。

 多元主義が個性の尊重ということを前提としているならば、私も賛成です。しかし、価値相対主義を意味するならば、大変危険な考えだと思います。普遍的価値と多元主義は、私に言わせれば矛盾する概念ではありません。二律背反ではなく、多元主義が成り立つ前提が普遍的価値なのです。

 たとえて言えば、目が二つあるということは、すべての人類に普遍的に言えることです。しかし、目のありさまは、五十億人類すべて異なっています。多元なのです。これを個性と呼んでもいいかと思います。もし、多元を強調するあまり、普遍を否定すれば、三つ目や一つ目を求めることも可能です。しかし、現実はあり得ません。それはあくまで奇形なのです。

 精神の分野でも、同じことが言えると思うのです。精神の多元を強調するあまり、精神の普遍を否定すれば、精神の奇形ができあがる。精神の多元は、もちろん個性を意味します。この個性は、普遍を前提にしなければ危険なものです。

 今日、時代が「一つの世界」を目指して流れています。その時、一番必要となるのは、精神の普遍性ではないでしょうか。自由の名の下に、個性の伸長を目指しています。自分らしさの追求です。自己実現が教育の現場でもまことしやかに論じられています。その結果、精神の奇形が世の中に蔓延しているのです。今私たちに必要なものは、自分らしさを強調する前に、人間らしさを追求することなのです。

 人間とはそもそもいかなる存在なのか。人間が人間として生きる普遍的な意味は何なのか。そして、人類はいかなる未来に向かわなければならないのか。これらの問いは、人間として普遍的に求められてきたものです。個性は、こうした問いを踏まえながら伸ばさなければ、全体の調和を乱す原因となりかねません。普遍と多元、全体と個、これらは相対立するものではなく、相互に必要なものであり、全体の調和を奏でる二つの要素です。

 こういう観点から考えてみるならば、人間の基本的あり方を問い、人類の理想を希求するイデオロギーは不可欠なものであることが分かります。地球が一つになる時代を迎えて、私たちは普遍的なイデオロギーをますます求めなければならないのです。共産主義の終焉は、共産主義イデオロギーは人類の普遍的価値を示すものではなかったということを教えています。なぜなら、それは人間の内的本質を無視した無神論的唯物思想に基づいていたからです。

 イデオロギーの時代が終わったのではなく、本当のイデオロギーの時代を迎える過渡的時代が現在であるということです。


日本人の美的価値で世界に貢献

 時代は、一つの世界を目指しています。女性国家日本はそれに対して、いかなる貢献が求められるでしょうか。韓国の忠北大学の金泰昌教授は、「地球村時代を目指す二十世紀の最後の段階で、日本的貢献をどういうところから探すかと申しますと、はっきり言えば政治的価値でも経済的価値でもありません。それは美的価値と言えます」と講演の中で述べています。

 美とは、主体の愛に対して応える対象の価値です。例えば、主君の愛に対して応える臣下の忠節が美です。また親の愛に対して応える子供の孝が美です。夫の愛に対して応える妻の烈が美です。このように美とは忠孝烈という対象の価値として表れるのです。日本文化の本質は、攻撃的、動的な価値ではなく、平和的、静的な価値です。ですから、下手に攻撃的行動をすれば、節度を失い、醜悪さを増し、近隣諸国にも多大なる迷惑をかける愚を犯すことになるのです。

 日本も攻撃的文化に染みついた西洋に倣うのではなく、日本らしくあるべきです。発展し拡大することだけが、国益とは限りません。

 戦後日本は、奇跡的な繁栄を遂げました。経済大国といわれるようになった日本ですが、世界のために何を与えることができたのでしょうか。歴史的に、大国といわれた国は、哲学や文学、あるいは科学、芸術などをもって世界中に影響を与えてきました。

 以前イギリスに行った時に、日本はソロバン片手に世界中に出ていって、金儲けだけを教えるのかという新聞記事を見たことがあります。私は深刻に考え込んでしまいました。この日本に生まれて、私たち自身も自覚し、世界の人たちから尊敬される日本になりたい。こう思う気持ちが切実にわき上がってきました。そんな気持ちで、世界を回っている時、ふと気づいたことがあります。

 欧米は偉大な文明の遺産を受け継ぎながらも、エゴイズムによって衰退しつつある。日本は、欧米のようなこうした文化・文明があるわけではないが、良い悪いは別にして天皇陛下を中心にして国民が一致団結してきました。自己を滅して主君に仕える精神がこの国を支えてきました。まさに「忠孝の精神」です。この精神こそが、これからの世界の平和と安定に欠かせないものだと思うのです。

 日本の美的価値の中心は、犠牲の精神です。本当に正しいことのために、犠牲を払っていける。妻の献身と、母の慈悲が家庭を背後で支えるように、日本の献身と犠牲、そして慈悲が、これからの世界を背後で支える大きな力となるでしょう。

 幸い、日本はこれまで長い歴史の中で、こうした文化、伝統を培ってきました。松尾芭蕉が日本人に愛され続けてきたのは、彼が日本人の美意識を代表しているからでしょう。「古池やかわずとび込む水の音」。水の音を通して、自然の静寂を表しています。しかし、この静寂は単なる自然の静寂ではありません。宇宙的静寂なのです。私たちは日常の様々な思い煩いに苦しんでいます。人間関係や、仕事のこと、将来のこと。しかし、そうした煩い、我執、煩悩を捨て、宇宙的静寂に自己をゆだねよと言うのです。そうすれば平安が訪れるのです。

 自分を捨て、大きな宇宙的生命に自己をゆだねる精神は、キリスト教が説く自己否定の精神と同じです。芭蕉の俳句に貫かれている精神は、「軽み」と言われています。今はやりの軽薄短小とは意味が違います。「人生の重荷を捨て、我執を断つ」という精神です。大きな生命にゆだねることで、自らの煩いを捨てる生き方を意味します。

 水墨画が愛されたのも、日本人のメンタリティーに通じるものがあったからです。水墨画の精神は、最小限の墨で、最大限の効果を表そうとします。それは象徴的に描くことです。これを描かなければ、もうそのものではなくなるというぎりぎりまで余分なものを削るのです。「墨を惜しむこと、命のごとく」とは、元の画僧が語った有名な言葉です。表現したい世界を表現せず、むしろ積極的に秘めること、隠すことで、表現するより以上の効果を得ようとするのです。

 茶道も、日本独自の精神文化です。もともとは単に中国の飲茶の風習だったそうです。それが日本に伝わると、日本人の精神生活に強い影響を与える精神文化に発展しました。

 茶道の精神は「わびの美」と言われています。目立たぬことに心がける精神です。禅の思想がベースになっています。この世は無であり、存在は空である。だから目立つものを否定する。つまり、外形的、表面的なものより、内面的、精神的なものを求めようとしたのです。

 わびを表す代表的な短歌が、『新古今和歌集』の「見渡せば花も紅葉もなかりけり 浦のとま屋の秋の夕暮れ」と言われています。見渡しても花もない。紅葉もない。うらさびれたとま屋(小屋)だけが見える。それも淋しい秋の夕暮れの一風景。西洋人の美的感覚ではまるで理解できない詩です。地味で目立たない静寂の世界を、日本人は愛してきました。

 このような伝統的美意識は、元来日本人が女性に求めてきたものです。良妻賢母とは、夫に対して献身的であり、子供たちには慈悲深く、自らは空気のような存在として目立たずつつましく生きる姿です。夫や子供たちのために犠牲になることを厭わず、ただ仕えること、尽くすことに喜びを感じるそういう女性像に、美を感じてきました。この精神は武士道にも見られるのです。

 世界が一つに向かう傾向を示しながらも、一方では多元性の時代を主張する向きもあります。より良き多元の時代を迎えるためには、世界は深いところで一つに結ばれる必要があります。その時、どの国も自己の国益ばかりを主張して、エゴむき出しの状況では、世界には早晩、雲散霧消の危機が訪れることでしょう。どこかに、世界全体のために自らを犠牲にして、奉仕する国が現れなければなりません。その国に日本がなるべきだと私は主張したいのです。そして、そのための文化的伝統は既にあるのです。

 世界から尊敬される日本になるには、日本的美意識をもって一つの世界実現のために奉仕することです。それは、同時に「和の精神」を一国の次元にとどめることなく、他国との関係で生かすことにほかならないのです。


一つの世界と宗教の役割

 冷戦が終了し、東西問題が解決したと思ったとたん、別の問題が頭をもたげてきました。民族問題です。もちろんこの問題は、昔から存在していたのですが、イデオロギーの対立の陰に隠れていたに過ぎません。それに、ソ連では共産主義思想により民族問題は解決したという建前がありましたので、内部の民族的対立を表面化させることができませんでした。実情は、軍事力による抑圧でした。その後のソ連崩壊や、ロシア内部の民族抗争を見れば、そのことは明らかです。

 さて、この民族問題はなかなかやっかいです。一つの世界に向かう時代の潮流にとって、最も大きな障害になるのではないでしょうか。コスモポリタニズム(世界主義)とナショナリズム(民族主義)の対立と言ってもいいかと思います。民族主義それ自体は、決して悪いものではありません。日本人がアイデンティティーを明確にすることは、当然のことです。

 しかし、現実の国際政治の世界では、民族主義は狭い形で現れることが多いようです。これが自民族中心主義であり、民族エゴです。これは自民族の繁栄だけを追求しようとする姿勢です。こうした民族エゴや一国中心主義が、互いに対立すると戦争という悲劇を生み出してきました。日本がかつて隣国を蹂躙したのも、狭い民族主義の表れでありました。

 こういう民族主義を克服する道は、深い宗教性しかありえないというのが、私が強く主張したいことです。そもそも、「自分は日本人である前に、神の子である」という考えを徹底して教育するのが、普遍性を帯びた宗教の主張です。宗教にも、民族的次元を脱皮できないものも多いのですが、少なくとも世界宗教と呼ばれているものは、民族主義を克服してきました。キリスト教、仏教、イスラム教などは、民族的壁を相対化しました。人類は皆神のもとにおける兄弟だと主張します。あるいは仏の慈悲に包まれた兄弟と考えます。

 本来、キリスト教の世界の中では、フランス人であるとかイギリス人であるということは、一つの個性を示すことではあっても、それほど重要な要因ではありませんでした。彼らは、フランス人である前に、神の子であり、クリスチャンでした。イスラム教の世界でも同じです。オスマントルコ帝国内では、アラブ人とかトルコ人ということは、さほど大きな問題ではありませんでした。アラブ人である前に、トルコ人である前に、まずアラーの神の子供と考えていたからです。

 そういう宗教性が本当の意味で浸透し、高まっていれば、民族意識は当然弱められます。宗教心が低くなれば、民族意識が逆に高くなります。私たち人間は、何かに帰属しなければ生きていけません。宗教的帰属意識が弱まれば、それに代わって民族的帰属意識が強化されるのは、ある面で当然です。

 もちろん、歴史の様々な局面では、人間の宗教的高まりを利用して、戦争に駆り立てたり、他国を侵略したことは、多々あります。例えば、ボルジア家出身のローマ法王が、自らの政治的野心と行動を、カトリックの名のもとに正当化したことは、よく知られている通りです。十字軍戦争にしても同様です。彼らは、宗教の実践者ではありません。キリスト者の仮面を付けてはいますが、内実は権力欲にとりつかれた、我欲の政治指導者に過ぎませんでした。つまり、宗教本来の精神が、政治的野心によって蹂躙され、利用されてしまったのです。

 私が主張したいのは、宗教本来が持っている精神の復興なのです。それが民族主義を克服する唯一の道だと思うのです。しかし、とても残念なことは、また人類にとって不幸なことは、民族問題を解決する道は、おそらく宗教しかありえないのに、その宗教が今日何百、何千と分裂し、相互に紛争を引き起こしていることです。

 宗教が一つになる道はないのでしょうか。人類を一つにする道が、宗教に期待されているとしたら、まず宗教者が一つにならなければ、それは不可能です。もちろんこれまでも、キリスト教界などでエキュメニカル(超教派)運動は行われてきました。ただ必ずしも成功しているとは言いがたいようです。

 自己の教派の優位性を主張しても始まりません。また教理の正統性を主張しても問題は解決しません。おそらく、高等宗教といわれる世界宗教は、教えの根本はそう違いはないものと思われます。私自身、立正佼成会に籍を置いていた立場から、統一教会の教えを学んでみて、その共通性に驚いたほどです。仏教とキリスト教も本質的な部分では違いはないと私は信じています。時代背景の違いや環境の相違などによって、表現形式が異なっているだけなのです。

 文先生が数百人の学者を動員し、十年の歳月を費やしてまとめた『世界経典』が出版されました。この本は、世界中の諸宗教の教理が同じメッセージを伝えようとしていることを明らかにしています。

 私たちは、これからは相互の違いに目を向けるのではなく、一致しうる根っこの部分に意識を向けて、協力する体制を整えるべきだと思います。そして、共通する目標を立てながら、各教団は世界の平和の実現のために一致して貢献すべき時代を迎えています。宗教一致の努力、それは根っこの共通部分を見ることと、共通の目標を探ること、この二つです。深い根本と高い目標さえ一致すれば、中間はさほど問題ではなくなります。宗教の本質は皆同じであるという考えのもとで編纂された『世界経典』は、各宗教間の教理の一致性を体系的に示したもので、英語で書かれており、現在日本語に翻訳中です。

 こうした宗教者による一致の努力が実現すれば、その地平に世界の一致と平和が見えてきます。この時代に日本がなしうる貢献は決して少なくありません。以前から、日本人は宗教音痴だとよく言われてきました。本当にそうでしょうか。先程、申しあげましたように、日本の伝統的文化にはむしろ深い宗教性がにじみ出ています。芭蕉の生き方、あるいは茶道のしきたりは、キリスト教の修道生活を彷彿とさせます。武士道の精神は、イエス・キリストに殉じた殉教者の精神構造となんら違いがありません。ただ、明確な教理がなかっただけなのです。しかし、そのことがこれからの時代に幸いするかもしれません。

 言葉になった教理は、言葉の対立を生む可能性があります。日本人は言葉の対立を好みませんでした。曖昧でわかりにくい民族たるゆえんです。しかし、深い宗教的文化伝統を残しています。こうした深い宗教的伝統を生かして、各宗派の教理の深さを理解し、それぞれを尊重し、尊敬しながら、相互の和を図る役割が日本にはあるのかもしれません。対立を和らげるのは、母の役目です。犠牲的精神と慈悲の心と、深い宗教的精神で諸宗教の一致を図ることに努力すれば、世界の平和と安定に日本は本当の意味で貢献することができるはずです。


国連の限界と世界平和連合への道

 ところで、冷戦時代、国連は無能な世界組織でした。世界の紛争解決に何の貢献もできなかったからです。最高意思決定機関である安全保障理事会の五大常任理事国が米ソ英仏中です。この五カ国には拒否権が与えられ、一国でも反対すれば、何も決定できませんでした。アメリカの提案はことごとくソ連の拒否に遭い、ソ連の提案にはアメリカが反対しました。国連は、無能の組織であるばかりか、ソ連のプロパガンダに利用されるばかりの危険な存在に成り下がっている、というのが実情でした。

 その国連が、冷戦が終わって、にわかに脚光を浴びるようになりました。ソ連が崩壊し、中国が実質的に資本主義的政策を取り始めることにより、不毛な対立が消えたからです。世界の紛争解決にPKO(国連平和維持活動)の活躍が目立つようになったのも、冷戦終結の賜物と言えるでしょう。しかし、それでもなお現在の国連では、世界の様々な問題を解決するのは不可能だと断言できます。

 様々な問題が指摘されています。経済問題や人権問題が恒常的にあるようです。しかし、それらは表面的問題です。構造的問題としては、まず現在の国連は、第二次世界大戦の戦勝国家群が作った組織であるということ。国連の本当の名前が、ユナイテッド・ネイションズつまり連合国というのを見ても分かります。日本やドイツと戦った連合国がそのまま国連になったわけです。しかし現在、敗戦国だったドイツや日本が経済大国としてのし上がってきました。今の国連の最高意思決定機関のありさまは、現実の世界情勢を反映していません。

 次に問題なのは、国連はそれぞれの国家主権に対する上位機関ではないということです。主権はあくまで各国が持っています。分かりやすく言えば、国連は世界政府ではないということです。主権を持ったそれぞれの国の討議、調整機関に過ぎないのです。時代は一つの世界を目指しています。そして経済、通信・交通の分野では一つの世界が実現しつつありますが、国連は一つの世界を目指す組織ではありません。つまり、現状の国連では、世界の紛争を最終的に解決することは不可能なのです。ボスニア・ヘルツェゴビナの紛争を見ても明らかです。

 しかし、もっと根本的問題があります。それは宗教者の意見が反映するようなものになっていない点です。国連を構成する単位はあくまで国家です。国連に発言権を持つのは、現状では各国家の代表です。たとえ人口が数十万の小国でも国連を構成している国家に違いありません。彼らは、国連に大使を送っています。

 しかし、宗教団体はその教団の代表として国連に発言権はありません。世界の紛争を解決する上で、宗教の視点がすっかり欠落しているのです。国連はあくまで、国家を前提として成り立っています。しかし、世界が一つの共同体を作らなければならない時代的な要請があるならば、そのために宗教の視点は必要不可欠なものです。人間に理想追求の力を与えてきたのが、主に宗教だったのは、歴史をひもとけば明らかです。

 宗教の本質はもちろん、人間の内面に向けられています。どんな人間になるべきかを問うのです。内なる悪を追放し、善に従うように自らを仕向けます。しかし、個人の心のあり方、人間としての生き方は、当然他者との関係で生じるものですから、個人としてどう生きるべきかは、他者に対してどうあるべきかという問題と同じ問題です。宗教の説く心の天国は、それだけで完結するものではありません。家庭の天国、国家の天国、世界の天国につながる必然性があります。こうした地上の天国を実現して、個人の心の天国が初めて完結するのです。宗教は理想を追求してやみません。この力を無視して、一つの世界を求めることには、限界があります。

 宗教が本当に一つになれるのか。世界の諸問題に宗教者たちが一致して取り組むことができるか。これができるならば、世界の未来は明るいものとなるでしょう。

 文先生は、今の国連に代わる世界組織として、一九九一年に「世界平和連合」を設立しています。これは世界の諸問題を解決する政治組織です。その眼目は、各国が利己主義を克服し、人類共通の敵である貧困と無知と疾病と罪悪、さらに環境破壊に取り組むことにより、来るべき二十一世紀に相互信頼と道義の時代をもたらそうというものです。世界政府の雛型と言ってもいいかと思います。

 これに先立ち、文先生は世界の大統領、首相経験者によるOBサミットを提唱しました。これを私が福田赳夫元総理に申し上げたところ、福田先生はそのアイデアに大変感動され、早速この実現に動かれました。

 さらに、文先生はこの「世界平和連合」を「体」とすると、「心」に当たる組織として既に「世界平和宗教連合」を設立しています。これは世界の諸宗教の代表者からなる「宗教世界の国連」です。

 人間の体が心を無視して機能しないように、世界平和連合は、世界平和宗教連合を無視することはできません。これまで、政治と宗教の関係は好ましいものではありませんでした。政治が宗教を蹂躙するか、利用するかのどちらかでした。こうした不幸な関係を清算して、理想的な世界組織を作ろうと提案しています。

 この世界平和宗教連合とは、先程言いましたように、宗教の一致運動なのです。本質を求めて、一つになり、目標を共有して一致していく運動です。こうした運動が実現すれば、真の世界平和は夢ではなくなります。


政治家に期待すること

国民大衆を教育する力を

 日本の政界は、一寸先が闇という視界ゼロの状況が続いています。自民党と社会党が連立を組むという、以前では考えられない現象も起こりました。米ソの冷戦が終結したのですから、五五年体制も終わって当然なのかもしれません。しかし、自社連立は決して、高度な政治的判断によって、引き起こされたものであるとは思えません。いったい日本はどうなるのでしょうか。

 何度も言いますように、時代は一つの世界に確実に向かっています。本来、次の時代の政治家が本気で考えなければならない問題は、地球益・人類益という問題です。それを考えなければ、国益自体がままならない時代にさしかかっているのです。

 地球益などと言えば、青臭い書生の戯れ言と一蹴されてしまうのがおちです。一部の政治家は、国益すら真面目に考えていません。せいぜいよくて地元益です。地元に利益を還元することしか頭にありません。それも選挙のためですから、結局は保身のためです。もちろん、本当に世界のこと日本のことを心配しておられる政治家も、私の知っている方々の中にいることは確かです。しかし、多くは地元益の次元で終わっているのは、大変嘆かわしい現状です。

 九〇年代の初めごろ、私は日本全国を講演して、このままでは自民党は必ず分裂すると訴えて回りました。政治家たちの権力欲や私利私欲、あるいは怨念が激突して、国民不在の政治が横行するだろうと予感していたのです。その通りになってしまいました。

 小選挙区制になれば、政策論争が起こって、以前のような金権選挙が終わり、日本の政治状況も変わるだろうと思うのは幻想です。一つのポストを争い、以前よりももっと熾烈な争いになるでしょう。ある町では「市会議員三千円、県会議員五千円、国会議員一万円」と票の値段が決まっていたそうですが、小選挙区制によって、その値段が跳ね上がるでしょう。

 ヨーロッパの格言に「一国の政治は、その国民の水準を乗り越えることができない」という言葉があります。国民の政治レベルがあまりにも低すぎるのです。その国民のレベルに政治家は迎合し、一緒になってレベルを下げています。選挙という現行のシステムは、国民を代表し、民意を反映するという点で、大切ですが、現状は国民の理不尽な要求に議員が迎合するという羽目に陥っています。典型的な衆愚政治です。

 迎合的な議員を国民は尊敬しているわけではありません。ある人は金を受け取りながら、こう言います。「議員は悪いことして儲けているんだから、こういう時に取り返すのよ」と。政治不信極まれりです。

 政治家は、欲望だけが肥大化していく国民大衆の代理人であってはなりません。むしろ国民一人一人の眠っている「本心」を引き出す努力が必要です。この本心は単に本当の心という意味での本心ではありません。真の意味で善を指向し、真の幸福を得ようとする心です。キリストの言う神の愛であり、釈迦の言う慈悲であり、孔子の唱えた仁です。それは誰の心にも本来あるものです。そういう本心に語りかけ、それを引き出す努力をしなければ、国民も政治家も欲望と保身により、この日本を滅ぼしてしまうでしょう。

 政治家に求められる大切な資質は、国民大衆を教育する力です。国益や世界益を重要視することの必要性を示し、時には大義のために犠牲を分かち合わなければならないことを教えなければなりません。真の利益は目先のことだけではありません。回り回って己に返ってくる場合があります。「情けは人のためならず」とは、本来そういう意味です。自分に返ってくるのです。

 その時に、本当の意味での政治家らしい政治家、国家らしい国家が生まれてきます。民主主義は絶えずそのことを問われているということを私たちはお互いに反省しなければならないのです。

 一九九〇年の二月に、「勝共推進議員の集い」がありました。そこに百五十名の国会議員が集まり、その場で私は、国民の真のニーズつまり本心の欲求を探りその方向づけを政治家は行わなければならないと訴えました。果たして自民党は国民のそうしたニーズをとらえようとしているのでしょうか。私はその場でこう予言しました。「このままでは自民党は遠からず分裂する。そして日本の政治は大混乱に陥る」。その後の政局が私の懸念した方向に流れたことは周知の通りです。

 日本は今日、数多くの問題が国内外に山積しています。しかし、戦後この五十年を比較的平穏に経済だけを考えて生きてきた結果、すっかり平和ボケになってしまいました。しかし、危機は確実に日本の内部に浸透しています。国民大衆も政治家もそれに気づいていません。中国のことわざに「亡国を知らざるは、すなわち亡国の兆しなり」という箴言があります。滅びようとしている国家の状況を本質的に認識できないことは、すなわち国家滅亡の最たる兆候であるという意味です。

 国民大衆は、安逸の中で、自分だけの幸せを求めて汲々としています。政治家は保身の塊です。ラ・ロシュフコーという人が、『道徳的反省』という本の中で、「国家における奢侈と、極度の文明とは、衰退の確かな前兆である。というのは、すべての個人が自己利益のみを考えて、公益を省みなくなるからである」と言っています。

 この国家とは、まさしく今日の日本のことではないでしょうか。


政治に理想を

 国民も政治家も自己の利益にのみ関心を向けています。多少次元の高い政治家でも国益の次元です。しかし、真の国益は世界益の中で保証されることに気づいていません。どんな世界にしたいのか。否、どんな世界、どんな日本に住みたいのか。こんな理想を語ることは無意味なのでしょうか。

 今、政治に欠けているのは、理想を語ることだと私は思っています。官僚主導の政治からは理想が見えてきません。理想は政治家が示すものです。十七世紀のフランスの名宰相リシュリューはこう言いました。「政治とは可能なことを実行する術ではない。必要なことを可能に導く手腕だ」。もっともです。官僚は可能なことを実行に移す術を知っています。しかし、それだけです。私は、このリシュリューの言葉を受けて、さらにこう述べてみたいと思います。「政治とは、こうありたいと思うことを可能に導く手腕だ」と。

 戦後、日本は経済発展のために馬車馬のごとく駆け抜けてきました。そして、世界の先進国にようやく追いつくほどの繁栄を謳歌して、ふと我に返ってみると心に何かすっぽり空洞がある。金持ちになりさえすれば、幸福になれると思ってきたが、肝心なことを忘れてきた。家庭のこと。子供の教育のこと……。これで良かったのだろうか。私たちは曲がり角にさしかかっています。

 人間は、心と体の両面を持っています。体は、本能などの外的欲求を満たすことで、満足を感じます。心は反対に内的精神的欲求を満たすことで、満足感を得るのです。それは愛による満足です。人間は本来、この両面を満たしてこそ、真の満足を得られます。しかし、戦後の日本は、精神的欲求を外的欲求の前に犠牲にすることで、成り立ってきたのかもしれません。

 本来、政治家の役割は、国家の秩序の維持と安定を図り、国民の幸福に貢献することです。とすれば、国民の外的欲求だけを刺激して、経済繁栄だけを目指すのは片手落ちです。国民の精神的欲求までも視野に入れて精神的満足を満たすことのできる国家づくりに貢献しなければなりません。

 国民が精神的に満たされる世界、それを主張してきたものが、まさに宗教にほかなりません。宗教は、人間の理想を追求してきました。これは、宗教家だけの仕事ではありません。政治家と国民とそして宗教家が一致協力して実現するものです。この理想追求の意欲を失ったところに、希望ある政治を期待することができません。大切なことは、理想に近づこうとする努力です。

 内村鑑三は、「政治とは何か。理想を国民と国土との上に描くことではないか」と断じています。政治が色あせ、政治家に魅力がなくなったのも、理想が語られなくなったからです。今こそ、私たちは、どんな日本に住みたいのか、そしてどんな日本にしたいのかを考えるべきです。イギリスの大政治家グラッドストーンは政治の目的について語りました。「善をなすに易くして、悪をなすに難き社会をつくること」。


政治と宗教を考える

 政教分離は今や世界の常識となっています。マックス・ウエーバーは、「職業としての政治」という学生向けの講演の中で、イエス・キリストの「右の頬を打たれたら、ほかの頬を向けてあげよ」という聖句を取り上げます。これは個人の倫理としては尊いが、政治の次元では無責任だと断罪します。例えば、北海道が他国から侵略を受けたら、九州をもどうぞというわけにはいかないと言うのです。キリスト教の愛の心情倫理は、無責任である。政治は動機の純粋さ以上に、結果における責任を問うということです。

 これらのマックス・ウエーバーの見解は、けだしもっともです。しかし、キリスト教及び宗教を心情倫理と規定して、無責任だと断罪するのは、納得できません。イエス・キリストの言葉をはき違えています。キリストがこの言葉を語った真意は、相手にそれ以上の悪をさせないために、報復を禁じたのです。悪の拡大と争いの継続を恐れたのです。打たれて、ほかの頬を向けることは、あくまでその手段に過ぎません。ほかの頬を向けることで、相手にさらなる悪を助長する可能性が高ければ、向けてはならないのです。問題は、ほかの頬を向けるかどうかではありません。悪を止めることなのです。

 北海道を侵略されたら、その悪を止めなければなりません。九州を差し出すことではありません。イエス・キリストも神殿を自分の金儲けの場にしている者たちに怒りを発し、「あなたがたは強盗の巣にしている」と言って、力で追い払いました。今日、キリストがもし生きていたら、共産主義国家ソ連の侵略を絶対に許さなかったはずです。共産主義者の悪を助長させないためです。その政治的主張に関しては、マックス・ウエーバーと同じ見解です。

 宗教者が動機のみの純粋性を問題にして、結果に無責任ならば、本当の信仰者とは言えないでしょう。動機はどうあれ、結果に責任を持つことのほうが、動機は純粋だが、結果に無責任よりはましです。しかし、動機も純粋で、結果に対しても責任を持つほうがいいに決まっています。宗教者は本来そうであるべきだと私は考えています。

 政治家と宗教家は一致協力すべきです。政治家は宗教家から心のあり方と理想を学び、それを現実的諸条件の中で実践し、実現していくのです。これまでの政治は、経済とのかかわりに偏りすぎていました。これからは宗教の観点を踏まえて、政策を練り上げていかなければならないのではないでしょうか。

 政教分離は、両者の歴史的不幸なかかわりが生み出した産物です。政治家が己の野心を実現するために宗教を利用してきたのです。宗教精神が政治に反映した歴史もないわけではありませんが、政治に蹂躙された傷跡が深すぎたのです。

 政教分離の原因は、宗教サイドにもあります。諸宗教が一致の努力を怠ってきたからです。政治の場が、宗教同士のドグマがぶつかり合う場となりました。例えば、学校で宗教的倫理教育が必要だとします。その時、アメリカのように様々な宗教が入り乱れる国にあっては、収拾がつかなくなります。キリスト教的教育か、あるいはイスラム式か、仏式かということになります。それならば、いっそのこと政教分離しようということになったのです。政治的思惑が絡む場から、宗教同士の争いを避けようとしました。

 宗教家同士が一致の努力をしていたならば、政教分離という歪んだ関係を改善できたかもしれません。子供の倫理道徳教育に宗教性は不可欠です。この問題をどうするかということからでも、宗教は共通の討論の場を持つべきです。今ほど、政治及び社会に宗教的観点が必要とされている時代はないのです。


隣国との関係が生命線

 女性国家日本はまず、隣国(韓国・中国)との関係を最重要視すべきであると述べてきました。これまでの日米関係は、冷戦構造の中に日本が期せずして、組み込まれた結果、成り立ったものでした。日本自体の努力なしに、アメリカの保護のもとで繁栄を謳歌できたのです。これからはそうはいきません。

 日米貿易摩擦に見られるように、アメリカはこれからも対日本、あるいは対韓国に圧力をかけて、時には理不尽な要求を無理押ししてくる可能性があります。私はもう十年以上も前から、日本だけで欧米と交渉してはならないと言ってきました。いくら正しいことを言っても、日本だけが突出して孤立化するのが目に見えています。現にそうなっています。

 日本はその時、韓国や中国あるいは台湾と共同して、欧米との交渉にあたることが必要です。日本は今日、東アジアの国々、とりわけ近隣国である中国・韓国、その中でも特に隣国韓国と深い信頼関係を構築する必要があります。

 真の意味で世界に尊敬される国家になるために、隣国を大切にして、隣国からまず尊敬を受ける国になる必要があります。そのためには、まず最低限日本がやらなければならないことは、過去を清算する姿勢を持つこと。それがなければ、この両国の未来はありえないということです。

 そして、韓国が必要としていることで、日本ができることは極力行うこと。例えば、韓半島の統一問題があります。これは、早ければ今世紀中にも実現される可能性があります。しかし、ドイツで起こったような形は、できるだけ避けたいというのは、韓国の希望であり、日本も中国も同じです。ドイツ型の統一は経済的なリスクが大きすぎます。それで、韓国としてはできるだけ統一を先延ばししようというのが本音のようです。

 しかし、こればかりはいつ起こるか分かりません。何せ、北朝鮮は、既に経済的には崩壊しています。情報統制が行き届いているために辛くも国家が保たれているに過ぎません。日本は、北朝鮮の開放を極力助けて、できるだけ混乱のない形での統一に援助を惜しむべきではありません。それは、長い目で見れば、日本のためでもあります。この地域で混乱や紛争が起これば、日本に混乱が飛び火してくることは明らかです。

 韓半島統一は、日韓の信頼関係を構築する絶好の機会です。日本の経済力がこの地域の安定のために貢献することになるのです。私たちは、日韓の信頼関係を構築するのは、政治家や官僚たちの努力だけでは不可能だろうと考えています。韓国人の反日感情は国民一人ひとりの心の中にしっかり根を下ろしています。それを一つ一つ丹念に解消する努力をしなければ、政治家同士の上っ面の関係に終わります。

 そこで、私たちは長年、日韓の国民が姉妹結縁の関係を結ぶことを推進してきました。草の根の親善交流です。日本人が韓国に行き、韓国人が日本に来て、姉妹関係を結ぶ。草の根的な付き合いを進めてみると、相互に厚い友情が芽生えてきます。そういうところから、過去の怨念を少しずつ少しずつ取り除いていく。その努力が必ず実を結ぶ時が来ると確信しています。

 そういう草の根的交流が進めば、日韓トンネルも夢ではなくなります。日韓相互の心の壁を取り除いて、信頼と友情のトンネルが、真のトンネルとなるのです。日韓トンネルとは、その証なのです。

 日本は戦後の恩を感じているせいでしょうか、アメリカの顔色をうかがい過ぎます。しかし、そろそろ自らの進路を自らの意思で決める時が来ているようです。かつて、岸先生は六〇年安保の時、日本の国益を考えて、命がけで安保改定に取り組みました。アメリカとの関係が日本の将来の生命線であると考えたからです。この選択は間違いありませんでした。あの時、安保に反対したすべての人々も、それ以後の高度成長の恩恵に浴することができたのです。

 もし岸先生が自分の地位や名誉に執着していたら、別の選択肢があったかもしれません。そうすれば、違った日本になっていたでしょう。日本は岸先生の決断によって、救われたと言っても過言ではありません。政治家は私心を捨てて、日本の長期的な国益を思い、決断する時が必要です。それが今です。日本にとってアジアあるいは韓国は、生き残りをかけた生命線であるのです。

 PKOを遠いアフリカや中東に派遣することも、大切な国際貢献かもしれません。しかし、日本にとっての優先順位があるべきです。世界中すべての問題に貢献することは所詮不可能です。日本はまず、隣国との関係を最重要視して、韓半島統一のために最大限の効果的援助を惜しまないことです。豆満江開発、金剛山開発など、やれることはたくさんあります。政治的名誉心や、目先の経済的野心を捨てて、大胆な選択をする政治家が求められているのです。


私心を捨てる

 政治家の決断は、重要です。間違った決断をすれば、国民に多大な犠牲を強いることになります。自分が有名になりたい。経済的な権益を得たい。こういう動機は、政治的判断を狂わせます。歴代首相の影の指南役といわれた四元義隆氏は、日本を戦争に導いた男は、松岡洋右だと言って彼を断罪しています。彼は近衛文麿内閣の外務大臣でした。四元氏は、当時松岡を訪ねたことを思い出して、こう話しています。「松岡は私心しかない男だ。彼が日独伊三国同盟を結んだのは、日本のためでもドイツのためでもない。自分が有名になるために、あんな同盟を結んだだけだった」。

 四元氏が政治家に求める資質が「私心のなさ」です。私心があれば、判断が狂います。長い目で見れば、国民を不幸に陥れます。政治家は、自分の繁栄を求める存在であってはなりません。国民の繁栄、子孫の繁栄こそが、政治家の求める眼目です。そのためには、自分をなくさなければならない。国民のためならば、犠牲になれる心情を持ち合わせていなければならないのです。

 政治家は、国家の指導者です。指導者とは、犠牲になれる人でなければなりません。人を犠牲にする人がリーダーになれば、その集団は崩壊します。自分が犠牲になれる人がリーダーになった集団は栄えます。これは、天倫なのです。犠牲になることが嫌いな人は、指導者になってはならないのです。そういう人を選んではいけないのです。指導者になるということは、大変なことです。その大変さを理解しない人は、リーダーになるべきではありません。

 今から四千年前のイスラエルにモーセという人物がいます。エジプトで奴隷であったイスラエルの民を解放する指導者です。彼が、神から召命を受けて、イスラエルの指導者として任命される場面のことが聖書に生き生きと描かれています。神がモーセに告げます。「あなたをイスラエルを解放する指導者とする。さあ、行きなさい」。しかし、モーセは断ります。自分は口べただとか、誰も自分に従わないとか、ほかにもっとましな人がいるはずだとか、いろいろ言い訳をしながら、五度にわたって神の命令を拒んだのです。何故でしょう。

 彼は、責任感が人一倍強かったからです。ことの重要性をよく知っていたのです。生半可な気持ちで引き受けられるものではありません。指導者になることの大変さ、犠牲の大きさを理解していたのです。彼は自分がふさわしくないと思っていました。しかし、神はそういうモーセを何がなんでも指導者にさせようとしたのです。私心のない彼の内面をよく知っていたからです。

 モーセが示す教訓があります。それは指導者の資質として、まず私心のないこと。犠牲になる決意があること。そして責任感が強いこと。今、日本には未曾有の政治的危機があります。混迷状態が続いています。しかし、それ自体は本質的危機ではありません。危機は、かえってより向上する契機になるからです。日本の本質的危機は、国民や政治家が危機を自覚していないこと。そして、危機を克服する姿勢を持ち合わせていないこと。さらにこの危機を克服しうる政治的指導者が見あたらないことです。


宗教のいらない世界を

 現在、我々は近代という時代の最終局面に存在しています。近代が発展と成長の時代であったのも、今日文明が袋小路に陥ってしまったのも、近代そのものの本質の故です。近代の本質とは、科学、政治、経済等のあらゆる分野で、宗教や神を切り離してしまったことです。神抜きですべてを試みようとしたのです。それがある程度成功したかに見えました。しかし、その成功はそう長くは続きませんでした。神を置き去りにしてきたほころびが非常に大きくなりました。

 政治家たちが、理想を語らなくなったのも、自らの良心に鈍感になったのも、宗教心を無視してきたからです。指導者が善に向かう心を持ち合わせていなければ、国民は何を信頼して生きていけばいいのでしょうか。国民の政治不信は、政治家の責任です。責任ある政治を施してきませんでした。体を張って、正しいことを主張し、そこに国民を導こうという指導者が見あたりません。

 国民の本心は、国民の悪に迎合する指導者を歓迎しません。それを諌めてくれる指導者を待ち望んでいます。良心の叫びを刺激してくれる指導者を望んでいるのです。私は、日本の政治家が宗教心に目覚めることを期待しています。それは特定の宗教団体に所属することでは、必ずしもありません。自らの良心を研ぎ澄ますことです。私心を捨てることです。天倫を悟ることです。そして、神の日本に対する天命を知ることです。

 各宗教がそれぞれの社会問題に対して、一致協力して取り組む姿勢ができてくれば、宗教組織というものの意味がなくなる時代が来ると、私は確信しています。教団エゴを超えて、諸問題に真剣に取り組むのです。宗教者のエネルギーが、教派間の抗争のために用いられるのではなく、一致して社会問題解決に向けられたなら、人類の未来に希望がほの見えてきます。

 宗教一致の地平上に見えてくる世界は、宗教統一です。それは教派や組織が意味を失う世界です。キリスト教による統一か、イスラム教か、仏教か、という詮索が意味を失う世界なのです。あえて言えば、神による統一であり、愛による統一です。そして天倫による統一です。一人ひとりの良心の背後に常に神が臨在し、家庭が愛に満たされるようになれば、宗教そのものが必要でなくなります。

 「政治は政治なきを期す」という言葉があります。何の対立も分化も抗争もなく、一体化した意思や秩序が成り立っている共同体には、政治がそもそも不必要だということです。少し理想に過ぎるかもしれません。しかし、政治は本来政治のいらない世界を目指しているのです。宗教も同様です。「宗教は宗教なきを期す」です。マルクスは、理想を求める姿勢において間違ったわけではありません。理想の在りかを無神論世界に据えたことが問題なのです。共産主義が滅んだからといって、理想も滅んだわけではありません。

 私たちの心の中には、既に理想があります。こういうことは正しい。こういう世界があってほしい。ところが、人間の素朴な願望を年齢とともに見失ってきました。青年時代の夢を取り戻し、理想の中に生き、理想の中に死にたいものです。

 モーセの記述があります。モーセは理想の地カナン(パレスチナ)に入ることができずに、百二十歳でネボ山で死にます。聖書はそれをこう記しています。「モーセは死んだ時、百二十歳であったが、目はかすまず、気力は衰えていなかった」。カナンに入ることができない彼は、失意のうちに死んだのではありません。彼は最後まで、理想を抱きながら死んだのです。気力は衰えていませんでした。モーセは理想の中で生き、理想の中で死にました。だから、彼はイスラエルの魂の中に生きたのです。

 二十一世紀は、宗教の時代、精神の時代になるはずです。近代の反省の上に築かれるからです。そしてその延長に、宗教が必要でなくなる世界が待ち受けています。神の真実の愛が、世界を支配する時代です。


 あとがき

 一九九四年の秋、私の辿ってきた半生のようなものを書いてほしいという依頼がありました。同じころ、混乱する日本の政局に示唆を与えるようなもの、また共産主義崩壊後の世界平和のあり方など常日ごろ考えていたことを書いておきたいと思っていたこともあり、それならば、いっそのこと、一つの本にまとめあげようと考えました。私の意識の中では、私の半生と日本の政治と世界の平和は、一つの線で結ばれていたからです。

 冷戦終結後、世界はいまだ新しい秩序を見いだせず、混迷の度合いを深めています。常々私はそういう世界を見ながら、日本が世界のためにできることは何かを考えてきました。そして、私は今ほど日本が世界平和に貢献できる時はない、今こそまさに天が与えた千載一遇のチャンスの時であると考えるに至りました。近隣諸国に多大なる迷惑をかけた戦前の汚名を返上し、アメリカに対する戦後の甘えの体質を改善する絶好の機会が到来しているように思えてなりません。

 しかしながら、日本の政局は小賢しい権力闘争に明け暮れています。日本の進路を見据えながら、責任をもって舵を取る船頭を欠いたまま、日本は暗黒の大海の波に呑み込まれようとしています。こんな日本の現状を内心忸怩たる思いで眺め、日本の将来に暗澹たる思いでいたころ、出版の話が飛び込んできたのです。

 元来、筆の重い私ですが、日本の現状と行く末を思うと、黙して静観を決め込むわけにはいきません。友人たちの激励の声に力を得て、またわが内なる声の導きのままに、筆を走らせてきました。

 できれば、九五年中の上梓を目指していましたが、心ならずも病に伏す身となってしまいました。二カ月にわたる病院での闘病生活中、私の意識は朦朧としていました。家内は私の死を覚悟したそうです。しかしその後、医者も驚くほどの奇跡の回復を見せ、私は死の病から生還しました。

 思い起こせば、私はこれまで何度も死に直面してきました。一歩間違えば、確実に命を落としていたのです。そんな体験からか、私は小さいころから、自分でない何者かに生かされている自分を感じてきました。今回も死の谷をさまよう体験をして、なお私は今生きています。否、生かされています。人生最後のご奉仕のために、神様から今一度命を与えられたのだろうと思います。

 九五年は、阪神大震災に始まり、オウム事件、金融不安と暗い事件が続きました。私には、これらが天の日本に対する警告のように思えてなりません。かつてユダヤの預言者エレミヤが、天に背くユダ国の将来を見据えて、叫びました。「私は見たが、豊かな地は荒れ地となり、そのすべての町は、主の前に、その激しい怒りの前に、破壊されていた」と。その後、ユダヤはエレミヤの懸念した通り、バビロンに滅ぼされました。国土は荒廃し、民族は捕囚の憂き目を味わうことになってしまったのです。

 しかし、危機は時に、大いなる発展の基を定めます。危機において、国民の良心が喚起され、団結してそれに対処するからです。私は、この本で日本人の良心を呼び覚まそうと試みました。袋小路に陥った日本が、行き詰まりを打開して、世界の平和と安定に貢献してほしいと念願するからです。

 本のタイトルは「愛天愛国愛人」です。この言葉は、常日ごろ文鮮明先生が語られている言葉ですが、私たちの運動の精神そのものを表していますし、私の半生もその精神に支えられてきたと言っても過言ではありません。「我々が成しているのは、統一教会の為では絶対にありません。我々は何も統一教会の為に献身しているのではありません。我々は神の大義のために、全人類の為に、そして我々の後孫の幸福の為に行っているのです」。この言葉は文先生が私たちに与えてくださった薫陶です。神と世界そして国家の大義に生きるように、私たちに教えてくださいました。神と世界を真に愛する心を基盤として、人を愛する。つまり人助けをする。これが「為に生きる」精神です。

 本は二部構成になっています。第一部は、私の半生を書きました。私が世界平和をどう見るかということは、これまで、私が辿ってきた人生行路と密接な関連性を持っています。満州での幼児体験、日本への引き揚げ、立正佼成会への入信、文鮮明先生との出会い。こうした一つ一つの体験により、私は自らの世界観を確立してきました。とりわけ、文鮮明先生との出会いは、決定的なものでありました。

 第二部は、世界の将来と日本の行方について言及しました。前半は、文先生の示された予言の内容を、今日の世界情勢を視野に入れながら、私なりに解説を加えて説明したものです。後半は、世界平和のために日本が果たすべき役割について、私が常日ごろ考えていることをまとめてみました。特に日本文化の女性的性格を生かすべきだというのが、論旨となっています。

 日本の行く末を案ずる一愛国者の半生と所見を書き連ねました。暗黒の荒海を航海する日本丸にとって、ささやかなる灯台の明かりとなれば幸いです。

       一九九六年一月一日  久保木修己





久保木修己(くぼき おさみ)
昭和6(1931)年、中国丹東市(旧満州安東市)生まれ。終戦とともに引き揚げ、13歳にして初めて日本の土を踏む。慶應義塾大学に学びながら立正佼成会に入会。会長秘書として教団の発展に貢献。
昭和37年、世界基督教統一神霊協会に入教。
昭和39年、会長に就任。
その後、国際勝共連合会長、世界日報社会長、国際ハイウェイ建設を推進する会会長、国際文化財団理事長、日韓トンネル研究会顧問、国際釣友好連盟会長の要職を歴任しつつ、欧米三十数か国、東南アジア各国を歴訪し、各国指導者との交流を深める。
このたび、世界平和連合会長に就任。


愛天 愛国 愛人
  ――母性国家 日本のゆくえ

 平成八年二月二十四日 第一刷発行
 平成八年三月十日 第二刷発行




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